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4/1〜4/8

 4/1 髪の毛を黄緑にした。どのくらい色を入れるかという話で、「原宿系ではない感じ」と言ったんだけど、せいこさんは00年代の原宿の景色を作ってきた人でもあるので、具体的なさまざまな人たちの話をしてくれるのを通して間接的に諌めてくれた(諌めるとは目下のものが目上のものにする意味を含んでるそうなんだが、その関係にはあたらないので、じゃあなんと言ったらいいんだろうか)。「いろんな人がいるのに「系」とか言ってごめんなさい、本当に恥ずかしい。」と髪を切ってもらいながら謝る。本当に恥ずかしい。実のところ、中高生のころzipperやcutieを読んで、きゃりーちゃんや奇ゃさりんなどの読モのブログを読み漁って憧れていた自分を、なんとなくいまの自分から見えないようにしたいという気持ちがあったのだ(見えていると思うけど)。なんだか、そういう気持ちを思春期のように隠したくなって、押し出されるように変なことを言ってしまった。せいこさんその場で諌めてくれて本当にありがとうだし、まじでごめんなさい。その場で自分も謝れてよかった。なんとか間に合った感。 きれいにしてもらって、レセプションの準備に向かう。二次会で花見をしたかったのに雨だからできない。残念です。ついて、ギリまでハンドアウトの校正。英訳の確認。鈴木さんによる英訳がひかりのはやさで上がってくる。すごいな。 パーティーには45名の方が参加したらしい。もっと少なく見えた。空間が結構広いんだな。いろんな人がそれぞれ展示室のいろんなところで座ったり、読んだり、見たりしている。伴走者なんだねと葵さんが言ってくれる。言い切らないで言葉で考えることについて「努力」という言葉で葉さんが感想を伝えてくれる。コンセプチュアルなものと生活的なものを同伴という言葉を解くことで結びつけることが成功していると能勢さんが褒めてくれる。日記が作品に昇華していること、考えることと実行することの思考と表現と空間的な設えが洗練されていると末永さんが言葉にしてくれる。うらさんは、グループ展で見せていくタイプの作家なのかもしれないね、と。ありがたい。野瀬さんと二人でマイクを持って立っている写真を二木ちゃんが送ってくれた。バディ感ある。なかなかいい展示になったと思う。アーティストキュレーションの、ひとつの限界みたいなところをやり切ったか。まだまだ足りないことだってあるけ...

3月1日から3月31日

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3月1日 こどもアトリエ。子どもが作るものは全部いいなと思える。通ってもらわんでもつくっているのに、何か提供できてるんだろうか。とか無用かもしれない悩みに苛まれたりもする。今日はMちゃんがこころオープンな日だった。Mちゃんは、自分のために何かするのがあまり得意でないのかもしれない。作りたいけど欲しいわけじゃない。なるほど。彼女は赤ちゃんがいるとじっと見つめる。この優しい目よ。Mちゃんが、指で編んだストールをIちゃん、Aちゃんにあげる。AちゃんがMちゃんに、これくれてありがとうと言う。 なにやってんのと聞かないで、一緒に作っている方がいいよな。わたしも何やってんのと聞かれると大人だけど(大人だからこそ、?)げんなりする。「なんだと思う?むしろ教えてください。」そういう感じ。 カメラのレンズを買った。膨大すぎて選べないので、マイクロフォーサーズの狭い選択肢がむしろよい。ビデオ用のレンズと、マクロレンズ、2つも買ってしまって、焦りがみえる。マクロレンズでみる世界はとてもエロくていい。 3月4日 飴屋法水さんとか吉増剛造さんとか、石川真生さんとか石内都さんとか山川冬樹さん、、の、講座があったらいいのにな、美学校で。いつか提案しよう。そういう後回しは大体忘れてしまうが、それならばそれでもいい。とにかく、今日不意にそう思った。だけれど、吉増剛造さんは、他の方だって、いつまでも生きていそうでいて、しかし、たぶん生き物でもある。 きょうはPARADISE AIRの日。パラダイスの仕事は目の洗い櫛でカールした髪を少しずつ梳かす的なところがある。遅くまでかかって腹ペコになった。帰り、雪の中チャリに乗りながらこどもアトリエのミーティングに参加。おでこが冷えすぎてやばい。 寝る前インスタの投稿を眺めていると、梅津さんの投稿がめにとまった。彼の文は結構読んでるけどことごとく好かない(そのつもりで書いているのを織り込んでなお有り余るうざさ)。うぜーという感覚を言葉ごとセルフミュートというか、ほぼ切っていたが、不意に情報が入ってきて、じんわり通電再開。ったくよぉ。なんだかなぁ。寝る。 3月5日 自分の作品の研究会に、ありえん大遅刻をかます。楽しみだけど自信が出なくてできれば行きたくないという気持ちがある。ふだん、ただの怠惰で遅刻することは多いのだが、本当に大事な時に限って朝早いわけでもないのに起...

2024/4/7の日記の要約*chatGPT

  展示室にいる人を連れてデモへ行った日の日記chatGPTに要約してもらいました。すごく綺麗にわかりやすくしてくれてなんか立派なことをした気になった。 要約 この日記は、2024年4月7日に東京藝術大学陳列館で開催されたワークショップ(WS)「みんなで何か思いつき、実行する」に関する記録です。ワークショップの目的は、「デモに参加しない人をどのように巻き込むことができるか」というテーマについて議論し、その後実際にデモへ行きました。 ワークショップの内容 このワークショップは二部構成で行われました。 14:00〜15:00:デモについての意見交換 15:00〜16:00:デモに参加しにいく ワークショップで出た素朴な疑問と意見 ワークショップでは「作者の悩み相談」という形をとり、参加者の意見を仮のアウトプットとして気軽に話せる場を作りました。 -デモはどのような人が企画し、どこで開催されるのか、それをどう知ることができるのか? -多くの社会問題がある中で、なぜパレスチナ問題に関心を持つのか? -共感と証拠、どちらがより多くの人々に伝わるのか? -「歴史の中にいる」という当事者意識はどこから生まれるのか? これらの疑問は、SNSなどの場では批判的に受け止められやすいものかもしれません。 ただし、このワークショップは実験的な議論の場であるために、素朴な疑問を話すことが許されました。 ワークショップという形態についての考察 作者は、ワークショップを「実験室」のような場ととらえています。実験室では、火や薬品など危険なものを扱うことができるように、安全を確保しながら進むことが可能です。 同様に、ワークショップに関しても「間違っても良いが、それが間違いであることがわかる」ような環境を重視していました。 また、このワークショップを振り返った日記では、セーファースペースという概念は一元的ではなく、状況に応じた「タイミング・スペシフィック」なものであると考えられています。 また、作者のワークショップのモットーは「多少気まずくてもOK」というもの。1年ほどの挑戦を経て、ワークショップの雰囲気はよりゆっくりで実践的なものとなり、参加者に依拠する形へと変化してきました。 デモ参加後の通知 ワークショップの参加者とともに官邸前へ移動し、実際にデモに参加しました。その場での参加は慎重で面...

1月と2月

  1月2日 何かについて、自分より知っている人との話し方を知らないというのはそれだけでよくないことだな。「それもっと教えて」を言うチョイスによって論破ブームで傷ついた世界はパッチする。ひとはもっとヘラヘラするほうがかわいい。 小競り合いを超えて今日ばかりは家族と話がうまくできなくて怒ってしまった、もうだめだ、最悪だ。妹が私のせいで先に帰った。ああほんとうにごめん。妹不在で父母私弟という組み合わせで一日を過ごすのは多分妹が生まれてから初めてのことだった。(追記: 1月6日にやっと謝った) 1月6日 仕事始めした ガザのインスタグラマーの子のアカウントみた。生理しんどすぎてなんだかわからないけど何やるにも力湧かないな。 1月7日 展示している作品は動物が多い。ということにあまり気づいていなかった。アリウェンがうらさんは異種との関わりを扱うアーティストだよね!と教えてくれて、確かにな、と思った。動物と何かをするのにはストレスがない。言語的に関わりを持つというのは私にとって結構ストレスなのかもしれない。正しさへのコンプレックスがある。強い社会的なショックがあるたび、作品未満のことを作品の中に入れてやろうと試みてきた。 別の何かと関わりを持って共に考えるだけでなく共に生きるということはフェミニズムだとおもう。みんなと仲良くやろうと試みるような"あばすれ仕草"(そんなふうに露悪的に語る必要もないか)も、まあビッチのフェミニズムといえるかもしれないが、それを続けたいのかどうか、という分岐が目の前にある。他人に期待することに限界がきている。北千住駅の乗り換えはいつもいつも迷子になるが、日比谷線から千代田線に乗り換える間のマツキヨあたりで精神的に追い詰められてしまう。今日もそうだった。 1月9日 (二木さんに送った文の下書き) 二木ちゃんの日記読んでて、外から見て面白がることについての10/28の日記読んで、語りかたのこととか私も知りたいなーと思った・・・というなんともぼんやりした反応なのですが。どうでしょうか。外部からの視線と利用者さんとの間に立って介在する、時に発生する小さなモヤりのディテールも興味深いです。そういった感情は外に出てこないよなと思って読んでいました。 ポーランドのアルトゥル・ジミェフスキの映像作品《Blindly》(2010)は、眼の見えない...

12月

  12月3日 おやまちゃんがインスタに書いていたエッセイをよんだ。勝手なアンサー書いた。キッチンでタバコバカスカ吸って立ち尽くしたまま書いた… 12月7日 寝起きからメールを返す。最近一日に書いてるメッセージやメールの量えぐい。なんかほんとこんなんあんま意味ない気がする。適当でいいよーまじで。チャットGPTのおかげで意見の取りまとめとか、報告書とか、どうでもいいところに労力割かないでいいので、一日のうちに使えるクリエイティブパワーを温存することができて大変便利。 役割が定まらない仕事は全然やり方わからない、し、やらなくても良いことなんだろうなと判断してやりたいことや誰もやっていないところから手をつけている。いいのか?これで… 12月8日 阿佐ヶ谷mogmogでパフォーマンス 知らない歌パレスチナのポップス(演歌みたいな)を聴きながら、それにあわせて歌ったりコーラスしてみたりした。何かに沿ってゆく。みる人によっては失礼だとおもわれるかもしれない。でも私のパレスチナの文化への関わりはこのようなかんじなんだ。Just Listen to the Music, but Sometimes Sing Along。いつ思いついたのと聞かれて2.3日前と言ったけど実際には前日。その前は普通にDJの準備してた。久しぶりに人前でパフォーマンス。パフォーマンス作品は1ヶ月くらい緊張し続けて、始まってしまえばそこから終わりまでで作品が完成する。人前で本番中に実験できる(つか本番を実験の機会としてつかう)のは天性の肝っ玉なのかもしれないけどめっちゃ緊張するしおわってからも辛い。だが後腐れない。行動だけがライブアートだ。 12月13日 1ヶ月のうち、どうやら4日間くらい鬱になるな。人と話すのは大丈夫だが、自分のために何もかもやる気すら起きない。そのあと元気が湧いてきて大掃除する羽目になる。模様替え。引越しで開けてない箱をやっと全部(本当に全部)あけた。 12月14日 わい、ちゃんと仕事回せるように絶対になるからみんなのびのびと抗議活動や抵抗運動やって大丈夫。抗議活動して仕事が来なくなったなんてことには絶対にさせない 。がんばってこう、いい作品作ろう、いい世界にしよう!そういう気分。。 駒場にて、生活工房の「対話の効能――〈わたし〉と〈あなた〉のあわい」Vol.2に参加。キャンパスの...

11月

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  11月8日 目的をともにせず、一緒に/何かをする。何も解決はしない。でも抵抗しようとしている。その逡巡をする空間を私たちの間に持たせておく。その現在進行形の現状報告。 (生存していることのみに意義を見出すのではなく、)(死はその人の本質ではないにしても、)←その後に続く言葉は何にするか。。 死者への敬意。怠惰な生とオプションとしての死。お金がマイナスの状況でも生きることはできる。ただ生きているということ自体は、私という生の本質ではない。「主体」という言葉がわざわざ必要になる、という状況をもう少しまなざすべきと思う。 尊厳は売ることができるのか?奪われるようなものなのか?貶めることはあっても、奪うことはできないのではないか?など考えるとき思い浮かべるのは、固くトロフィーのような形をしたカチカチでピカピカの気高さの象徴みたいなものだ。自発的に生成されたピッカピカのもの。 11月13日 六本木で仕事。明らかな金持ちとすれ違う。一言も交わさずともわかるこのすごく嫌い感。 11月14日 KUMAの搬入立ち会い二日目。在不在という(ありきたりなテーマ設定で最大公約数をとりつつオバケ方面にディレクションを振っているのが巧み。てかみんな性格良いなー。ほっこり。 ・feral text garden ・インターフェースのデザインが定まらず。日記のプラットフォームとしてこっちに移植したい。 ・抵抗の布びっちり石・Oちゃんお金済み発送まだ制作まだ紫カクカクの小石/Yさん本と交換する(イマイチにて作りなおす、紫鍵モチーフ)アーユールヴェーダ会する。/MSさんオンラインショップ待機中。 11月15日 遅い時間からはじまる仕事の前にジムへ行くのがここ数ヶ月の日課。今日はついに補助付き懸垂をやった。すでに筋肉痛で腕がだるい。トレーナーさんが「腹筋が引き締まっていない」というので、そのからだの使い方がいまいちわからないんだがと言ったら軽く鳩尾を突かれ「オウフ!」と内臓を筋肉で守る腹の動かし方が起きて身体の方で合点がいった。このトレーナーさん周りにあまりいない野蛮さでウケる。 夕方に成瀬巳喜男『放浪記』見た。面白すぎる。 夜はKUMAの学生のプレゼンの聞き役。私も自分のプレゼンしたーい。。 11月16日 こどもアトリエ。受講生のT君が、黄色のことを光色と呼んでいた。ピンクも桃色と。それを...