2024/04/19

 平岡手帖への寄稿文をここで書く。このブログエントリは私にとって文を書くための机になっている。Googleドキュメントで書くのすら最近は少しよそよそしい。このbloggerの不便利なUI、ずっとこのままでいてほしい。

さてなんて書こうか。

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鑑賞ってどうやってするのかと聞かれて、とにかく見るのだということをどのようにして話せばいいか…という時に平岡手帖をレコメンドするシーンを思い描いた。

平岡手帖では、複数の展覧会をひとりの人が鑑賞してまわることについて目の当たりにできる。異なる展覧会での鑑賞体験が引き続き折り重なり混ざり途切れながら隣り合って経験されて、そこへは展覧会とは別の経験や記憶なんかも当然のように入り込んでいる。鑑賞という行為が存在していることを記録した文だ。この生(活)のアーカイブは作品だけでなく鑑賞があるということを示す。作品はそれぞれ孤独に浮いているのではなく観る人の内でなにか別の物事とくっついたりして変形しているということ。それで世界がひそかに芳醇になっていること。


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どうだね。支離滅裂にも思えるけどまあいいか。

夜、知らない人と映画の話をしてすこぶる楽しかった。素人の言葉を尽くす。そういう会話があればいい。