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2024/04/25

CSLABの冊子の川上君が描いた漫画読んで、空間全体ごとを愛していたこと思い出した。泣いちゃった、普通に。ラボの素晴らしい瞬間が抽出され思い出される。なんかした気でいたけど、思い返してみると私は大して何もしていなかったな。ただ一緒に遊んでただけだった、まじで。仕事なんだかなんなんだかよくわかんない感じのことをばらばらとやってると誰かしらがが訪れて、そんな感じで毎日約束しなくても会って(私は仕事で居たわけだけど)、毎日楽しかったね、素晴らしい日々だったね。 今日はなぜかラボづいていて、仕事終わりにスヒョン、つなちと新宿で会った。スヒョンとは一年ぶりくらい。Red Stockingの新刊のことを話し合った。手作りのzineに立ち返って、その企画について固めるために最近のことをちょこちょこと話した。 ラボで友達になったみんなのこと、ずっとずっと大事にしたい。いつまで遊び続けるのかわからないけど、いつか会わなくなってもずっと大好き。

2024/04/24

今日はいろいろと暇のなかで考えが揺蕩う。将来の見通しへの拒絶感から始まり、そう思うのなら、子どもを育てるという選択肢は取らぬべきではないか(別にそんな予定もないのだけど)って方に今日またより少し傾きを増す。たまにそれを考えてはどちらかに投票をしている。自分だけの話として。 そこでは現在の自分への信頼が判断材料となる。現在をokにするにはどうしたらいいのかな。今がとにかくokでなさすぎてな。。全ての根本的な問題は生活習慣にある。寝不足、栄養不足、運動不足。仕事は頑張ってやってるつもりだけど、その頑張りの反面単価が低く、生活とキャリアをキープするには異常な努力が必要になる。いまはなんとかなっているとはいえ、搬出の翌日に搬入するのを繰り返していてはとてもじゃないけど暮らしどころではない。かなり前の花見で山本さんが言ってた「家族やめますか?アートやめますか?」っていうパンチラインもたびたびに思い出す。アーティスト友達と会いたい。孤独な気分になっているが、忙しさのタスク処理と恋関連のことに全部動員してる場合ではない。ガチで頭おかしくなってた。あぶー。ここのところの自分、まるで自分ではないみたいだ。ありえない、どうした?!怖い怖い。 仕事の話に戻せば、ほとんど無料の奉仕も多すぎるな。個人的な関係性の他にも、それを巻き込んであまりある生活維持の土台の問題が大きい。いくつもを掛け持つというのは、それだけでカレンダー人間になってしまうとあっては、もはや七曜制にまで不便を感じる始末。それで家にある橋本聡さんの「二曜制カレンダー」を観る。これはこれで厳しい気持ちになる。  展覧会もないし、すぐにやらないといけないこともないし、19:00に仕事を終えた瞬間夕飯を食べて20:00に風呂に入って、だけどそれが一番難しいのよ話のきっかけとかどーしよ全然自然じゃないよね?!(まだ言ってんのかよということでもあるが、それはそれで重要なことだ)で、22:00に布団に入った。健康へ真っ直ぐ歩みを進めるの嬉しい。展覧会が遠くで開催中なのもいい。実に健康的。昨日全部考えがまとまってよかった、まとめるのは大事!

2024/04/23

  したくないダンスを振り付けられおどりながら、探究心でそのダンスを見出そうと努力する。それはダンスでなくて劇だよ。ダンサーでないひとがダンサーになってゆく劇。…と、こうして状況把握としてカメラを引いていくと劇がうつるが、どのようにその運動が「したくないダンスである」というのを表現するのかって、そういう話。 私の元に起きるある種の揉め事の調停の場は、どれも解を出さずに「そういうわけで引き続き…」という物に落ち着く。細かに話してるうちに問題部位の腫れが引いて、問題が問題とも思えないくらいのところまで行く。ここでそうしているように宿題として分解していく(もはや趣味である)と、結局は問題そのものを介して作られたそれぞれの心持ちの不自由さが摩擦点であることに辿り着く。そうなれば結局摩擦し削れ果てた部分はそれぞれに違うので異なる処方が必要になるはずだが、処方はより具体的な必要性を示した方に寄り添った一つしか作られない。なぜなのか。今日はずっとそれを考えていた。仕事の間も電車に乗っている間も自転車に乗っている時にも(なんかおかしいな…)と考えていた。 「なんで私に悪いところがあるわけでもないのにこんな思いをしないといけないんだ」という平凡すぎる気持ちの在りかは、問題存在として自分を指されるという認識に端を発しているものだ。まず私は処方者としての立場に立ち、悩みごとをなんとかしてやりたいという利他感情が働く(そもそもの場におけるロールも関係するのかもしれない)。今回の問題対象は自分自身の存在についてなので、それを見た目の上で変形させることは難しいことではない。事実を作ることは簡単なことだ。そうして相談に最大限に寄り添うため、自身には症状とは異なる処方を適用し、その隠蔽のために行動を変形させるにあたって心まで変形させていたことによる負荷が「なんで私がこんな思いを」ということだったのだ。と解がでた。スッキリした。自分を理解できた。そして二粒だけ涙が出た。 やはり昨日の自分が積極的に見せかけ取った選択は少し違ったということだけれど今更かな。どうしよう。どうしようもないか。別になんか言うようなものでもない。なんか実行していくことで後からわかっていくようなものだ。それでいいか。本質的に、私は問題存在ではない。 未来のイメージが無いから相談の形にするのが難しいのかもしれない。つか未来ってそも

2024/04/22

昔のカレンダー無いかなとおもって神保町の古書店街の、すごい古い本や記帳や手書きの本や、おそらく日記的なもの、それから版画とかを扱ってる店に入ってみた。版画は本よりも適当に置かれているように見えた。そんな置き方したら曲がってまうど。まあいいのか。本の値札はピンキリで、4000円とかもあれば13万円のも40万円のもある。多分しまってあるもっとすごいやつとかもあるのだろう。店の中の物量と一つ一つの本が持つ圧がすごくて何か恐れ多く、資料が何かないかと見たくて入ったのに、こう、どうにも中を開いて見る気になれない。それは自分のものではないことによる触れ難さではきっと無くて、美術館とかにある安全な距離が設定された鑑賞の対象に慣れすぎていて、どの距離感でこれとどう付き合えばいいのかわからないというようなものだ。読まれることを拒否する本だ。コレクションのための本に対峙するにはちょっとこちらの全てが足りていない。ダメージの少ない和紙の触り方も知らないし。静かにじっとして背表紙をウォッチするので精一杯であった。 電車の中にオフショルのレベルがカンストした服を着たひとがいた。人魚姫みたいな服で電車に乗るなんてすごい。知らない人に背中とかくっつく可能性もあるのに。すごいよ、あんたがクイーンや。好きな服を着るというのは接触可能性からなんらかの態度を持って自分を守り、見られる恐怖を弾き返す表現である。だのに彼女、よりにもよって寝ている。大丈夫か?とりあえず彼女が無事に帰れますようにとおまじないをかけた。 件の問題についての合議を執り行い調停。問題を変形させることで次の問題を作ってそれを落着とするも、問題を変形させたと見せて実際には自分の方を変形させている。問題自体は変形しないので仕方なし。と、まあ大体こういう感じだ。やむなしである。アーなぜショックなのかもよくわからない。変に狡猾なズルさが消えて素晴らしい嬉しさが帰ってきた感じもするから。しかも何かが増えて。

2024/04/21

朝風呂に入って支度をする。この6日間なにかひどく飢えたような気持ちになって毎晩毎朝ベソをかきベランダで縮こまっていたとはいえ、ギャラリーへ向かう道に生える草を観るのは楽しかったし、ひどい駄作であるにしてもよくぞ3日足らずで仕上げたとの満足と疲れと安心の余韻の湯に浸かる。今回の過集中した努力をうーちゃんはリハビリになったように感じてそれに満足をしていた。 連日の人疲れで一刻も早く家に帰りたいうーちゃんは、空港に出発の3時間前に到着した。しかしせっかく早く着いても特にすることがない。巨大な銀色のキャリーケースを転がし全ての店を回り、全ての練り香水の蓋を開けて嗅いだのち隅にある本屋にて不意に西村賢太「雨滴は続く」を購入することになった。この作は後に読むのがいいよとある筋より教えてもらっていたけれども胸の内では知ったことか次に読むのはきっとこれにするのだと決めていたのだった。とはいえ、この機会が来なければ律儀に勧めに沿った順番で読んでいたのであろうが、都合積読のウェイティングリストに500ページを差し込むこととなった。 悪天候で見通しが立たないために出発が遅れるという放送が入る。窓の外を見やると確かに真っ白に霧が空気一体全てにこもっている。玉突きした遅延の混雑で椅子はほぼ全て埋まっていたので、窓のところの浅い出っ張りがうーちゃんの暫くの拠点となった。 そこへ座り込んで60ページほど読み進めた時、ふと(クソでかい画面でキスでもセックスでもいいから他人同士の粘膜接触の様をみたい…)との慾に心が駆り出されることとなった。うーちゃんはこれまでエロでポルノな描写をとある理由にて映画であれ漫画であれなるべくなら直視することを避けてきた。それどころかゴアも胸糞も怖いのもびっくりもくすぐりも辛いのも、そういったあらゆるテイストのようなものをなるべくなら避けて、たまに見ては焦るようにして心を転がしていた。産毛の生えた桃のような心を垂らして生きていた(それは少し金玉に似ているとおもう)。とにかく速度と傾きの強い娯楽に興じること自体が嫌だった。遅ければ遅いほど捉えやすく、ささやかであればささやかであるほど自分の身体に巻き込みやすかった。それで特大のバジャイナをのぞいて、他人同士のセックスをすごくじっくり見たいとおもったのはよくよく結びつけてみれば頷けるけれども、単に汚い性欲の描写に引っ張られて心

2024/04/19

 平岡手帖への寄稿文をここで書く。このブログエントリは私にとって文を書くための机になっている。Googleドキュメントで書くのすら最近は少しよそよそしい。このbloggerの不便利なUI、ずっとこのままでいてほしい。 さてなんて書こうか。 == 鑑賞ってどうやってするのかと聞かれて、とにかく見るのだということをどのようにして話せばいいか…という時に平岡手帖をレコメンドするシーンを思い描いた。 平岡手帖では、複数の展覧会をひとりの人が鑑賞してまわることについて目の当たりにできる。異なる展覧会での鑑賞体験が引き続き折り重なり混ざり途切れながら隣り合って経験されて、そこへは展覧会とは別の経験や記憶なんかも当然のように入り込んでいる。鑑賞という行為が存在していることを記録した文だ。この生(活)のアーカイブは作品だけでなく鑑賞があるということを示す。作品はそれぞれ孤独に浮いているのではなく観る人の内でなにか別の物事とくっついたりして変形しているということ。それで世界がひそかに芳醇になっていること。 == どうだね。支離滅裂にも思えるけどまあいいか。 夜、知らない人と映画の話をしてすこぶる楽しかった。素人の言葉を尽くす。そういう会話があればいい。

2024/04/17

宿泊施設にはパジャマの用意がありませんのでと言われて、パジャマをたくさんパッキングしてきた。しかしそれとオープニングパーティーできるためのワンピース以外の普段着的な服を持ってき忘れたので制作中ずっとパジャマを着る羽目になってしまった。パジャマはただの二軍の服。制作中はみんな汚れてもいい格好をしているのでパッと見同じようなテンションの服を着ているふうに見えるが私のとはコンセプトが違う。そんなそぐうようなそぐわないような場に、だらだらとした私が入り込んでいる。中学生が手紙に書くような癖のある手書き文字やひらがなの名前のインフォーマルさで、さらにパジャマで。