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5月

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  5/1(木) SNSは空を模しているのかもしれない。投稿した美学校の「建築大爆発」のリール動画がプチバズしたので、建築学生らしきフォロワーが爆増してる。役に立ちたい気持ちでそうした仕事を頑張るが、基本的にやらなくてもいいこと(クオリティも含め)をやっているので質が世界に溶けてゆく心地がする。基本なんも起きないのだが、こうしてたまにバズったりするのを見ると、なんだか、天気みたいな現象だとおもったんだ。みる人にとって都合のいいものだったということが明らかになったり、ほんの一部の人にとってのみありがたがられるようなものになったり、本当誰にとっても(私にとっても)どうでもいいものにしかならないこともある。天気をみるのも疲れる。あー本当に疲れた。 5/2(金) 「あたたかい家」展に出すための作品をパッケージするのにえらい時間がかかってしまって、眠らずに今日が始まった。どこから今日ということにすればいいのか、よくわからないので、気持ち的に昨日ではないところを書く。 なんだか気まずいのは何に対してなのか。少し雨が降っている。「パレスチナあたたかい 家」には去年、参加表明だけして作品を出すのをやめてしまった。不特定多数との集団行動がしんどくなってしまったのだった。今回は(季節行事みたいに、少しも捉えないようにしないといけない)作品を出すだけということでギリギリ参加できた。りべかさんに久しぶりに会う。記憶の中の彼女よりも半分くらいの質量に痩せていた。陸さんがインストールを取り仕切っていた。陸さんとは仕事場でよく会うが、まさかここで会うとは思わなかった。そういうかかわりしろが作られているというだけでも、この展覧会の存在意義みたいなのが感じられるかも。ヤダヤダの作品をインストール完了。でもなんだかあまりにもアーティストとしての知名度が中途半端なので、この時期のこの作品をこの展示企画に出すということに耐えられないっておもった。私自身が1人でできる連帯を、わたしは考えていこう 午後はBUGへ。もう慣れた道。展示が終わるのが寂しくて、インスタに「もうおしまい」と書いたのを見て、二木ちゃんが「おしまい」という言葉が寂しいと言った。そう、さびしいね。言葉で気持ちが状況がディファインされる。土砂降りで、展示室に人が逃げ込んでくる。 5/3(土) 朝、日記のワークショップ。何十年も日記やっ...

4/9〜4/29

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  4/9 お金のワークショップした。詳しくは会場のノートに書いていく。水曜日のWSシリーズはなかなか楽しい。自由で。告知をしなくて半分ゲリラにはじめると予期せぬ他者に会えるのがいい。非常に特権的だ。特権的というと悪いみたいなかんじだが、いいも悪いもなくただただ立場として特別だ。自分がただやってみたくてやっていることに他人が付き合ってくれたり、広報してもらったり、ふしぎだ。「ワークショップを始めるんでよければ」と言うと、知り合いも知らない人もなんかわかんないけどというかんじでその場にとどまる。半分聞き耳を立てる。展示室の中で一時間程度の参加型の時間芸術につきあう。今日は「お金」について。参加者はみんな友達だった。 4/10 美学校で修了展搬入。20時までの搬入に19時に来るひと、そういう人結構いるが、周りの人もまあ呆れつつ、受け入れつつ、手伝っている。順調だよーとなかばヤケクソみたいな励ましを撒き散らしながら、的確に指示できた。偉い。クマのインストールで折原さんのインストール技を盗んで美学校で伝授。前に「キュレーターではなくて、サーキュレーターやね」というギャグを言ったことがあった。。今回の展覧会、コ・キュレーション担当でなくサーキュレーターとして名乗ったらよかったかも、家電みたいで笑える。場所とかの風通しをよくすること。自称するにしては尊大だ(なのに家電)。 設営作業でO JUNさんとはじめて話した。なんていい人なんだろう。描き逃げ!と言いながら1分くらいでインストールしていた。作品の形態こそ違えど、自分の制作態度と重なる部分がある。その場に起きていることをキャッチし(O JUNさんの場合は場所の色形、かな)空間ごと自分の造形あそびにまきこんで、そのまま嵐のように帰って行った。 4/11 BUGで小山さんにパフォーマンス練習に付き合ってもらう。「世界をよくする動き100選」というスキームを開発。よくする、は無限に増殖する。悪くする、の方が難しく、あらゆる動きを適当にやるという態度が「悪くする」につながる。その遍在性は詩のようだとおもった。何かを見るときに詩がくっついて、あるいは発生して、何かいいものになる。作品や思い出、とっておきたいもの、覚えておきたいもの。そういった遍在性の、逆。「悪い」の正体なのだという特定に至った。 4/15 パラダイスエア。おもち...