2024/04/22



昔のカレンダー無いかなとおもって神保町の古書店街の、すごい古い本や記帳や手書きの本や、おそらく日記的なもの、それから版画とかを扱ってる店に入ってみた。版画は本よりも適当に置かれているように見えた。そんな置き方したら曲がってまうど。まあいいのか。本の値札はピンキリで、4000円とかもあれば13万円のも40万円のもある。多分しまってあるもっとすごいやつとかもあるのだろう。店の中の物量と一つ一つの本が持つ圧がすごくて何か恐れ多く、資料が何かないかと見たくて入ったのに、こう、どうにも中を開いて見る気になれない。それは自分のものではないことによる触れ難さではきっと無くて、美術館とかにある安全な距離が設定された鑑賞の対象に慣れすぎていて、どの距離感でこれとどう付き合えばいいのかわからないというようなものだ。読まれることを拒否する本だ。コレクションのための本に対峙するにはちょっとこちらの全てが足りていない。ダメージの少ない和紙の触り方も知らないし。静かにじっとして背表紙をウォッチするので精一杯であった。

電車の中にオフショルのレベルがカンストした服を着たひとがいた。人魚姫みたいな服で電車に乗るなんてすごい。知らない人に背中とかくっつく可能性もあるのに。すごいよ、あんたがクイーンや。好きな服を着るというのは接触可能性からなんらかの態度を持って自分を守り、見られる恐怖を弾き返す表現である。だのに彼女、よりにもよって寝ている。大丈夫か?とりあえず彼女が無事に帰れますようにとおまじないをかけた。

件の問題についての合議を執り行い調停。問題を変形させることで次の問題を作ってそれを落着とするも、問題を変形させたと見せて実際には自分の方を変形させている。問題自体は変形しないので仕方なし。と、まあ大体こういう感じだ。やむなしである。アーなぜショックなのかもよくわからない。変に狡猾なズルさが消えて素晴らしい嬉しさが帰ってきた感じもするから。しかも何かが増えて。