2024/05/24から5/26

 


5/24

前に遠野遥がツイッターかなんかで「物語に詰まって登場人物増やしたら面白くなってきた人数こそパワー」というようなことを言っていたのを今週何度も思い出している。今日は夕方山本さんのインストールを覗きに行き少し手伝った。ひとの展示の手伝いは仕事でよくやってるけど、このキャリアの展示を手伝うこともあまりない。ちょっと引っ張ろうとかの微調整はたしかに一人でもできるけど二人いると捗る。暇の直喩として「何個漫画アプリ入ってると思ってんの」というのと、「ファブルはコロナの友」と言ってたのにワロタ。てかコロナの時に漫画村があったら漫画業界終わってたかもだな。あぶー。アプリで読む漫画の話はそのシチュエーションも共有している感じがしてニクい。

夜、AIとの英会話レッスンで植民地主義についていい面と悪い面をスピーチしてくださいなとの課題が出て、私はいい面は無く、悪い面はたくさんある、労働者の搾取、文化の消滅、言語の押し付けから国がなくなり、インフラ整備で元の生活の否定をしてくことなど調べながらゴニョゴニョ。AIは私の答えなかった項目を補足するようにいい面の例として文明化を説いた。その顔してやってる全部が悪いことだろうが。。セッションの相手がAIでよかった。人間だったら怒っちゃうだろう。英語で怒れたら合格か。ブルシットとかワタファとかそういうのは禁止で…煽り怒り恋などの刺激の強い英会話レッスンでメキメキ上達!なんて。

そういやポーポポをGoogleスライドで作ってるけどwordpressで作りなおさないと。AIは情報をウェブサイトからテキストデータ拾ってるので…これは急務。


全部ハート地獄(好きな人のことばかり考えて働けなくなってしまった人が行く地獄)… 子どもにこれ作らせちゃうんだからすごい。



5/25

new jeans聴きながらメイクするとまじ可愛くなる。メイクしててオ!ええやん!?って時、誰かのためじゃない自分自身の祈りのために…(ほむら)というのを思い出す。それはそうと、にゅじの新曲まじ最高。

PARADISE AIRのパーティーでみんなが歌った曲をApple Musicに追加し、たまに聴いてる。今日は時間ができたので音楽をかけつつパラダイスエアで一時間本を読んで過ごしてみた。人が居ないとこんな感じなのね。人が集まるための場所に一人きりでいる時間が好き。そこで起きた良いことを思い出す。

それから上野でYちゃんと会った。「三日月まおは♀♂を選べない」と「神風怪盗ジャンヌ」についてひとりで爆語りしてYちゃんを困惑させることになったのは、偶然にも昔の恋人が同じ店にいて驚いたからでもあった。喫煙所で元気?おうよ!とやりとりし、去り際に「応援しています」と言ってくれて、私は「こちらこそです」と言った。

帰り道、秋葉原を歩くと寂しい気持ちになるとYちゃんが言った。この街で面だしされるキャラみんな知っていたのも今やフォカヌポゥ… と悲哀の混じる笑いを漏らす。慰めの意を表し短歌の形式に則って圧縮。

(´・ω・)つ🍠 



5/26

今日は高校の頃からの友達Hと待ち合わせて、二本も映画館で映画を見た。Hが見たいのと、私のみたいのをダブル見する遊び。いいぞいいぞ。こういうのいいぞ!

夕方『ユニコーン・ウォーズ』上映ギリギリで着席。いろんな映画のオマージュに満ちて、テディベアーのしゃれこうべ(!)にはくま耳がついていた。なるほどそういうぬいぐるみの生の解釈なのな。腹を裂くと綿ではなくワタが飛び出す。


横断歩道を急ぐ時に、走り方が変だと言われた。わかるよ。この程度の小走りに手をどう合わせるのがいいのかわからずブラブラさせてしまう。ナルト走りにはならないように気をつけているが、ランニングマシンでもこうだったらどうしよう。恥ずかしい。

ハリーポッター3とは言わない/恥ずかし/はずカバンの囚人/・・・という細かなギャグとか尊い。同時にほんとしょうもねー。忘れて構わない瞬間をこうして書き留める。すっごい楽しかったという部分でなくとも。

はぐれたら映画館で会おうと言って、私たちはそれぞれ頑張って歩く。誰しもが嫌だと少なからず思っているけどそれでも私たちは人混みを形成する。人混みの中では前から向かってくる相手の動きを捉えて避けるなどが絶えずずっとそこらじゅうで起きて不思議。複雑すぎて捉えきれないほど。そこに自分も数えながらも切り離して、多として動く自分と個の欲を押す自分を共存させて佇むことができる。そう考えれば少しは楽しめるけれど、人間が邪魔だと思い合い歩く人混みは本当に大嫌いだ。


(以下映画の内容に関わる)

夜『マグダレーナ・ヴィラガ』。人が叫んでるシーンは張り詰める。詩のように(というか啓示のように)居心地や気持ちを話す女たち。「神よ私を愛させて」と異性愛を求めるが、主人公のどうにもならない感じと同期していた全体のトーンが破れるように彼女がバチくそ泣き叫ぶときには友達の名を呼ぶ。その愛を炙り出すように、厳かなるシスターフッドが横たわる。実際の男と偶像の男(神風怪盗ジャンヌでは神様なる存在をまろんが認識すると同時に神様はいるだけで何にもしてくれないんだ泣ってなる名シーンがあるが…)が、どっちもしょうもない感じで描かれる。ジーザス含めた男全般への嫌悪描写ここまでやるのかと思ってホエーとおもった。1986年アメリカ。時間や事実は流れを結ぶ契機で、映画のフォーマットを成立させる要件として有用なだけというか。てかだからこそ。シアターは席のことだから(余談だが席の話ほとんどしない美術館はろくでなし空間といえる笑)

「怒っている?」「怒ってる」「どのくらい?」「死ぬには足りず、殺すには充分なくらい」という痺れるセリフ。そういうのがいくつもあった。緩慢でありながら同時に隙がない。のは、セリフ以上に空間の設定か。一人用の部屋に二人入ったり、たくさんの椅子があるところにたくさんの人が座って立ったりする。序盤のシーンで「椅子を見て」という謎めいた指示に対して「椅子はない」(物理的には二つある)と言うところが序盤から際立ち、その違和感へ絡まるように最後まで空間と人の問題がついてくる。独房で一人きりでいてやっと自分らしさを感じる時、独房にも関わらずでっかいジーザス像が同居しててずっと見切れている(それはちょっと笑える)。空間の替えの効かなさが物語を振り付けてゆく。

ホテルの部屋をブッキングするなと脅すのもすごい面白いと思った。空間を占める人数の実存と心のありようが絡まっている。かなり面白い。いつか真似したい。そうなればこそ、部屋がどことなく身体という感じでもある。タイトルのままか。マグダレーナ・ヴィラガ。怪作。

見終わって歩いてたらシアターフォーラムのところに大木さんがいたが、なんか心の準備ができてなかったので引き返そうと後ろを向くと今度は角をれいじくんがこちらへ曲がってきて、思わずワーっと手を振った。連れに会える街だ。そんで家に帰りながら日記を書く。明日からまたもりもっちゃんがうちに来る。なんか賑やかだな。しかしそろそろ数日ひっそりしていたいかも。5月が最終週に入る。わー。