2021.6.6

 曇り時々雨。TさんとEさんと一緒に「居場所はどこにある?」at藝大陳列館、「女が5人集まれば皿が割れる」at BUoY へ。

 まず岡田裕子さんの作品には本当に驚かされた。岡田さん扮する、通常は見えないことにされている「狂った」おばさん像によって、アイデンティティや他者の介入について鋭い方向から言及している。

 しかしそれは作品の話で、展覧会としては「居場所はどこにある?」展は破綻しているんじゃないかと思った。もっとも破綻している部分は、展覧会を作るにあたっての「空間」と「鑑賞者」のイメージの欠落、つまり、作品やアーティストのピックアップだけしか行なっていないのではないかという疑念が湧く構成になっているという点だ。空間と鑑賞者のイメージの欠落とは、すなわち、展覧会という形式における破綻といって差し支えないだろうと思うがどうか。


(ばらばらと思ったことを書いていくが誰にも頼まれてないしこんなこと書いても知らない誰かから嫌われたりするだけだろうけど、日本の美術業界は安楽死的状況すぎてガチでやばいと思うから元気のある時にはそういうこともしてみようと思うが、早々に飽きるかもしれないが、まあ今日はやってみることにする)


 まず「新大久保UGO」の取り組みを紹介する部分において、会場都合によってカーテンで間仕切りをすることで、UGOが行なってきた「多様性を尊重する「たまり場」」とwebsiteで説明されるような取り組みとは鑑賞者の振る舞いやビジュアルからくる印象を逆へ向かわせる仕組みになってしまっている。カーテンを含み、どう見てもインスタレーション的手つきによって配置を行ったインテリアは鑑賞者の身体に緊張を強いる。足元などにおいたモニターにイベントの記録映像を流していたけれど、もし内容を見せようと思うのであればあの構成にはしない。2020年のヨコトリの飯山由貴さんのインスタレーションの方法(Tさんが前にお喋りの中で指摘していて、なるほどと思った)のように、パブリック向けではない内容をそれでも会場に滑り込ませる隠れ蓑だったのかもしれないが、残念ながらそんな感じはしなかった。色彩の印象だけが強烈に印象に残り、他の部分はすっかり消えてしまう。映像とインスタレーションって何なんだろう。見せる前提で展示された映像作品との扱い方の差によってあの配置にはあまり見せないようにしようという意図が込められているはず。招聘したいという気持ちが先行したとしてもキュレーターは何故あの場所であのような形でアーカイブ展をやらせたのか?全く意味がわからなかった。普通にただイベントでもやればよかったんだと思う。物量とか色彩に対するオブセッションを感じる。それぞれの美学に基づくものだから他の正解もあるだろうけど、絶対にあれではない。

 また、映像作品は電源の位置とか色々な理由があるのかもしれないが、あのように(会場1Fの中央に、確かほぼ同サイズのモニターを4つ)並べ立てて、間髪入れずに見させる構成にしている割に音の干渉を避けるためヘッドホンが2つずつ(数が少ないのは仕方がないことだ)だったり、順路というものがまるで想定されていない。始まりがあって終わりがあるというリニア構成の脱構築を図っているのかもしれないと好意的に見ようとしても会場都合、運営側の都合でしかないことがビシビシと伝わってくる。同じようなサイズのモニターに映像作品を押し込んで同じ空間に並べたり、「ここからここまであなたが使える場所」というような指示をめちゃくちゃ感じるインスタレーション作品――そういった展開をしている参加作家は、おそらくキュレーターと身近な関係があるのだろう――のような、区画主義的展示方法によって作品(やアーティスト)をコンテンツとして扱っているのではないかという疑いの気持ちが刺激される。(←「青いイナズマが僕を責める」的文法)。共通の目的があって、そう扱うことで立ち上がるものがあるのであれば良いが、そういう展覧会でもなかった。一つ一つの作品は問題ではない。展覧会を通して何かを立ち上げるイメージが荒木さんのキュレーションにはないのだと思う。他の展覧会で見たことのある素晴らしい作品をピックアップして並べるという作業は、選ぶ―選ばれるという権力構造の再生産であり、キュレーターという立場を何かよくない使い方をしようとしているように私には見える。

 磯村暖さんのVoging の 作品はセゾン美術館で展示されたものだと思う。気になりながら行けなかったので見れて嬉しい反面、見上げるようにプロジェクションを行うべきではないと感じた(見ながら踊れないから)し、彫刻作品の搬入よりも鑑賞者がdanceする可能性に会場構成を振った方が良かったのではないかと思う(見ながら踊りたかったから)。会場都合で館に合わせて作品の規模を縮小せざるを得ない時、何を残すかにもっとも気を張るべきだ(how to=手引きなのだから、踊れる可能性にひらかれてほしかった)。その仕事の半分以上は招聘する側のキュレーターの領分だと思う。

 さて、2020年に同会場で荒木さんがキュレーションした展覧会「彼女たちは歌う」展で感じた問題も今回の展覧会同様、それぞれのアーティストが実践している、主題に対して輪郭をせめぎ合いながら表現しているような部分をごっそり漂白して「」にいれ、紹介のテイをとってコンテンツ化して並び立てる点であった。鑑賞者側のラベリング問題ではもはやなかろうて。空間構成と、鑑賞というパートへの関心のなさと、ジェンダーについての不勉強(おまいうと言わないで)は、「彼女」と呼ぶこと/アーティストの肖像を出すこと/「彼女たちの声」を聞くためにイヤホンジャックを穴にずっぷり刺す🙄、という問題も生み出していた(架空の展覧会のカタログとして作品をピックアップするという企画ならよかったのかもしれない。空間や人間に、つまり展覧会という方法に全く興味がないのではないか)。しかも、そんなコンテンツ化を、「アイデンティティ」や「ジェンダー」に絡めてやろうとするからちょっと本当に許せない。こんな仕事が許されまかりとおるなんて本当に嫌だ。誰か周りの人がちゃんと叱ってあげてほしい。何この日記、ただの展覧会の愚痴見たいなものじゃないか。昨日からなんかずっと怒ってるな(でも本当は毎日めちゃくちゃイラついてるけど表に出してこなかっただけなんだ)。でも、とにかくものすごく嫌だったということを書いて残しておこうと思う。


ああ、そうだ、Zineは複合的な要素を取り入れられる媒体なのだから、それを空間に展開するならさらに色々できるはず。例えば単純にゆっくりと読めるように椅子も置けるし、関連書籍を置くのも楽しいし、勉強会のイベントなどを設置すれば展覧会の機会を有効活用できる。MOM+Iさんにあってみたいな。(2021年3月末に行ったTOHでの展覧会「print(ed)-voices」も、最初から関わっていればもっと有機的に展覧会を動かせるよう原田さんを手伝い、よりいい形にすることができたであろう。力技で楽しんだが、心残りが少なからずある)

 もうこのくらいで芸大陳列館のはなしは本当に終わりにしよう。



 「ひととひと」に並んでいた神谷さんの作品は、見てあの映像について話すのは難しいが、それぞれが持っている経験を語り始めるのを後押しする効果を持っているんだと思う。帰りに川辺で自分のもつ最低な体験についてTさんと喋った。誰にも言えなくて匿名のアンケートにすら書くのを躊躇っていたことも、何となく言ってみようという気持ちになった。

 これがどういうことなのかよくわからないけど、男の裸を見せあって仲良くなるホモソ仕草のように、女は性被害を打ち明けて一緒に怒ったり殺してえと呟いたりして仲良くなったりするのがありそうだと感じたりしていた。Netflixにある「モキシー」もそういうライオットガールな感じだったね。もちろん、被害の傷についてを打ち明けるのは仲の良い人だけなので(だから本当は打ち明ける相手のジェンダーはこの話題について関係ない。でも私の場合、信頼していた男性の友人が関係する出来事の経験があるから、やっぱりあまり男性に言おうとは思えない。)、🥚が先か🐔が先かではある。


このブログ更新するのなんか色々怖いけど、まあいいや。

of course、全て所感です。