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両手放しのチャリで飛んだ日

このブログのタイトル「両手放しのチャリで飛ぶ」とは高校生のころに両手放しをしたがための自転車事故で吹っ飛んだときにみた鮮明なスローモーションの景色と言語体験から持ってきている。そのとき私はそれ以前のことと、それ以降のこと、つまり"今"の外のことを考えていた。 舌の奥で音にならずに消えることばがある。あれは夜に見る夢に似ている。思い出そうとすると感情や記憶が混線して曖昧に滲み、時として突然、普段の考え事とは別の回路で、思考はボーッとして止まっているのにそれがさらさらとことばになって口からこぼれてくるのだ。 咽頭に溜まって腐った言葉と、往来へばら撒くまんなかをずらすための言葉の、両方が交わる「形式的なフィクション」へ逃げ込む。閉じた別々の個体をつなぐカテーテルだ。 一緒に寝てもおなじ夢を見ることはできない。

お父さんが白内障になったときに、どう見えるのか聴いたことがある。白っぽい薄い柔らかいガラスか何かが眼の中にあるみたいだと言っていた。白内障の手術をした父の眼の中には、人工水晶体という薄いガラスみたいなものが入っている。 友人Mとは中学からの仲である。十余年付き合いのある彼の視力は0.06くらいだという。わたしは眼だけはやたらと良くて視力が2.0近くある。理科の授業で使うような小さな30倍のルーペを持っていて、ときどき葉っぱや埃を眺めて遊んでいるのだが、これをみるには、彼はもう一枚ガラスのレンズを挟まなければならないのだ。 眼が悪くなったら、輪郭がぼけていて色や光や影の滲んだ世界が見えるとわたしは期待している。Mや父はそれを見たのだろうか。 わたしは分厚い磨りガラスを愛している。磨りガラスを挟むことで彼の眼を手に入れるのだ。コントロールできないものに憧れているのだと思う。眼鏡を外すのは不安だとMは言った。

2016.4.28

酒をしこたま飲んだ夜、寝っ転がって響く心臓の音を聴くのが好きだ。頭に血が上ってこめかみの辺りがドッドッと脈打ち、ボーっと集中すると心臓の音がすごく大きく聴こえるのだ。あの轟音が自分にしか聞こえないのが不思議である。息を止めてみると、あれ程ではないがいまも少し聴こえる。 ばーちゃんの耳は、大きな低い声で話してやらないと奥まで音が届かない鈍い穴だ。静かなのだろうとおもってなんとなく羨ましいような気がしていたけれど、もしかしてあの轟音がよく聞こえるかもしれないとおもうと、わたしはもう自分の耳が暗い穴になるのが待ち遠しいようにさえ思ってしまう。 ばーちゃんに静かなの?と大きな声でたずねると、え?と言われた。ばーちゃんはすこし困ったように笑っていて、わたしは大丈夫だよとゆっくり大きな声で言った。

ディズニーランドで生まれ育ち、しにたかった。

心やからだや財産を、困っている誰かのためにはほんの少ししか使わないで 本を買ったりお酒を飲んだり恋をしたり、楽しく生活する わたしは少しせいじと似ている。 嫌いとおもうものにじぶんと重なる部分を見いだすことがなんだか多い。 じぶんの人間性に、肯定や否定の判断を保留にして、じぶんのためにびじゅつをやっている。もしかして、自尊心を保つためにやるのだろうか?びじゅつやオリンピックは。 あーほんといやだなあ。オリンピックなんかやらなきゃいいのに、と思いながらびじゅつをやるのはまったく変だ。おんなじじゃないか。 せいじと無関係になりたい。ディズニーランドで生まれ育ち、しにたかった。 せいじって誰だよと彼氏に言われるかも。せいじはわたしだよ。 鏡に向かってファイティングポーズをとる。滑稽だ。