2024/04/02

同居を解消してからというもの、この漠とした時間の膨大さに困っている。夢の中にいるみたいにうっとりしているのは寝不足でただ眠いだけなのか。アル-シファ病院での殺戮とその結果としての死体をみる。「身体をばらばらにして、」とは頭対体の関係から身体全体を解放しようとして、ダンスや舞踏に学びそれから何度となく使ってきた言葉だ。本当にばらばらな体を毎日目の当たりにする。死体が白いのは、砂にまかれているからだ。ビニールの中に体のパーツは放り込まれ、赤ちゃんの頭には穴が空いてる。比喩は機能不全を起こしている。(身体という時と体という時がある。体は物理的で死体も含めたbodyを指す記号的な語彙であり、身体はより概念に寄り添っていると考えて使い分けている)


パラダイスエアのプレゼンを英語でやってみた。全くひどいもんだった。2年目だしそろそろお願いします!とコージ君に言われ、バレたとおもった。自分のプレゼンシートを作った方がいいな。私のプロフェッションはコーディネーターで合ってるのかな?アーティストたちの何をコーディネートできるのだろう。同時に滞在する人たちの自己紹介の時間を簡単にでも作れてよかった。いる人同士の交流を促したり、それが街にも接続できるといいのだが私がまだ街のことを知らない。パラダイスの帰り、ショッピングモールの上の方にある古本屋でない本屋に寄り、西村賢太「芝公園六角堂跡」を買った。


帰りに乗ったバスの運転手が女性だった。乗客も全員女のアマゾネス交通を利用し帰宅。8駅目で降車。男性社会でなくなるというときには、こうして女ばかりの公的な空間に入っていくこともあるだろう。武蔵美の近くには女性限定の賃貸物件の集まる袋小路があり、そこが「女村」と呼ばれていたことを思い出す。ただ思い出しただけなのだけど。思い出す瞬間と、思い出したこと自体の内容を紐付けて一行に収めるような文を書く様式は、日記から私小説へと横断する一歩だろうか。できごととおもったことを書くこの日記には、思い出したことを記述して膨らませる作業が入らない。その作業を入れる時、そこの箇所から、世界がめくれるようにして、できごとが物語に、日記が小説に変身するような気がする。柴崎友香「百年と一日」を読んでおもったこと。

そういえば昨日の夜、ドクターペッパーを初めてちゃんと飲んだ。20種類以上のフルーツフレーバーと書いてあり、近種を避けて24種のフルーツの名前を唱えた。冷蔵庫に食べ残したショートケーキがある。昨日の気分が引き続いたまま寝ることにする。