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2月, 2022の投稿を表示しています

2022/02/28

 最近の個展やグループ展、もう2-3年ほどほとんど純粋な新作を出していなくて、それまでやってきたことを解釈しアップデートして発表している。だんだんと作品になってきた。毎回未完成とは思ってない。それぞれの展示のタイミングでのトライって感じ。そういうのもあり(個展の記録集どうしよう)。 長期間同じテーマでほとんど同じような絵を描いてる人(「シリーズ」的展開ではなく)とその展開を互いに適宜取り出して並べてみたい。いつかのタイミングで全部のパターンを並べて一望する個展もしてみたい。死後かな?

2022/02/27

 展覧会2日目。 いつも、大体、作品がどんどん変わってくとか、日毎に自分自身も作者としてアイデアを見つけていけるように展示計画を組むことが多いから3週間同じ映像とアイデアが物質性を伴って空間を占有している状況のことをどう考えたらいいのかあまりわからない。でもまあ、在廊して居合わせた人と話をすることで自分にフィードバックして行くことから考える機会として今回の展覧会を捉えていこうと思う。 今日はささやかなレセプションパーティーをやり、そのためにドレスを買った(!)。店員さんが服やコーディネートに対する言語化を細かめに入れてくれて楽しかった。服楽しい。漫画と同じくらい、批評をみんなができる。批評がマインドセットも含めたこの身体に個別にフィードバックされる。鑑賞は自身のうちにて密やかに行われる(それは例えば感性が柔らかな粘土みたいなものだとしたなら、鑑賞によってその粘土の形が指で触られて少し変わったり、あるいは裏返しにして床面に接していた平な面が露わになったりするような)。はあ美しいことだな(今日はワインをたくさん飲みました)。言葉を選んだり別のものと比較していることが、自身に対しても秘匿されることがある。それにいかにして付き合うか。 フィードバックなしに鑑賞をしているひとがいる気がして、そういう状況はわたしのおもういい状況ではない。それはここに書き出すまでわたしの内に収めていたことだ。内に収めていても、自分のところで言語化されてさえいれば豊かさがあると思うけど、試しにほんのり人目に触れさせてみる。

2022/02/26

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 展示1日目。ヒワさんの作品をじっくり見てこなかったから(派手な照明とかが端的に苦手意識ある)、作品の面白さに改めて驚いている。ヒワさんがいなかったら、私の今回の展覧会における作品とかアーティストとしての振る舞いと立ち位置危うかったと思う。まあまあいいじゃん、という作品は多いけど、ちゃんといいなと責任持って思える作品は少ない。ヒワさんの振る舞いとか作品はわたしにとってそういうものだな。

2022/02/25

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搬入最終日。まじでウクライナ🇺🇦のことが気にかかって作品はこれでいいのかとか判断がつかなくなる。 強い意見を持つとか、いい意味/悪い意味どちらにしても、のらりくらり場当たり的にやることについて思うところがあり、「せめてこれではない」という位置取りではなくて、「とはいえこれをやる」という感じ。「せめてこれではない」っていう位置取りからの考えと実践は動きにくいよなと思っていたところだった。そういうふうに考える人は多い気がして、特に学生に多い気がしていて、そういう発言があるたびに気になっていたんだ。「ではない」に立脚させるのは共感を得やすいサバイブ能力なのかもしれないけど。ユージーンスタジオの展覧会ステートメントもそんな感じだったけど。強めに意見を持つということのリスクを取らないってことなのかもしれないが、ポピュリズムの怖さを考えてみると、そういう感性で生きてしまうとポピュリストをぬるぬると受け入れてしまい得るから気をつけていきたいよねーと思った。 それにしてもいろんなアーティストがいるんだなあ。一緒に展示する人たちと話してると、それぞればらばらに好きでやってるって感じでいい。展覧会準備ってちょっとなんか祭りっぽい。展示期間中は建物が熱を出している。高熱は一年に一度くらい出してもいいかも。

2022/02/24

ラボの記録冊子の制作が佳境。テキストをめちゃくちゃたくさん書いたり写真を編集しまくったり予算を立てたり自分の展示の必要なものを密かに手配したり していたらLINEで戦争のニュースが入って、後でみようと思っていたら齊藤くんが「ニュース見ました?」と言いながらリュックをソファに下ろした。

2022/02/23

搬入1日目。ここのところほんとずっっと自信なかったが、自分の作品見たらなかなかよくてほっとした。私の好きそうな作品がいっぱいあった(自分のだから当たり前なんだけど、それが嬉しいよね)。 しかし展示室にあるあーやさんの作品との温度差がやばい。BADな気がする。なんか砂利でもどっさり置くとか、あるいは壺みたいなのを置くとか、そういう呪術系(シャケ…)の繋ぎ目があるとちょうどいい感じがするんだけどなー。あーやさんどう調整してくるだろうか。あ、前に見た石に詩を書いて墓に遺骨と一緒に埋めるやつの試作(呪術みやべ〜)を作って持って行ってみようか。それならまた多摩川へ石を拾いに行かないと。最近寒くてずっと行ってない。いっそ体の形にならべてみよかな。面白そう。でも書きたい言葉がぱっと浮かばないなあ。もしできたなら最高。そんな作品を見てみたいね。まあ次回かな…。てか展示で試作って出すべきでは無いか。あるいはなんか金属を扱った作品。ハイヒールの型の彫刻持ってってもいいかも?それか、たくさん作った紙粘土のタコ?むかしは作品にフックをいくつか仕込んで鑑賞者の関心を引こうとかしてたが最近の作品はまっったくそういうこと考えてないな。わたしあまり他人の作品って面白いなー!とならない。いつからかあまりなんでもかんでも面白がらないようにセーブしてるかも。つかれるし、ていうかできないだけかも。技術的にホエー!とはなること多いけど(和風総本家かよ!)。

2022/02/22

 ラボのパーティーのことを色々話した。フォーカスを絞りすぎずに起こしたいことを起こそうとする方法。居合わせる人たちの参加のハードルを下げつつ、いかに意見を聞いていくか。すぐに内容に入るのはあまりよくないっていう傾向。なるほどな〜。議題を明確にしすぎると話せる範囲が狭まるから、議論に至るルートは設計しつつ、議題は司会者ではなく会場にいるひとたちがその場で広げていく。ひとりがするファシリテーションでは不可能な設計の仕方。みんなで作るけど、ばらばらに思考する。ラボでパーティーの設計するときがいちばん面白い。実際にどうなるかわからないけど、そこも含めて楽しめる感じ。昔がどうだったのかわからないけど、結構すごいのでは?やりやすそう、とかここらへんに自分は居場所がありそうというのをみんな考えながらあの丸い空間を考えている。えらすぎ。

2022/02/21

共有せずにいろんなことを進めるのはよくない。という前提がプロジェクトの中にはあるけれど、私にはチームワーク式はしんどいかもしれない。やりたいことをやりたいままに自分だけの責任のもとにやっていいのはもしかしたら本当にアートだけなのかもしれない。クリエイターという仕事が流行っているけれど、あれは実際どういう仕事なのか? 孤独に勝手に作る部分がなくなってしまったら、お仕事から戻ってこれなくなってしまうんだろう。恐ろしい。いろんな作品が全てプロジェクトベースになった方が面白いって思ってるような人もいそう。プロジェクトベースな作品は面白いものもあるけど、なんというか、作品から欲望を漂白してしまう流れもある。危険。やりたいことをやりたいようにやるには超個人である必要がある。打ち合わせをどこまでやるのかという話かもしれない。そこまで話しておくべきなのか?と思うこともよくある。それは放っておいた方が面白くなるのでは?と。面白いって何… 今日はラボにデータを取りに行ったあと現美へ行った。久保田成子が抜群に良く、憎しみとリスペクトが同じものとしてあった。

2022/02/20

 数人と喋る。昨日と今日は相談室で座っている日だった。相談に来る人は何かしらやっている人でなんかチカチカする。キャリアに関わることばかりがなにかをやっているカウントではないとしているけど、相談ってなるとそういう感じになる。これどうしよう?っていうのよりもかなりエッセンシャルな問題。括弧の外れたケアの必要な領域。遊びに行くねと言って遊びに行けていない友達のところ。 私も何かをやっているという自負があり、確かにやっているけど、何をやってる人なんですかと聞かれてわかりやすく説明するために見せるのは過去作の画像やラボのことだったりする。近作もあるし色んなプロジェクトもやっている。でもすぐに説明できるかっていうとそんなことない。その支えになるような記録物をつくりたい。無かったことになる恐怖。自分の中から無くなったら、他人の記憶にあったって、もうないも同然だよ。その消えもの感が気持ちいいとかいう人の顔が浮かぶが、うそだろって思ってしまう。展覧会や作品という単位や制度。ひとの話真面目に聞くと病むな。

2022/02/19

土曜日でラボにいないのに(相原山から離れ、有楽町にいるのに!)ラボのことばっかしずっと話している。ここ数年ずっとCSLABと接続状態であらゆることを考えているし作っている。なんか面白いことあればこの経験ラボで使えそうだなとかばっか考えてる。ラボの任期が終わる時、絶対に卒制展やるぞ。ネクストキャリアはあるのだろうか・・・陸さんもこの間そんなようなこと言っていたな。裏方極めし者のネクストキャリアってなんだ? YAUからのRAU(RAU試)。坂・・・というか、しばらく顔を出さないうちにzoomがめっちゃ静かな感じになっていた。地鳴りっぽくもある。みんなバラバラの場所にいつつ、同じ時間を共有する。あのやり方に至るにはどういう経緯があったのだろう。ヨーイドンで考えるやり方。あのやり方自体が坂っぽいっていう感じもする。斜めのところにコロコロ転がる議題を置いて、みんなで追いかけるみたい。内側にいるとわからないかも。夢中で追いかける。議論の仕方VRっぽい。攻殻機動隊で久世のカリスマとキャパのデカさで移民の思考がどんどん久世のところへ集合してくる(普通の人はそんな受け入れられない、容量がやばいらしい)描写があるけど、なんかああいう感じかも。スタンドアローンコンプレックス。ブワーーーと多くの人がせ〜ので同じことに向かって考え言葉と思考を無方向に巡らせる。 カムバ歓迎とのことでありがたい。急な坂を登ってくる人を上から撮ってみよかな。私の知る一番急な坂って通っていた小学校の通学路最後の坂。あれは崖に立っているっていうのを誤魔化すために坂道を敷いたものだと思う。あの傾斜はおかしい。ほとんどボルダリングみたいな傾斜だった気がする。腹を短くしてよじ登り、つんのめりながら下る。そういう体に擬似的になっちゃうみたいな「VR坂」はできるなら面白そう。微妙でもとにかくとれるいいな。アイデアの片鱗でも見えるといい。ちっさい三脚かジンバルを買ってもいいなあ。RAUに全然行けなかったの悔やまれるなー。

2022/02/18

 日にちを間違える日だった。曜日で動いていて、近日中の重要な用事を忘れないように毎日リマインドし続けていたら用事が全部今日起こると勘違いしていてびっくりした。「今日何日?」と聞かれれば18だよと答えることができるし、その用事が何日の何時にあるのかと聞かれればその日を答えることができるのに、なぜかその二つの情報が今日に結びついてしまっていたのだ。なぜ? Vtuberの人が、ふたつのアバターが画面上に現れて片方が数秒前の映像であるバグが起きた時に、触感のあるほうが今の自分の身体だとツイッターで言っているのをみて、面白そうだった。自分に手を振るような感じだ。自分を呼ぶ。別々の情報が私の上で結びついているときに、どちらもに触感はある。 呼び戻す。複数のプロジェクトを走らせることができるのは、もちろん他の人と一緒に仕事をするから。一緒にやる人に会えばその仕事のことを思い出して切り替えることができる。一人だったら全部混ざりそう。まあそれでもいいけど、私はほんと止めどなく続けてしまうので区切りがあったほうがいい。先週くらいまでなぜか会う人みんな全て忘れ去っていって、私の方もボケているし、とにかくアイデアもフレームも解けていってとても辛かったが、最近はリズムを取り戻した感じ。忘れたり思い出したり、いくつかの考えておきたいことの間にそれぞれが挟まりあってどれのことがどれだっけ?と混雑しているとき、他の人がいると整理される。誰かが相槌打ってくれることがとにかく助けになる。めっちゃ普通のことだけどとにかくそうなんだから仕方がない。これを全部言っておかないと次の言葉がつっかえてしまう。そういえばこの間、話が横滑りしているのに気付きつつドライブかかって大事な要素が話しながら見つけ現れてきていたときに途中でセーブしたほうがいいのか?もし置き去りだったら全部話しなおしたほうがいいかも?と思って「あ、」と言ったら、つがちが「続けて」と言ってくれて、大変救われた。天国って感じだった。つがち引っ越してしまうのとても寂しい。

2022/02/17

 CSLABのことを書いていると、学びっていうのは他の人には別になんの関係もなくてただ自分のことをやるっていうのがはっきりと感じられる。それはただ孤独にひとりきりでやるっていう意味じゃないけど。狭いとストレスかかる。物理的な空間も、時間もそう(あまり一緒に居すぎるのは良くないのかもしれない)。それぞれがバラバラに自分のことをやってると同じようなひとが居合わせたりしてオ!何それ!と便乗したり、誘ったり、そうやって集まる場所から集まりが発生してゆく拠点。色々試す日々。試してみよう!というやる気は静かにさせておき、なんかやってるひとがいると場所が元気みたいな感じ。広いとそれが何個も共存できる。広いから共存している。場所が熱を出してるみたい。コロナによる三密的制約はまじでファックですね。 授業としてスチューデントセンタードラーニングをやる「知の漂流教室」。先生がいない状況で学生が自分たちで学ぶ時間を作る授業。全13回2コマ続き(三時間)。最近は授業を学生がグループで考えて実際に授業をやるというのをしているけど、なんかやらされてる感があるような感じ。カリキュラムの中で、時間が決まってる中で、好きにやってというのはごっこ感あって燃えないし萌えないかもしれない。たしかに。作戦を立てる時間をかなり多くとって、なんか…なんのためにここにいるんだろ…と感じてからそれを越えてこれをやろうと自分でセットできるように設計できるといいけど。

2022/02/16

 初めてヴァイオリンを触った。歯磨きみたいにして弦を弾くと音がする。ヴァイオリンの音ってプロの弾くオーケストラなんかの音しかしらない。ただただ擦ると、(顎で挟んで、弦を真横から見つめて、毛で擦って、)こんな音が(耳の近くで、)するのね。フレットもないのね。ピアノとかギターみたいに階調が楽器からはっきりと示されてないと、音階というよりも音距離?音坂?そんな風な気がした。 追記 弓で弦を引いて切るように動かした。繊維がバサバサしていたのをみると、弓の方が切れやすいのかもしれない。距離を切るように演奏する。

2022/02/15

 ラボのミーティング。今日から本格的に始動。CSLABは4月から数えないで12月終わりで2月初めって感じがする。1月は卒制でなぜか奔走していた。朝から夜まで、このひとつの空間についていろんな話をしたが、気がついたり思いついたらすぐ手を動かして形を与えていかないとできることがありすぎて、空回りしてしまう。考えてるだけだと、迫り来る慌ただしさにアイデアが解けてしまう。理念と具体的な行動の差を埋める話の中で、「こいつなんでここにいんのってならない」というとっちーの発言があった。①「こいつ」にならないということ。矢印が人に向いていない状態?②「なんで」がないということ。共通の目的が設定されていない状態?集団ではなく、個人が集まってバラバラに同じ椅子に座ってる。なんか面白かったら乗ればいい、そういう場所だといい。「こいつなんでここにいんのってならない」。名言だと思った。 食べ物が残ってるのを見つけて全部食べようとするみたいな感じで、現前する問題にすぐ取り掛かろうとする。特性と言えなくもない気がする。でも食べないものもあるし、やらないこともある。取り組むことは選んでいる。目の前の気になる物をクリアーしたいという欲望。物はあるだけでそういう欲望を与えてくる。そのクリアー欲と、物自体への興味の複合的な判断をする。  昨日のかかしを片付けないでそのままにしておいたが帰る頃にいけがみちゃんが忘れていたのかびっくりしていて嬉しかった。嬉しいと声に出したしニヤッと笑った。物にしておくと急激に現れる瞬間がこうやって訪れたりする。忘れたあとの時間によって心が違う形になっている。懐かしいっていうのは違う形になった心で昔の形の心をなでるときに起きる熱なのかもしれない。

2022/01/23-01/25

  1 月 23 日 ( 日 ) 今日からまた日記書く。福尾さんが 1 年書き切ったとのこと。日記を書き終えるってなんだかよくわからないけど。実験。 ひとの顔をみたくない。どこへ行っても可愛いとかの価値観が広げられている。家にいても。うんざりする。学生にエンパワメントされ自撮りに励んだ時もあったけど、別にわたしにはなんの関係もなかった。自分の姿をみて嬉しいときの喜びは何にも変え難いけれど、パチンコ(やったことないが)みたいなもので、小さな幸せを得るために継続するだけでなくそれが過剰になってゆく。やり始めたらやめられない。飽きる前の段階で、もうやらなくていいやと思った。わたくしの記録。エゴドキュメントというらしい。日記も。 嫌な状態のままでも生活が続く。目標を持って日々を過ごすようにしないと、例えば日々のリサーチとして日々を過ごすような過ごすこと自体にメタな視点を入れないとしんどい。今日の気分。自分のままで、自撮りとかをして自分の姿や存在がそのままこうやってあり続けることがなんだか無理だ。泣くほど無理だ。目になりたい。口になり、脳になりたい、手になり、足になりたい。 1 月 24 日 ( 月 ) 最近寝るのが遅い。毎日 3:30 くらい。 9 時くらいに帰宅し、餃子を作った。あのフライパンはもうだめだ。 1 月 25 日 ( 火 ) 今年こそは力の入れ方をコントロールしないと詰む。 Dr. マリオの偽物アプリ「 Dr. マリ・オカモト」で日々詰みと積みを体験しているからわかる。脳のキャパも解放される気がして安らぐ。

2022/02/15

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 昨日は「死の予感」にて案山子の試作。あるものの寄せ集め。 配置する侘び寂びは気恥ずかしい。感覚に沿って物を組み合わせたり並べたりする(しかも美術で学んだお手前の出現を拒否しながら!)。剥き出しすぎる。初めからそこにあったものが美しく見えた瞬間に立ち合わせるみたいな在り方を取れたらいいのにな。それとも、さっき世界が明るくなったみたいな。。それはまあ、ただの理想だけども。 頭か顔をつけたほうがいい気がする。なにかしら、そう見える形で、、もっと試しまくりたい。 怖さのなかのグラデーションの話もした。きっかけは起きていない危険の予感でパニックになったことだが、この取り組みはそうでなくてもいいかも。そこから転がしてゆく(何を頼りにするのか?)「不気味」のエレガントさ、「怖い」の切なさ。怖いというピークは持続しないで通過する。だから切ない。不気味さは生理的感覚。鳥目線で案山子を見るとどうか?ずっと立ってる。案山子を作るときの子どもを可愛がることに近い楽しさ。なのに、出来たらすぐに哀愁漂うお爺さんみたい(なんとなくお婆さんではない)。