6月



 

6月3日(火)

多摩美でゲストレクチャーした。緊張した…。わしなんぞの話を出て行かずに授業だからと無条件に聞いてくれて、こんな従順な学生たちにどうしようもないようなことを話すわけには行かないとおもった。

恋バナみたいなすごく個人的な経験を、どのように作品反映させるのかという質問をアトリエ回ってる時にこっそりしてもらった。



6月8日(日)

鷹野さんの個展を写美で観た。目の端に映るような親密で見切れた風景、身体、(決してそれを周縁というふうには言わない)をそのように映すのってどうやるんだろうなって気になる。普通のことをエロっぽくなく、臭そうな感じでもなく、ふつうにニュートラルに。試しに自分の足をただただ見るままとして撮ろうと試みるも、難しい。なぜ難しいのかもよくわからないほどにむず。




6月9日(月)

なぞの持論を展開しては取り下げ畳むようなガチ不毛でしょうもない恋バナがしてえ。悩み相談のように建設的なものではなく、自意識をしばきあうみたいな、ほんとうに不毛なんだけど少しだけ発見があるような、そんな会話がしたい。なにものにも変え難い、ただの間抜けタイムがほしい。ほんとただただどうでもいい話がしたい。もう全部疲れた。毎日創造的で疲れた。もはや美しくもない。もうちょい非生産的に汚くありたい。雑然としたい。



6月10日(火)

パラダイスエアのワークショップ。パブロ。粘土と3Dスキャニング。ミハイルが来た。私もゲームは好きだし、作ってみたい気持ちもある。(認知症となって冒険するゲーム)

ミハイルと粘土世界の様子に名前をつけるグループが一緒になる。私たちは4番のグループだった。紙粘土の触り心地が餅みたいなのと形がうんちみたいだったので、私たちはその様子についてmochi poopsと言うふうに名付けた。他にもpoop's tentとかHorny Wells(ムラムラ井戸と頭の中で訳しながら)などと名付ける。さっきHorny Wellsってググったらアメリカ人のエロおばさんの画像がたくさん表示されて焦った。ところでこの日記は音声入力で下書きしている。音声入力で書くと自動生生感が強い。知らないところから湧き出るような。言ったことがすぐ文字になるのでなんだか緊張感もある。AIと付き合い、AIを制御するために自身を抑制しながら喋る。

帰りにみんなでご飯を食べた。私はオタクが好きだなぁ。ミハイルとパブロと話していてそうおもった。物とか事象の方に向き合っていて、自分がどうとかはどうでもよく、ただ好きなものの話だけをしてしまう。他人とかは関係なく、自分に謎の自信があるような人のことはそれだけでもうほんとうにいいなあとおもう。自信と言うよりは、自分よりも物の方が好きという感じ。そっちに主体があって、欲を追いかけて生きているようなひと。なんかやろうとしてる人なんかよりも。



6月12日(木)

仕事で言った言わないのやり取りに巻き込まれて怒ってしまった。謝ってもらったけど、もう本当に嫌だな。他責思考の人と関わらないようにするのはどうしたらいいのかな。サポートするだけだと言ってるのになんで評価させようとするのか。私がガチで口出しはじめたら最初から全部やり直すことになるがいいか?だから中途半端な口出しとかは、したくないって言ってるのに。夜中にメールしてくるし。職務外だからと対応しなかったらクレームしてくるし。。どうでもいいんだよ。他の人と揉めたときにうらさんがそう言ったとか、小学生みたいなのもやめてほしい。ほんと早く終わってほしい。そういう細かい予定を引き受けすぎるのも、よくないな。それが全部のうまくいかなさの根元にある。頼られたくない。頼らないで。



6月14日(土)

FRUEZINHO。トータスめちゃよかった。それとジョン・メデスキ+ビリー・マーティン。長くてずっと終わらない奇跡的に最高ないい夢のよう。現実にあるんだこの感触。ずっとこのまま生きていたいな。素晴らしい瞬間が、長いとこうなるんだ。長い電車の中でもずっと夢の中にいるみたいだった。今もドキドキしている。


6月15日(日)

デモ。バスのプラカード。奥くん撮影。




6月17日(火)

住友文彦の問題だって、そういうのやりたくて生きてるわけじゃないですよ、だけど、そういう部分ちゃんとしないでもつ美意識って無理じゃん。


6月18日(水)

サーフィンにチャレンジした。初めての割にうまくできて鼻高々。わたしが運動をしている!波を探して海を見つめる目つきに、我ながら渋い気分になる。いづみネキ誘ってくれてありがとう。

茅ヶ崎に来たし、ついでに川上君と会う。お茶して海へ。なんか拾い、その度に見つめてうーんとか言う。ツーショットの影というエモい写真が撮れてしまって面白いので齋藤君に送る(このギャグが伝わっているだろうか)。海にいる友達の写真はどうしてもエモくなってしまうな。目に映る全てが美しい。川上君の通っていた高校の通学路を遡って、その高校の前までやってきた。御心計り知れないが、川上君は年月そのものみたいな存在に圧倒されている様に見えた。


6月22日(日)

アートは専門性必要な職業だと思う アーティストの専門性の無さをコーディネーターないしマネージャーが補填するのは分業の域を超えてしまうと思う。代わりに謝るとか、言い方をマイルドにするとか、よくない。作品がもつ個人の尊厳の領域を周りが抑えることになる。


6月23日(月)

「個人的には」というエクスキューズをいかに使いこなせるかが円滑なコミュニケーションのコツか。



6月25日(水)

ここのところ、ずっと、まじ猛烈に働いている。やっと数足の草鞋ができるようになってきた、というか自由にやる仕事というもののやり方が少しつかめてきた(何度もこう言っては失敗している気もする)。全部猛烈に取り組んで、責任を持って終わらせていくってことだった。途中にしないで。それを自分のために自分のハンドルを握るんや!うー丸がんばれえ!

人にもわかるように説明できるようになんかしないと社会性無しということで無視される(もうこのように強い言い方で言ってしまう必要があるとおもう)。誰にも頼まれずにやる作品制作vs発表。発表の機会をプレゼンありきで得ていくというのは、表現を社会に適応させよという要請がされてるのと同じことだとおもう。マジョリティのためにキュレーションが行われてしまっている結果の積み重ね(適応した作品から順番に見る機会を得ていく)。むずいけどそのバランスを間違えてはいけない。

カラスの風切り音を聞いた。頭のすぐ後ろをカラスがバサっと通って行った。そのあと、ジムから帰る道でお天気雨だなと思いながらあるき、雨が弱まったので傘を閉じながら空気の開けたところに出ると、虹が二つ(いやもっとたくさんに見えた、雲の中に反射しエコーするような感じで、たしかに、たくさん発生しているような気がした)さらに掛かっていた。(私の目の中で増えていたのかもしれない?)大きく、根本は色が濃かった気がする(根本とかあるのか?)。雲の隙間から光が強く差し、濡れたアスファルトが白く光る。空気のなかに軽くて細かな雨粒が風に乗って光っている。

夜、本の打ち合わせ。自分の抜けているところがやばくてまたも恥ずかしい気持ちだが、同伴分動態のメンバーには全ての情けなさと頼り甲斐のある姿とをじわじわと示し続けてきたのでなにも隠さずに素直に居られる。申し訳ない気持ちももちろんあるけれど。

寝る直前に、本の書き出しを思いついたので一応書いとく↓

「同伴分動態」というタイトルが決まったのは、偶然と準備とが折り合ったタイミングだった。

明日はまず起きるところから。今日は予定していたよりも1時間夜更かししてしまった。


6月27日(金)

大きな未発掘の層の存在にはすでにたくさんの人が気づいていて、その外にも社会的に大勢が気がつく瞬間。その機会は一度だけでなく何度でも訪れる。目下やるべき作業を放り出して、他者の悩みをほとんど自分のものとして抱えている。身長が止まってから、20年くらい経った。若い時には若い人として生きるしかなく、それは気づいたら始まっていた。外からの目線。大人になってからでも、どうして子どもの頃のことばかり考えるんだろう?