8月

 


8月3日(日)

私となんかすると最終的に手柄が全部私のものになってしまうといわれた。咄嗟に言い返せない。本人に言えばいいのだけど日記に書く。そう言われてしまっては、これまでやってきたこと全てが根本的に意味ないと言われているのと同じだし、私がいろんな仕事に対して感じていたモヤりを再生産していることになる。なによりも、全部私の手柄になってるんだとしたら、活動が持っている元のポテンシャルよりも随分減ってるということになる。こんな少ない?嘘だろ?辛すぎる。ていうか自分で結実させろよ。腹立ってきた。勘弁してほしい。




8月5日(火)

「何人にひとり」というあるまとまりのうちの割合を思い浮かべるとき、きまって中学のクラスを思い出す。あのクラスの女子全員が今年一気に厄年なのだ。あんなに大勢が一年間ずっと不幸(ということになっている)なのはなんだか気分いい。あのクラスの中で、何人が美術っぽいものに興味を持っていたか。ファッションにも音楽にも興味持つ人が少なかった。どういうことなのか。それでもみんな、課外授業で何か選ぶ時があったり趣味を聞かれて「読書」とか「音楽鑑賞」とか書いていたりした。職業体験の場所に私は図書館をえらんだら、名前を忘れてしまった一緒のクラスになったことのない小柄な男の子と一緒になった。それ以降、彼のなんか楽そうだという理由と、私の楽しそうだという理由で、選ぶものが合致することがよくあった。修学旅行のオプションで琵琶湖を選んだり。でももう名前も覚えていない。彼の情報が少なすぎて、思い出そうとすると脳の右側の前頭葉あたりにさざなみが立つ感じがする。それ以上なにも思い出すことがない。記憶の終点は浅い浜辺なのかもしれない。というか彼のことに関しては、終点が琵琶湖の景色というだけかも。全然何も思い出せないし、関わりもなかった。そういう人がわんさかいたのが学校という場所だった。




8月6日(水)

チケット先払い制は長く続けるならいいけど、続けられないなってなった時にちょっと面倒だな。振り込みで返金?まあまだ事業畳む予定はないけど・・・。




8月7日(木)

絵、彫刻、映画、写真、詩、工事、プロジェクト、身体、音、メロディ、リズム、布、柄、手触り、物語




8月10日(日)

(hey say jumpの)中島裕翔君の新しい写真集はイベント応募券付きのくせに本の中身が評価されて重版出来になったかのように彼がすっとぼけたことを言っており、ファンだけど、同時になんか作ったりする者としてはその価値観に(何十冊も一人で買って券だけ剥ぎ取ってもうメルカリに半額以下で出回っている)うっすら寂しい気持ちになってしまう。ここには当然、アイドルファンのくせに、アイドルという職業に対しての差別的な心が働いている。彼らはどんな数の中で、一人として生きているのかが気になる。まっすぐ現実逃避としてリアコ気味だ。

ほとんどの恋愛物語がかなり嫌いだから見ないけど、「366日」というHYの曲が元ネタの沖縄が舞台の映画に裕翔君が沖縄出身者の役で出演している。彼に、沖縄の人の役をあなたがやることに戸惑いはないのかと(つまり単なる日本の地方として沖縄を描くことに加わるついて)質問する夢小説的な想像をするが、どうしても喧嘩になってしまう。




8月11日(月)

毎日何かの準備で、今日、今この時がすごく短い。未来のために生きてるわけではないはずのに、今を未来へと投入することをやめられない。なんでなの?作品を作るというのは、今を今として認識することに他ならない。芸術関連で常套句の「非日常」とか「異なる時間を生きる」のような言葉の意味するところは、未来のために生きないで今をキャッチするために時間を使ったり、作ったりするということなのかもしれない。というか、時間を作るとか使うとかいうことがそもそもコンセプトとして間違っていて、単に過ごす、という方がより適切か。幸せというのは未来の約束を取り付けることではない。今が幸せでなければ。未来がどうだとかは今とは少しも関係のないことだ。未来を語るのはほぼ詐欺だよ。




8月13日(水)

家族に対してまたブチ切れてしまった、激しい衝突がある時に、過剰に言い過ぎる暴力性が自分にはある。頑固というか、逆ギレされることに対してそもそも腹立つ。どんなに自分が倫理的にも情報的にも正しくて相手がそれを認めていても、自分の考えを喋ること自体に私は慣れていて相手はそうではない。反省してるのはいいけど。傷つけたいわけではなかった。怯えさせたいわけではなかった。言い方間違えた。弱い立場っていうのは、孤独な立場のことを指す部分もある。そういう状況は普通で、だらだらといつも通りに辛く、もう何も意味ないと思えてきてしまう。なにかあったときに優しく受け流すのが愛なの?





8月14日(木)

https://www.facebook.com/100000636122669/posts/pfbid02ndLWAMpBiuebGxC5LFvDGUGpFtTzxZrbAXRaPN4mfvQo57nTTjbNP3qtif3KCnR9l/?

伊原田さんのBACCの展覧会についてのシェアみて、その展覧会でどういう実践がされてるのか、去年(一昨年?)のヨコトリのキュレーションも思い出しつつ中国の問題をアジア圏で共謀的に?取り組んでる様子とか、手触りあった。自分のとこでできないから隣の国でやる、それをぐるぐる回す・・・的な。そういうのをキュレーターシップと考えるのは、アーティストとは違った視座だし、面白いと思う。

そめちゃんと夜遊んだ。カラオケに行ったし、もちろんいろいろと悩み相談をした。自分の作品は混乱するけど、鑑賞者を想像しながら情報の伝わりようを整理していく(キュレーション的な)作業は、アーティストとしてなんか作る時間や気力がない時にもできるし力が発揮できる気がした、つまり仕事にできるのかも・・・という告白を聞いてもらい、ちょっと切ない。アーティストとしてまた展覧会を作りたい。コンセプトメイキングも楽しかった。そんなんみんな楽しいか。はあ。才能ないかも。





8月15日(金)

寝転びながらふと、森美術館は良いアーティストを招聘するけど展覧会が良かった試しは一度もないなと思い出していた。こう、これまでは作品をみる機会としてありがたがっていたのだが。良い展覧会ってなんだ?わからない。考えるのも嫌だな。

久しぶりにすごくちゃんと休んでいる。夏休み最高。どこに行かなくたっていい。hey say JUMPのライブDVDを観る。平成は悪趣味の殿堂だ。なにもこんなにダサい感性の詰め合わせを少年たちに纏わせなくても。良いと思ってやってる人はどれだけいるんだろうか。悪趣味の権化面食いジジイおよび元号をグループ名に採用する件の家父長制云々についてはまたいつか考えることにする。





8月16日(土)

(ガリガリのおばあさんみたいな小池徹平、すごい美しいな…)とか思って、うっとりとinstagramを閉じる。ところで、身体はものだと前提してするケアと、身体は私だと前提してするケアで生き方がかなり変わるのだ。ものであるという考え方の方が現実的だし大事にできる感じがする。今日は久々にY君と会うから、そういうこと考えながら身支度をした。私も、少しずつ変わってきている。単に哲学的なアイデアとしての心身一元論(まっすぐにセクシュアルな観点だ)と、それ以前に、医療費がかからないようにするために健康でいようという大衆的なステートメントがあり、そのギャップを埋めるような、そうしたかすかな兆しを想う。





8月28日(木)

日記をサボっている間に推しがアイドルやめちゃったよ。裕翔君が元気で健やかに居てくれますように。





8月29日(金)

実際私は天使というよりは悪魔だから、いいなって思った人に特別優しくしてきたし、そんな自分が誇らしい。嫌なひとにはもしかしたら意地悪やってきたのかもしれない。密かに。そんなつもりもなく。だから良いひとたちだけ周りにいた。ありがたかったな。と同時にみんなもものすごく人見知りで厳しかった。だから安全性が高かった。

友達を大事にするには…という非友達の集まりやるかな

友達についての展覧会をやりたいかもしれない。冷静にやらないといけないことだ。合同誌でもいい。友達は大事だよっていうのが変に青春的な世界観と結びついて、物語化してしまっていて、人間の実情とギャップがあるとおもう。絶対に押し返さないと行けないっておもう。群れ、的な話とも繋がるが。小山さんの作品について書く時に少し試してみるか。