1月と2月

 



1月2日

何かについて、自分より知っている人との話し方を知らないというのはそれだけでよくないことだな。「それもっと教えて」を言うチョイスによって論破ブームで傷ついた世界はパッチする。ひとはもっとヘラヘラするほうがかわいい。

小競り合いを超えて今日ばかりは家族と話がうまくできなくて怒ってしまった、もうだめだ、最悪だ。妹が私のせいで先に帰った。ああほんとうにごめん。妹不在で父母私弟という組み合わせで一日を過ごすのは多分妹が生まれてから初めてのことだった。(追記: 1月6日にやっと謝った)


1月6日

仕事始めした ガザのインスタグラマーの子のアカウントみた。生理しんどすぎてなんだかわからないけど何やるにも力湧かないな。


1月7日

展示している作品は動物が多い。ということにあまり気づいていなかった。アリウェンがうらさんは異種との関わりを扱うアーティストだよね!と教えてくれて、確かにな、と思った。動物と何かをするのにはストレスがない。言語的に関わりを持つというのは私にとって結構ストレスなのかもしれない。正しさへのコンプレックスがある。強い社会的なショックがあるたび、作品未満のことを作品の中に入れてやろうと試みてきた。

別の何かと関わりを持って共に考えるだけでなく共に生きるということはフェミニズムだとおもう。みんなと仲良くやろうと試みるような"あばすれ仕草"(そんなふうに露悪的に語る必要もないか)も、まあビッチのフェミニズムといえるかもしれないが、それを続けたいのかどうか、という分岐が目の前にある。他人に期待することに限界がきている。北千住駅の乗り換えはいつもいつも迷子になるが、日比谷線から千代田線に乗り換える間のマツキヨあたりで精神的に追い詰められてしまう。今日もそうだった。


1月9日

(二木さんに送った文の下書き)

二木ちゃんの日記読んでて、外から見て面白がることについての10/28の日記読んで、語りかたのこととか私も知りたいなーと思った・・・というなんともぼんやりした反応なのですが。どうでしょうか。外部からの視線と利用者さんとの間に立って介在する、時に発生する小さなモヤりのディテールも興味深いです。そういった感情は外に出てこないよなと思って読んでいました。

ポーランドのアルトゥル・ジミェフスキの映像作品《Blindly》(2010)は、眼の見えない6人が絵を描く姿をとらえた映像で、作家も絵具の色を教えたり、何を描くか依頼するといったかたちで6人と関わる姿が映し出される。という内容らしい。です。また、2011年にLPリリースされた作品『SINGING LESSON』(2001年、ワルシャワのアウグスブルク教会でプロジェクト「SINGING LESSON」の第一部にてオルガンの伴奏と、ろう者の子どもたちの合唱団による音源)がYouTubeで聞けたのでシェアします

https://diskunion.net/punk/ct/detail/1008444944

↑は作品の解説(ディスクユニオン)

讃美歌の様式があるからそこに集まって試みたりすることが他者に知覚できるようになるというプロセスについて、(キリスト教の習慣とか全然知らないんだけど、)鑑賞している方にもちゃんと引き受け可能な責任が作品に残っている感じがしました。

https://www.youtube.com/watch?v=6HbRck5EpPg&t=2s


1月10日

いろんな人のポートフォリオを見る。私もウェブサイトをまとめなおさないと、と焦りが湧いてくる。まとめるよりも先に作品を詰めないと。2021年からポートフォリオの更新をしてない。あれもこれもと考えるばかりで何もできず、諦めてプラネテスを観る(なんでやねん)。
ハチマキの狂いきれなさ、苦しい。ハチ以外の人たちはバランスよくやれている感じがするのも感情移入しすぎで辛い。

長風呂して作品を考える。人間が脳神経の信号になっているのを捉えたい、見れるようにしたい。自分の本質は瞬間的に訪れるチャンス、みたいなのをつかむ時だと感じる。作品はそれを確認する作業だとして。生活に埋もれてしまってはその私が台無しになるが、生活がだめだとそのストレスで何も手につかない。


1月11日

最近家でピアノのアルバムを聴くことが多くなった。夜は特に。気持ちいいから。小学一年生から高校二年生までピアノを習っていた。中学生頃まではだらだらと学校から帰ってきてから毎日15分くらいを練習に使ったような気もするが、部活もあったし友達や彼氏がいたり色々と忙しかったはずだが一体どうやって捌いていたのか。リビングに置かれたアップライトピアノ(テレビと同じ部屋であり、ソファの横であり、5人の家族と猫がいるし騒音トラブル対策のための隣人との約束事があった)を弾くたび家族や近所が気になった。迷惑というよりは、なんか聴かせているという意識であった。自分以外に誰もいない空間でピアノを無目的に弾いたことは12歳を超えてからは一度もなかった。電子ピアノが壊れるまでは、自分の部屋で電子ピアノにヘッドフォンを繋いでピアノで遊んでいた。いま思えば子どもがなんか練習しているのなんてそれ自体微笑ましい(この消費感)のだから気にしすぎのようだけど、まぁ審査されてるんじゃないかというのが気になって気になって仕方なかったし、何やっても上手くいく天才幻想に取り憑かれてもいた。無論そうではないので教室では怠惰を叱られた。


1月14日

パラダイスに今来てるアーティストがかなりナイスキャラで、風呂に入る前と後の体重をほぼ毎日スプシに記録している。汗の量を体の水分量60%を基準に計算し、どれだけの水が体の毛穴を出入口にしているのか測っている(たぶん)。

家の机をアクティベートしたのでめちゃ作業捗る。まじで保険証とか年金とかちゃんとやんないと。軽く詰みかけている。あといいかげん請求書も出さないとまずいようーちゃん。

アトリエオンゴーイングのミー。いつもよりちゃんと話せた。実態がある活動の話は具体的でやりやすい。長期的な課題に着手することになった。もう1年間は赤字出さずに健全な運用ができるよう(会場費がかからないというのは改めてすごいことだ)会計とか企画についてもやっていきたい。前に山本さんがチラッと言っていたいろいろなところへラーニング企画を持ち込むというのはありだとおもう。


1月17日

ティアキンを久しぶりに起動。忙しい時ほどやらなくていいことに手をつけないとやってられないものだ。やり込み要素いくつかやってゲームの中で人助けをする。出かけなくても広いので、ゲームは最高。オープンワールドは終わりがない。馬をなるべく置き去りにしたくない。馬にはモモ、チャッピー、テンテンなどの名前をつけている。手が冷たい。




1月26日

展覧会準備。

(・・・)相談の先回りをするかもなんですが、横浜のstudio oowaという障がいのる子どもと親のためのオルタナティブスペースと会社をやってる写真家の加藤甫さんに会う機会があったので、自分で決定ができない方の肖像や生活の断片を作品で扱うことについて相談してみました。

いろんな機会に立ち会う生涯の回数が障がいを持たないひとと比べてものすごく少なくなるから、その機会をいかにつくるか、ということ言ってました。映像だったらプレ試写会をして保護者にも安心してもらう、とか、遠足で来れるようにする(来るというアクティビティをつくることメインで、映像もその過程にあるというようなつくりにする、とか)など、アドバイスもらいました。

全部一気にレギュレーション決めるのはむしろ難しくなるので、一人ずつのことを考えていくのがいいのではないかなーという感じでした。

また話す時に細かに相談しましょう!

(・・・)


1月29日

パフォーマンス作品は、作品についての批評を面と向かって展覧会期間中にいただくのは避けたい。文だと読む時を選べるのがいい。目の前だと、フィジカルに応答するのはかなり苦痛。


2月5日

日記だいぶ空いてしまった。

ラワンベニヤ板とか大きいテーブルとか、そういった素材や要素自体に愛着がある。アーティストのスタジオというものは大体環境が似ていて、三六規格のベニヤ板に、本の一節がメモされたケナフ製のノートの切れ端がマステで貼ってあるということへの親密な気持ち。


2月6日

助けてほしいが、どうやって助けて貰えばいいのかわからん

とにかく急かされたい そしてこの仕事の終わりがどこなのか、ヒアリングしてほしい 今ここでやって、おわるまで誰も帰らないというやつをやってもらいたい 宿題禁止 仕事場欲しい 

仕事と仕事の隙間で仕事したくない!!!!自分の作品以外の仕事は別にどうなっても良いと思っているのは悪魔すぎる。忙しすぎて心濁ってる。シーズンごとに1種類のプロジェクトに集中したい、そういう働き方はきっとできるはずなんだ。


2月12日

どエロのTL漫画がエロ無しでドラマ化されるらしい。


2月13日

アイス屋さんの作品を思い出すのは、TikTokで「アンパンマン体操」にのせてJO1の「ツカメ」のダンスが合わさった動画を見ているせいだ。「もし自信を無くして挫けそうになったらいいことだけいいことだけ思い出せ!」というやつ。それな〜!

滞在先でアイス屋さんできるようにブッキングしてパフォーマンスして印刷所見つけてポストカード作って配ってきてというのを準備遂行完了まとめまでを本当に全て徹頭徹尾自分でひとりで手配したというのは、実行能力以上にただただ強運だった。手伝ってもらっていたら、もしかしたら協働相手にわかってもらうことを優先して、自分がやったことのある範囲を説明し、相手との間にそわせるような手抜きじみたことをしていたかもしれない。今回の作品はちゃんとできているんだろうか。


2月14日

美学校の片付け。めちゃくちゃ重い板とかを下から上へひたすら運ぶ。しんどい。こういうのは20歳くらいの若い男がやる仕事だと思う。三六板を一人で担いで階段を上り下りし、ぐちゃぐちゃになっていた棚を分類分けして整えた。自分ちはめっちゃ散らかっているのに、仕事場では他の人よりも片付けをする。自分の展示のことがまだまだなのに、他人の展示の搬入で頼りにされる。気づかないうちに手をパタパタしながら話していたようで、真似されて気づく。そんなつもりなかったので勝手に気まずい。

自由な若者(音楽やアートをやっている若者像)と貧乏とゴミ、汚部屋が結びついているのは解せない。日常的に出る燃えるごみよりも、燃えないごみの方が厄介だ。アップサイクルな日々。汚くてもokという集団的合意が取られている場は、男たちがつくってきた流れだと思うと捨てる気持ちもなぜだか燃えてくる。blanClass は綺麗だった。それだけでもすごいことだと思う。


2月15日

ティアキンの、転がっている"アイテム"が全てキラッとエフェクトかかるのって有意味のものが風景を超えて言語的なものとしてこちらを向いているということじゃん。と、YAUでの西澤さんの展示で写真に写っているものがこっちに向かってきている言語的な空間の表象をみた後に、ゲームしてて思うなど。

紀貫之のこと考えると、文にジェンダーがネットリと絡みついてくる。オンラインで日記を公開していることと、"ネカマ" 文学プラットフォームとしての日記というのが交差する。身体を拒否するなまえ、声は可能なんだと、紀貫之に教えてあげたい。長谷川白紙「ボーイズテクスチャー」は去年作曲された中で最も嬉しかった曲のうちの一つ。

セックスワークのことどう考えるかというのは、自分の差別意識を認識すること以外の入り口はない。合法でも非合法でもセックスワークがなくなるわけでないなら合法化した方がいいのか。安全て肯定的なセックスワークというイメージがつかない。

文を書く時、時制の問題がうまくいかない。

次に休みができたら6時間自分の部屋を片付け続けたい。全てが途中のままになった部屋。物と時間の間をうめるように空間があって、その隙間で私はじっとできてしまう。どこにいても、暇さえあれば嫌いな人のことを考えてしまう。

(うざったい者同士として両思いに批判しあう負の友情)




2月18日

BUGのインタビュー撮影のためにPARADISE AIRを休む。


2月20日

パソコンを忘れて美学校に出勤。最近はもっぱら皆藤さんがいつか手をつけたいとこぼしていた場所の片付けを完了させて場の願いを叶えたり、試運用ということでほとんど何をやってもokということになっているtiktokのPR動画を作成したり、年度末とスペースの改変に差し当たっての隙間に差し込み続けた領収書にも似た仕事をしている。片付いたそばから何かが置かれていく。重複した工具がありすぎる。置き場広く雑多で、無くしているからなのではないか。広い空間を細かくしていって人間の認知の及ぶサイズに仕切る。その手間のかかることかかること。。


2月26日

一歩引くにはどうしたらいいか。自分の制作は引くことにあるのかもしれない。引く場を作るために出る。他の人やなにかを前に出す。

玉山さんの豊田市での展示がすごそうだが行けず、行かず。なるべく少ない廃棄物を考える今、彼の作品見るとクラクラしそうだ。でも写真を観る。木材。予算。うう。どんだけ〜☝️、とおもう。展示室が一時的な場であることが、私の作品に関わるあらゆるストレスの元凶(それを解決するためにアイデアを出し続けている)かもしれない。玉山さんのような作品を見る目も、エ〜、、とおもうのはそのことばかりが気にかかるからだ。天命反転地ではペンキが剥がれてゆく。誰も来なくて閑散としながら作品が地として待っている。美術の忙しさ。じゃあ絵を描けば、というのもあろう。たしかに。学生の頃お金持ちだったらどういう作品作ってたとおもう、と聞かれたことある。立体造形的な欲望がないからわからないな。

ひとに指示出して、それをじゃあどうする。アウトプットが連続していてつらいつらい。


2月28日

日記の編集がやっと終わった。だいぶ編集した。みんなの日記が面白くてつい追いかけてしまう。面倒な人ともフレンドリーに接してきたけど、もうやめて無視もしていいというふうにしようかな。編集のために4月から読み返してきた日記には、絶えずずっとそういうことばかりが繰り返し書かれていた。


小山さんの同伴分動者としての日記があったので私も書いてみたい。

(書いていたら仕事術みたいな感じになってなんだか偉そうになった)


①こちらが引っ張らないといけない(そのために雇われている)という前提がある場合

②向こうがアプライしてくる場合。

私の仕事はだいたいその2つに分類できる。


その上で、雑談ベースの4段階に分かれた教育的なスタイルが身についている。

1段階:基本的な分担作業(普通に相手がやりたいことを聞きながら一緒にいる)

2段階:一緒にやるパート(こちらにも主導権がある)*オプション

3段階:放置プレイ(その人にしかできない領域に踏み込んだのを見届けた時点で離脱する)

4段階:身近な第三者としてフィードバックをする


第2段階のやることの増やしていき方

・私が面白がれるところまでしか付き合わない(雇用にでなくアートに対して誠実でいるのが私の仕事だという強い態度)。

・面白くないな(別に作品がどうとかでなく、人として・・・アンチフェミみたいな人もいるので)と思ったらその人を説得試みる。

・全部だるいなと思ったらオプションなので省いてもよい