7月
7月5日(土)
総合文化センター大和田にて
子供向けの低く丸い机の周りを、ベビーカーが丸く移動する。真っ直ぐの棚が並ぶ。人は真っ直ぐに移動して、壁に向いて立ち止まる。全てが丸いのではない。
厚い絨毯が敷いてあるので足音がしない。子どもが小さな声でしゃべっている。子どものする遠慮、配慮。こういうの、なんと形容したらいいだろう。その奥で、別のこどもは足組んで図書検索をしている。低い棚から向こうが見えるのは、子どもが迷子にならないようにするためでもある。大石さんと篠田さんがすれ違う。
絵本は判型もまちまちで、実にいろいろな形がある。細長いもの。分厚いもの。大きなもの。そのすべての表紙は板のように硬い。
全部の情報を、見つけたいと思っている人が見つけられるようになっているのが図書館だ。その点で偶然の出会いに期待する店とは異なる、とおもった。
司書さんが確実な場所へと本を戻す。その合間に利用者の質問に答えている。図書館を維持する仕事。そういえば、中学の職業体験では図書館に行った。本を戻す作業は「配架」というのだそうだった。
teens' cornerは経済新聞などのアーカイブの棚よりもさらに隅にある。美術館にも、図書館にも、中高生はあまりこない。部活があるから。部活とはすべての悪しき習慣の元凶ではないか。空いているところに地図が貼ってある。
大人だけど背の低い人がいる。というか、ここにいるおばあさんたちは(私の母もおばあさんに片足を突っ込んでいる)みんなちいちゃい。大人だけど勉強してる人、いる。図書館でデートするひとたち。奥の組は二人で一冊の本をいちゃつきながら読み、手前の方の二人は各人が膝の上に二十冊もの絵本を山積みにしている。カバンを背負ったまま座る人、カバンを置いて座る人のどちらもがいる。二人席が縦に並んでいる。
新聞を読むための台はなぜ傾斜がついているのか?この傾斜のついた読む台(この什器をなんと呼べばいいのか)を使ってみたくて、東京新聞を手にとってみる。新聞の見出しは10字に収められている。新聞はけっこうカラー印刷のページも多い。でかでかと広告された夕張メロンが美味しそうだ。
曲がり角を曲がると大澤くんが私と同じようにテキストを書きながらキョロキョロと歩いている。棚の隙間を全ての人が歩く。ひとりずつ。
7月6日(日)
最近書いてる日記はなんていうか手抜きで全然楽しくない。手抜きしない日の日記は楽しい。それでもぎりぎり書く(というのと書かないというのとではどう違うのか、よくわからないところもある)。
昨日見たものを書く時間とれて楽しかったな。その良さは、全部自分にだけ返ってくる。
人と会いすぎてて特別な部分が消える(と、またひとのせいに…)。自分を過ごす時間がなくなると、魔法のようなことは起こりづらくなる。作文することが、出来不出来の収束にまっすぐ向かっている。私にとって、文を書くことはほぼ魔法みたい。なぜ書けたのか、こうなったのか、よくわからないあいだに書き上がっている。なのに最近の作文は…。つまりプレッシャーを感じているということだ。誰かのために書くのではないのに、誰かに読んでほしいと思うのも不思議だ。このことをいつか漫画にしてみたいと思う。
7月7日(月)
chatGPTに相談を打ち込むとテクスチャのない慰めが返ってくる。客観的ということなのか、仕組みがわからない分、形容が効かない。こんなふうに慰められるくらいなら、いっそ悲しいままの方がよかった。私、いい歳して、いつまでも青いというか、共感性羞恥的なのを撒き散らしていると思う。そういうの恥ずかしいのかもと思って、これでも抑制しているんだけど、最近は抑制しないかわりに編集をするようにしてる。撒き散らさないようにするということ。社会性のある動き方との二面性で頭狂いそうになる。仕事仲間に作品を見られたりするのがすごく嫌だ。まともでいないといけないようなプレッシャーを感じる。今すぐに全部辞めたいし、私じゃない人が働いたほうが世のためになるということもありそうだが、働かないと家賃が払えないから辞めないで、自分なりに真面目にやっている。
7月9日(水)
納得いかないことについて考えながら、自分のこと、友達のこと、知らない女性たちのこと、死んでしまった人々のことを思っていると、連帯、抵抗、そして回復ということがさまざまな手触りを持って迫ってくる。路上で、家で、学校で、職場で、公園で、展示室で、作品で行う私たちの「でも데모」。
납득할 수 없는 일들을 곱씹으면서 나 자신을, 친구들을, 모르는 여자들을, 그리고 이젠 세상에 없는 사람들을 떠올린다. 그럴 때면 연대와 저항, 그리고 회복이라는 말들이 각기 다른 촉감으로 가슴 깊숙이 스며든다. 거리에서, 집에서, 학교에서, 일터에서, 공원에서, 전시실에서, 그리고 작품 안에서 이루어지는 우리의 ‘でも데모’.
Red Stocking新刊のキャッチコピー、長すぎか?
7月10日(木)
変で失礼な人とメールするのしんどいな、、(いえ、私も大概ですが、、、、)まあそういうひとは社会性が生きづらいのであろうから大目に見るけどさ、私にだけカチコミしてきてるんだとしたらまじで許さないからね。。メールでオラついてくるひとがそんな感じなわけないか。ゆるそう。作文苦手な人もアートやってるわけだ。うん、だいぶゆるせる気持ちになってきた。よしよし。
伊藤あささんが書いたヴァレリーの本もまた読んでいる(とくに最初の章は何回も読んでる)。ヴァレリーは毎朝未明に起き出してテクストを書いたがそのテキストは日記的なものは排除して書き、詩の著作にしても散文の要素を徹底的に排した。伊藤さんはその工程を蒸留というふうに書いていている。自分の作品を純粋にしていくイメージをすると、私はたまねぎをどんどんと外側から剥いていき、ついに小さな透明のつるっつるの玉ねぎになる。この日記から雑味を排していくと。私の文章って、雑味だらけのようでいて切り詰めて書いていると思っているけど。どうなのか。
7月11日(金)
小説にはそこでの事実が記されているな、と電車で柴崎友香「百年と一日」を読みながら電車に乗って、都心方面へ向かう。ひさびさにNさんとランチ。最近の悩みを聞いてもらったりする。口頭じゃないとわざわざしない話をするためにこそ友人に会う。やらかしたら隠すな騒げと指導してくれる上司のことを話してくれて、かっこいいなと思った。
電車に乗りながら、日記屋さんのトークイベントのオンラインアーカイブを聴く。斎藤玲児さん、荒井優作さんの対談。打ち合わせで日記の話を禁じたと言ったそのあとすぐに日記の話をしている。彼らの話はつまるところ、私自身が最近しきりに問題視している「言ったらやったことになるのか問題」だとおもった。これは日記を書いている人の視点ということなのかもしれない。実存主義には、その茫漠な入り口からはあまり触れたくないけど、結局その話に帰るかも。
斎藤玲児さんの作品を初めてみたその1週間前に大切な友人が死んでしまった。だいたい2017年ごろだったか。友人が死んだせいで2016年から2018年あたりの2-3年ほどの記憶がごちゃごちゃになっていて、そのころに見たものは死の気配がつきまとったままになっている。色とかも。作品を見るということは根源的にそういう部分があるのかもしれないのだが。その友達が死んだことがたまに、毎日、何度もずっと思い出される日々を、わたしは以来過ごしている。この気持ちがどういうものなのかあんましわからないでいる。彼が死んだことを思い出す時に、彼が生きている時よりも大切になってしまっていないだろうかとどの輪郭を確かめたらいいのだろう。その当時が玲児君の作品を初めてみた時期と重なっているので、彼を思い出そうとすると脳内ああいうふうになる。相模原にあるアートラボはしもとというところでやっていた展覧会だった。生きていたりするひとの純粋な(映像が映像でしかあり得ないような)像が荒い画質でゾロゾロと動いていて、美しいけれど、本当に恐怖。みながら死んだ友達のことをずっと思い出した。言語ゲームとしての芸術ではなくて「こういうのはある」という感じがした。斎藤玲児の作品が記憶と癒着している。
夕方、BUGでサテライトコールシアターをみた。整理された比喩にまみれた経験を物語られ、用意された没入感に乗っていくことがふつうに苦手だ。
7月16日(水)
締め切り。全然間に合えなかった。一旦見てもらう。夜、えみちゃん、あべちゃんとご飯。一緒に旅行へ行きたいなって思った。
7月17日(木)
齋藤君、川上君、からそれぞれの上半期10選(映画、音楽)の頼りが届く。映画も音楽も選べるほど聴いていない(いや、聴いてはいるが)。とくに映画なんて集中できない(ついでに展覧会だってろくに観ていない)ので、観たいなーとかだけ思っているばかりなので、友人がこうして教えてくれるのは本当にありがたい。映画ってものがあるということすら忘れそうになる。ずっと目がまわるくらい忙しく、その隙間に予定を捩じ込んでいたら7月半ばも過ぎてしまった。なぜ今日5月ではないんだろう?本は読んでいるので、図書10選を返した。twitter見なくなってから本をあまり買わなくなったが、その代わり自分で色々と書くようになった。
7月18日(金)
みりちゃんと岡崎乾二郎展に行った。
岡崎展見ながらメモしてたこと
-考えるというのは答えを出そうとすることではないのかもしれない。脳を空間的に使って、びしょびしょに濡らした布を乾かしておく時間を作るようなこと。あるいは、大きくゆっくりと、大きく迂回して、その間にたくさん細かな跡をつける。それらが兆候と呼ばれている。
-世界がめちゃくちゃに隣り合っているということがありありとしてる。別々のものが、一つの感性を通って、あらためて隣り合う。
-アートよりもっと精度の高い何かという感じもする(アートってなんなんだ)。岡崎さんの活動を、昔よりもシンプルに純粋な言語として受け入れることができ、そこにじぶん自身の変化を感じる。飛躍があっても的確な言葉で話しているというのがわかる。取り替えられない、純粋な言語。その孤高さ?を守るのは大変なことだとおもう。岡崎さんは生活のなかから制作という行為を行う脳の空間的なストレージを断固として確保し孤独であり続けた(他者と協働しているとしても)。絵などのアウトプットよりも、そこへ至る技法や画材の選択、それらを定義する言葉。
そのあとみりちゃんがパリのレジデンスで一緒だった人たちとの夕飯会に混ぜてもらった。
7月20日(日)
前回の参院選では女性の候補者がどかっと増えた(たぶんね)。その点で母と話せたのが嬉しかったから、今回はその続きという意識がある。
めちゃくちゃなことになってる。ゆえに今回の参院選注目度高い気がする。自民への疑いの目が身近なところにまできてて、変化感じる(どこ経由してそうなってるのかは聞くことができない)
ずっと、選挙のたび実家に帰って投票しているのだが、その上にある現在の関係はけっこういいと思っている。
愚痴みたいに、話す相手が自分の味方であるという前提意識で語りかけることができるかというようなことの積み重ね……と、家族と政治などの話をすると思う。他者と生きているって感じる。あまりにも違う考えを持っている人を大切にしようとがんばるのはやめたほうが健全なのかもしれないともおもう。自分だって、ひとりとして生きているんだし。マイナスを0にする作業をやめたって幸福は追求できる。(こうして分断が起きる、でも仕方なくないか?違いすぎる..)
投票して実家。松戸へ戻ってPARADISE AIRの成果展搬入、19:00根津で搬出、21:30井土ヶ谷、眞島さんの踊りを観に。東大前のピザ屋で無くしていた指輪を取り戻した。3つもの用事を終えて。
7月21日(月)
スターってどうやったらなれるんだ・・・?
7月23日(水)
嫌いだと思っていた人が、自分の感情を素直に話す人だということにしっかりと気づいた。嫌いだったところも、その人のいいところが振り切った状況だったということがわかった。そのことを歌いながら帰った。まだまだ全然大嫌いです。
7月24日(木)
辛抱たまらん。疲れた。ちょっとだけ楽しい毎日。でも本当に欲しいと思っているものとか状況とかは一つも手に入らない。疲れちゃって行動する気にもなれない。こんなんじゃ何にも意味ない。何を言ったってちょっとぐらいのことしかわかってくれない。誰しも。説明のために何度ミーティングすればいいのか。ミーティングするための人生じゃないのに。
7月25日(金)
葛西へ。よっしーさんたちが運営するスタジオでの展覧会「出版幽霊部員の放課後」へ。ぼくら、とかユニちゃんもいて、「出版幽霊部員」なる活動も浅田さんの作業場でポスターを見てから気になっていたので見れてよかった。前田さんという方の作品で、UVレジンとネガを使って凸版を作る技法を知った。陶土の焼成でお皿、人形などの像制作する作家も多く、説明されたような「悩みながらやるひとたち」とはコンセプチュアルではないということかもしれないな、とか思った。それに、印刷がそうであるように、非デジタル的な技法を扱う共通点を感じた。
よっしーさんとは実に13年ぶりだった。同じ大学の人が複数集うと自然と大学の頃の話になる。自分の活動圏には武蔵美の人は少ないので少し不思議だった。私が当時どういうふうに喋っていたのか、もうわからない。そう考えながら、ほとんどはもう繋がりが浅くなってしまった友人たちとの会話の、倫理的にまずい失敗ばかりを思い出す。それらの痕跡や気配が、どの程度、今の私から漏れているのか。おしはかるべくもない。できれば知られたくない。
7月26日(土)
日暮里d倉庫のことちょっと思い出し眠れなくなった。同様に、無くなってしまったアゴラ劇場とか、新しく盛り上がってる新宿あたりのこと。昨日見た展覧会のラジオで赤裸々にムーブメント的なことへの渇望が語られていて、うーんとおもって聴いてたのが時差で来た。
芸術祭やりたいと行政が少しでも乗り気になることの奇跡。そういう環境を準備すること。知ってもらうこと。同時に場所がなくなること。新しく起こること。アートの人以外に頼ること。資金不足や建物の経年の問題(建物の経年だって、やはり資金の話に戻ってくる)。図書館のなかにスタバ入れちゃう蔦屋のことは許せないけど、そうまでするような領地の意識みたいなのがないと本屋も厳しいというのもあるのも実情だ。
個人店の飲食店はたくさんある。不思議だ。手を取り合って芸術家がフランチャイズみたいなことするとしたらどういうふうになる?
こういう妄想してる時って自分と関係がないので気楽だし偉くなったかのようで気分いい。
続ける。いまあるところを使えるようにし続けることをモチベーションにするのは、作品でも、仕事でも取り組めることだ。作家としてはいい作品を作って事業に貢献する。ワーカーとしてはいい企画を作ってコミュニティに還元する。そういうのを毎日を腐らずに頑張るというのが重要だという結論にいつもなる。でもほんと疲れた。ゆうほど何もできないし、それぞれの機関は独立しているので、別に特別なことをやらなくてもいいというスタンスなのもわかってきた。寂しいことだ。でもワーカーというのはそういう安定感なのかも。やっぱアーティストとして頑張るしか道ない気がする。これ以上、ワーカーとしてステップアップする先、ない。自分で会社作るとかしかない。でもそういうことじゃないので・・・。
7月27日(日)
気が休まらないだけで身体は休んでいる。何にも満足できない。家もまた散らかっている。オフィスチェアも必要。学生の頃に買ったシェルチェアーのパチモンにヒビが入った。何か選ぶ時、黄緑色をよく選ぶのはなぜなのか。今日も何もできない。一人でいる時、慢性的な落ち込み状態。バーンアウト?日々の記憶がほぼないけど日記はギリある。でも記憶って必要?認知症のこと調べたいなって思っている。