2023/09/07

上司に対してそれやめてほしいとか言うべきだよなーとか、そこから勇気を出してハラスメント被害をひとりきりで訴えたりとか、そういう孤独があちこちにある。そんなめんどくさいことはしないでもいい。

理解するふりをする人。「なんで怒ってるのか説明して?」って言われた時(遅れてきて)(議題は事前にシェアしてあったにも関わらず)(読めよ)(なんで怒ってるの?って聞かれることはストレスなので文を読んでおいてってことも言ってあった)(読めよ)、「あ、このひとわたしが幼稚な考えだから怒ってるって思ってるんだ、説得して気分をなだめてあげようとしてるんだ」ってなったことある。ため息でた。

自分がハラスメントを受けている状況にあったときはふつうに震えて喋れなくなったし、そんな相談とかもできなかったし。今思えばあれはハラスメントだけど、その日の夜は「あいつガチで病んどるわ」と思ってどうしてあげたらいいのか考えたりしていた。わたしだって花屋さんを続けたかったけど店長がハラッサーだったのだから私が辞めるしかない。上下関係があるっていうのは、そういった時であっても円滑にことを運ばせるためなのだ。

言えないつらさと表に出てない被害がそこらじゅうにある。そういう世界だと思う。

俎上に上がった問題について正しさの選択に引き裂かれる野次馬のリテラシー、お気持ち、まじでどうでもいいっていうか、複雑さに耐えられない者たちに、その代表者として助言を与える動きがあるのが信じがたい。それって端的に鑑賞者や周囲を舐めてるよな。みんな考えてるし、悩んでる。悪いことが起きてほしくない。だから考えてる。その戸惑いを共感に導いて無効化するのは、詩の悪用だ。強くそう思います。

評価をする側のひとって、野次馬ポジorハラッサーがほとんどなのだろう。だからそういう評価する側の立場をエンパワメントしてくれる(その立場にある人も悩める個人でもあるからあえてエンパワメントという言葉を使う)そういったもの、活動、人が評価される。これが特権的立場といわずなんだと言うのだろう。

表に出てない被害を、全く関係ないひとが、どうにかサポートする。その結びつかなさ。権威もないから実効する動きを取ることができない。権威を持つ人は立場守るためにうごかないし。その仕方を議論しないと意味ない。そのために「私たち」という単位を持ち出すのだ。

ふいに「正しくて優しい人って苦手」と聞こえてきた。耳を疑う。優しい方がいいよ。本当の正しさとかは無いとしても。「セクハラとかすぐ言われてめんどくさい時代になっちゃったねー」もすっと聞こえてくる。「まあまあw」とか「そんなこと言って、もーw」とか、わんぱくさを優しく咎めてもらってそれが会話を盛り上げるっていうやり方の空気を全部やばくしていけないか(ドン引きの「間」を使うとか、よつばと!みたいな感じで「えぇ……」これならできるかも)。

あるとき、「もうこの人のことはリスペクトできない」と思ってたひとがいる。そのあとしばらくしてその人の状況も汲んで自分なりに折り合いをつけて、いいところもあるしなあと、ふつうに、そう思って今は接している。同意できない部分もあるけど、だからと言って逃げ出すほどではないし。前には強く同意できないことを伝えたこともある。あの時の議論が無駄だったとは思わないけど、今またやっぱり無理だなと思ったりする。それをわざわざなにか宣言したりして清算し、会わないようになるのもおかしい。説明してって言われるのが落ち。またか。そういう想像ができる。絶対弁明されるし、そんな話し合いしたくない。減った信用は回復しない。私が知り合う前のその人の話をだいぶ後になって聞いて、いやだなーと思った。知らなくてごめんなさいって思った。今わたしが飲み込んでいることは、その被害者のしんどさの制作に加担してることになる。うわ、やばいな。自分が今許してるような素振りをとって、加担してることをこうして文にすると、恐ろしくなってくる。そしてまた花屋を辞めた時のように去るのだろうか。自分がいた場所が円滑であるために、私はいつまで去り続ければいいのか。みんなで去れたらどれだけいいか。それを組織するのも技術。こんな話をひとにして迷惑じゃないか?そういう気持ちもあって動けない日々だ。

新しく人と知り合う。気持ち悪いひとと、そうだとは知らずに一緒に仕事したりするかもしれない。つらいな。

なんか言ったら誰かに嫌われるかも、クビになるかも、炎上するかも、とナイーブになる、躊躇し続ける無名の者たち。反面セクハラパワハラしたって大学教授、美術館館長、単著、キュレーター、映画監督妻子持ち。それで孤独がなんだって?悩むことは正しいことだよ。置き去り?ほんと意味がわかんないね。

カオスラと周囲が制作し続ける安西さんの被害を巡る連日の件みて、思っていることの散らかした文が以上。