2024/04/10




PARADISE AIRに開かないドアがあるとかお化けが出ただとかで探偵として夕方に緊急出動。どうやら原因不明の気圧差でドアが開かないだけのようだった。なぜ?〈探偵編・完〉

建物全体が歪んでる可能性もあるのだろうか。築年おそらく40年くらいか。自分ちも同じくらい。こわ。死の予感する。

この間、代々木のあたりをふらふら散歩してたとき、いわゆる(いわゆる)上弦の鬼ハウジング(上弦の鬼ハウジング)をみて、でかい家の全部の部屋の電気が付いてるのがすごい羨ましくなった瞬間があった。どうしたら上弦の鬼になれるんだろう。全く想像がつかない。悪いこととかしないと無理かな、詐欺とかそういう。いやそれでも上弦の鬼にはなれないだろう。私程度の考えつく悪事じゃ浅ましき守銭奴になるのが関の山。ああ毎月20万くらい貯金してみたい。こんなささやかな願いなのに。それに、ガッツリ仕事持ってきて友達にバッチリ仕事振ってモリモリご飯食べさせクリエイティビティを満足に発揮し満たされた気持ちでグースカピーと寝かせてやりたい。この一年間そうさせてもらったので、もうそろわしも頑張らねばとのおもい。私も少しはほんの近いところでしかないけど仕事を作っている。でもこれ以上に人の分まで頑張るの、いまは限界だ。ごめんね。

それはそうと香港の時の作品を見返している。これもずいぶん前だけれど。あんま話したくない人とそれでもどうやって話すのかについてのディスカッション。There in no political position with Tinder つってて爆笑した。これを参加してる美学校の哲学講座「アートに何ができるのか」成果展「ゼロ・ゼロ・プラクティス」に出すことにする。元言ってたのと違いすぎるけど仕方ない。またも過去作だが、これも日本で見せるのは初めてのことだ。


私は私が悲しいという状態についてをすっかり忘れがちになるので、ここで少し書いておこうと思う。

私という人物は、おそらくは大体いつも元気で、目がキラキラとして、にっこり(顔色は悪いかもしれないけれど)楽しげに見えるだろう(本当にそうか?)。

が、元気だった?と久しぶりに会った人に聞かれて、正直ちょっと前までまじ無理でしたーでも今はかなり元気です!テヘヘ!と言う時もある。ひとと会ってる時は、大体ハイになっている。

私が死にそうになることはきっとない(今のところないし、これからもおそらくそうはならないような気がする。安心安心!)。

けれど、どうしようもなく悲しい時はある。悲しいというか、耐えられないというか。耐えられないっていうのは、本当にただただ耐えられなく、しばらくワーーーーっとなって、それから小さな穴を針であけてやるようにして、それをこうして一文字ずつ、ちっさな画面に向かって両手でぽちぽちと打ち込み文にしていくことでようやくなんとかするということだけれど。

だから私以外の人が私が悲しかったことを知るのは、めちゃ近しい人も、活動を知ってくれてる友人ではないような距離の人も、みんな同じタイミングに等しく事後(というか主にこうして日記の中やSNSで)である。なおかつ、それぞれが自身の悲しみと照らし合わせることが可能な形で読んで知るので、読み手は私の固有の悲しみをそうとは知らぬ間に乗り越え、良い文だなどと言ったりする(それは構わない)。

こういうふうにしか生きていけないのだろうか?これからずっと?

まあ、だからといって、大丈夫?とLINEが来たって、わーん、ありがとー、びっくりさせてごめんね、また近々天気のいい日に会おうね、とかって言うことしかできない。

(急に振り返るようで悪いけれど、読んでいる人にはこの至極身勝手な書きぶりを許してもらいたい。本心からこの定型文のような返信を作るのであって、もうそれ以上のことは悲しさで手一杯で返信を書くことができないのだ)

すべて全員のBabyだって、こんなふうに悲しくて耐えきれないような朝や夜を過ごしているんだろう。私のこんな日記が、もし何か誰かの耐えがたさをサポートする友のようになっているとしたら、それはすごく嬉しいことだ。こんなに嬉しいこと他にはないというほどに嬉しいことだ。

自分で自分の機嫌を取る的な常套句に正直全く乗れない私がやってるこの実践は、自分がなぜ(この部分については、他者サゲのネガキャンメディアにこの日記がなることを避けるために隠したままにすることが多いけれど)、どの程度、どのように悲しいのかを恨みがましく書き綴り、その書きぶりに満足するという異化作用であり、「それでも、じゃあやっぱり私の悲しさは私の外へは向かわずに、寝て起きたら元気になってるっしょ!というような奇跡みたいに健やかなる私のしなやかな魂まかせになっているじゃないか」などとプンスカいって、悲しみの代謝する過程をスピードつけて文にして打ち込んでるうちに実際に代謝に向かっている(あるいは向かわせている)。文には終わりがある。だからいい。こうして悲しみも文と共にひと段落するのだから。