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6月, 2021の投稿を表示しています

2021/06/29

 小雨 少し肌寒い 何があったっけ、と思い返すと返していないメールなどのことを思い出して具合が悪くなってくる。また壁の施工をしていないし。やろうと思ってやってないことは、思い出してもすぐ忘れてしまう。スヤァ…。。いや本当にまずい。やらねば。明日こそ。やらないといけないことが日が経つにつれて増えるのは不思議だ。法事も親戚が死ぬたびに増える。他人が干渉すると、有限さが引き伸ばされたり希釈されたりする。なにかしらよ欲望で物差しが伸びるような。伸ばし方の中で「受け継ぐ」が最も嫌いだな。 法事に辟易としてなんとか長男たちは水面下で家父長制アンチ行動をしているのかもしれないとか思ったりする。

2021/06/28

 晴れ 小雨 涼しい  ラボで田中功起さんのレクチャーと勉強会。わたしが学生の頃にヴェネツィアビエンナーレということもあって、田中さんにすごく影響を受けているアーティストのひとりだと思う。田中さんがもうほんとうに過不足なく、完璧に表現した領域があり(それってほんとうにすごいことだよ)、また伝達技術の発明もしていると感じる。今日のレクチャーでアーティストキャリアのピークを超えている自分がそこからどう変われるかが重要というような話をしていたのだけど、他のアーティストたち(というか自分)も田中さんの発明以降同時代に作品をつくるとき、どう引っ張りあえるか、あるいはいかに更新するかをもっと真面目にやらないとよな。うん、田中さんの作品と同時代で引き合うというのはひとつの重要な視点かもしれない。橋本聡さんや眞島竜男さんも。すごいアーティストたちと母国語が同じなのは本当に嬉しいことだなと感じる。たまに、「が」がくるたびに「がぁ↑」と上げ伸ばして、というかむしろ中継地点に必ず「が」を入れて言葉をくぎりながら主語と述語みたいな関係をとにかく複雑化させて喋るみたいな、でも整理しながら。ま、とにかくそういう人がいて、日本語に長けてるなっていうか話すことに慣れ親しんでるなといつも感心する。前にコーパス(おしゃべりの音データ)を集めて分析する研究者のお手伝いのバイトをしたことがあり、そこへ集まってくるデータは知らないひとが撮っている意識みたいなのがかなり薄い状態で親しい話し方をするからそれがおもしろくまたなぜか切ない。知らないひとが生きている記録が(戦争とか震災とかともすごく離れた内容で、ただそんな日があったというだけの記録が)ここにあるということにたまにすごくあてられてしまって、バイト中にトイレへ行って泣いたりしていた。

2021/06/27

 晴れ 雨予報だったけど ベトナム料理をたべて、川原を散歩した。土鳩が2羽じめんをつつく。姫昔蓬が乱立して景色に濃淡がついている。細い草を足場にする雀。草が雀の重さでぽんぽんと跳ねている。花のついたアレチハナガサを足場にして蔦がその面積を増やしている。足が動かないで手に目があり脳があり、いや全身が同じように手であり目であり耳であり脳であり、身体を無数に枝分かれさせた状態で自分以外のなにかを足掛かりとして、あるいは自身が足掛かりとなったりしながら、関わる面積が増える。領土の話のように思えて、ウッとなるけれど、受け入れ全身で環境に向き合うしかない/自身が環境なる植物の、特に雑草のありかたは、あの川原の風景は、わたしにとってかなり理想的な姿だ。(風景の魂はどんなものなんだ) ひとの誕生日はたのしい。小っ恥ずかしいやりたいことを思う存分やるチャンスだから。川原を思い出しながらそんなふうな花を買ったり、ケーキにネームプレートをつけてもらったり、歌を歌ったりした。aokidからお祝いのメッセージが届く。たしかに、aokidはいつも誕生日会みたいなひとだなと思ったりした。お誕生日おめでとう。

2021/06/26

 晴れ ちょっと湿度ある 夏に近い雰囲気だが夏ではない。夜になったので日記を書き始めようと思う。Kの鼻から息がはかれる音がする。  種類としてオオカミにとても近い「バセンジー」という犬がいるらしい。人間と群れて暮らすような伴侶種の犬は吠えるが、それは仲間が近くにいるから安心して吠えるのであって、独立した犬は吠えてしまうと自分の居場所がばれるので吠えないそうだ。オオカミではないけど魂がオオカミというか。そんな話をしながら「何歳の気分?」と聞かれる。5歳と思いつつ、15歳くらいですかねと答える。15歳って5歳になりたいみたいなところない?と言われて、正直5歳ですねと白状する。「じゃあ5歳のオオカミっていうかバセンジーはどう?」と問われる。よい。「それがいいです」。  Sさんは子どもの頃、「自作の日記を書いていた」と言う。どうも倒錯しているけれどすごくおもしろいアイデアだ。「自作の日記」。日記のていをとった小説、とは言わずにあくまで日記なのがいい。人称のはなし。ひざがビリビリのジーンズに子どもが「痛い痛い?」と保冷剤をそっとあてにくる。ジーンズの痛み。転んだ可能性への言及。ビリビリだ!と言う発見から主語を飛び越えて、いや、多くの主語を包括的に扱いながら痛みと言う現象につなげる。気持ちのいいもの。そういうふうに交感するという話。ジェンダーもそう考えたい。髪を切ってもらいながら、Sさんと話したこと。新しい髪型がわたしにものすごく似合っていて、この姿はうらあやかというよりも浦彩佳もいうよりもささやしせずの姿だと感じる。嬉しくなって、ビリビリのジーンズを買った。ビリビリのジーンズを着るたび多くの主語を、わたしのさまざまな細かな人格が表現されるこの身体をしたままに現象のように存在するヒントを得ることができるような気がする。わたしは現象になりたいのだ。

2021.6.25

 晴れ。本当に梅雨?涼しいしかなり快適。ちょっと気圧にムードある。 助成にアプライするためにプランを整え書類を作る。つがちゃんとの仕事は元々楽しかったけど最近さらに楽しくなってきた。ラボの仕事はなんかこっくりさんみたいで、なにかのバランスにどう転ぶかという感じで、意外と自由な企画書を書くことができない。もちろん学生は完全に自由だし、私自身誰から阻害されているわけでもないけど自分が好き勝手やるとバランスが取れないし、なんか教えたりしたくなったりしそうで嫌なので好きそうだけどやったことないことをやるように最近はしている。「遊んでください!」と言っている一年生がその割にあそびに来ないのは場の設定がボヤっとしすぎているということなんだろうか。それとも二人きりで遊びたいってこと?わたしの誘い方は半分開いている(勇気あるもの求む的雰囲気だとおもう)イベントみたいな遊びだけど、指名してほしいってことなのかな?指名されると断りづらいしわたしはあまり名指されることが好きじゃないのだけど。思い返してみれば、これまでしてきた言い合いでも、嫌な感じのことを言ったひとに直接言わずに、そういう発言を許す空気が最悪というかんじで怒るようなことが多かったかも。野生の人がい〜。

2021.6.24

  曇り。昨日の日記に「 経験を共有するというのはいったいどんなことなんだろう。たとえばVRみたいに一人称が他人に移植されるような日記は。」と書いたが、人称が他人に移植されるというのは「共感」であってはほしくないなと朝一番に思う日だった。電車の中でもそう思った。共感の嫌なのは、そしてそれが現れるのが嫌なのは、わたしの感性が言葉が蹂躙されるように感じるからだ。共感よりも交感がいい。共感が「わたしにもこの経験がある」ということを思い起こさせるとするならば、交感は「この経験はないけど、翻訳を受け取ることができる」というような感じかもしれない。  「女の子の部屋」。Kちゃんが企画している共同制作のビジュアルイメージが「女の子の部屋」なんだけど、それがいわゆるピンク/ふりふり/kawaii的女の子イメージに向かっていて、まあ個人の趣味だしいいんだけど、趣味の範疇でやってしまうのは美術じゃないんじゃないの?と思ったりどうにか楽しくバックラッシュ化を避けたいとか、あるいは見越して扱えるものになるといいなと考えてる。どうやって伝えたらいいだろうか。ジェンダーを作品で扱う時、人やものや空間に演じさせる時、作者自身も自身のジェンダーについて考えないわけにはいかないと思うのだけど、「女の子らしい」とか口から出すときにもそれに自分が与するの抵抗を感じるとかあるんじゃないかと思うし、usよりもIとして語るべきと思う(youは最悪って思うことが多い)。主語がIであるとき前提として共感の気配が漂うだろうか。usは連帯だろうか。交感の気配が漂う主語はなんなんだろう。

2021.6.23

 雨と大雨と晴れと曇り。ストーリー性のある天気、と思いつき、なんじゃそりゃとつっこむ。  「生理の日こそ可愛いもので気分を上げよう」という歌の流れる生理用品のCMのことをたまに思い出す。ちょっとやそっとの「可愛い」じゃ気分なんて上がらないよね。  Nと日記の話をして、Nは語りかけるような口調と文法で手書きで日記を書いて貯めているらしい。中学の頃から。すごい。  毎日毎日仕事をしていて、楽しいのだけど、ひとりでじっくりなにかをする時間と元気を全然確保できていなくて辛い。なにか新しい気づきが得られないと心が衰弱していく感じがするから面白そうなところへ赴くようにしているのだけど、何にも集中できなくてとてもしんどい。できる時もあるけど、やはりなかなか難しい。19時まで働いて、帰ってきてご飯食べるほか各種自分のメンテをするとそれだけでもうクタクタ。寝よ寝よ、寝ます。おやすみなさい。  やっぱもう少しだけ書こう。公開した後だが。風呂に入ったら回復した。風呂はいい。風呂嫌いを克服しつつある。  RAUで「誰かと経験を共有することが映像でできるとして、それはどんな映像か」というような話が出た。映像、のところはいわば変数で、文章とか絵とか日記とか音楽とか踊りとか歩行とか呼吸とか料理とか語りとかいろいろ入れて考えられるやつだと思う(し、誰かと経験を共有するということを特別目指さなくたって別にいいのだけど、みんなで考えると巻き込みあえて楽しい)。日記にそのものさしをあててみる。「誰かと経験を共有することが日記でできるとして、それはどんな日記か」。共有問題が発生する。わたしの経験を実在を翻訳して記録したものを誰かが読んで、それは共有でありつつ経験の共有ではない。経験を共有するというのはいったいどんなことなんだろう。たとえばVRみたいに一人称が他人に移植されるような日記は。

2021.6.22

  晴れ。急に不正出血+生理痛で、か細く叫びながら起床。悪魔が住んでいる。そんなスタートなので何もやる気になれず、ただ諸々の事務をこなす日。そういえば日程調整とかの事務的な連絡以外のLINEを久しぶりによくやる日だった。これ見た?とか、これ見てよ、とか。しかし今日は本当に足が浮腫んで痛かった。すごく血の巡りが悪い気がする。高校生の頃、疲れが出やすい体質なのかあまりやる気がなかったのかそのどちらもなのか、まあそれなりに私なりに楽しくやってはいたもののそんな感じだったので、部活の練習ですぐ足が痛くなっていた。「疲労骨折」と耳なれない言葉に浮き足立って、これはきっと「疲労骨折」なんだとばかり思っていたけど、おそらく浮腫だったんだと思う。あの時の痛さにすごくよく似ているから、この痛みは浮腫なんだと思うけど、もしかしたら疲労骨折なのかもしれない。普通に生活しているだけでなるものなんだろうか。調べると「シンスプリント」と書いてある。スポーツをやっている人がなるものらしく、私とは無関係な感じもする。痛みの原因は全然予想がつかない。ウィメンズクリニックと整骨院に行かないと。。それと歯医者も。

2021.6.21

 晴れ。昨日のこと思い出したりしつつ、なんとなく心ここに在らずと言った感じでメンタリーリモーテッドワーキング(mentally remoted working)文法は知らんがとにかく気を分裂させた状態。なんだかうっとり。  学生たちとやっているフェミニズムzine「Red Stocking」の表紙用の写真を撮影し、記事の近況報告をする。服のトレードをするお金が介在しないフリマイベント「服服交換」も始まり、みんなのクリエイティビティがやばくてなんか泣きそうになっちゃう。場所をシェアしてる人が勝手にアイディアを持ってきて付け加えて場をアレンジする。統率の取れた区画主義的なコレクションやバリエーションよりも、つわもの達が勝手にやるブリコラージュがいい。

2021.6.20

 晴れ。オンゴーイングコレクティブで企画中の、アーティストやキュレーターたちの生活にフォーカスした展覧会に向けて、子どもたちの顔合わせを公園にて。出産や子育てを経験していなくても、周りに子どもがいたり、子ども向けのワークショップを考える機会もあり(そういう仕事が振られる系アーティストとそうでないアーティストがいる)、ケアワークを考えたり自分と違う環境のことを考えたりするときも、そしてわたしの身体が女性であるということも含めて「子ども」という存在をブラックボックスに入れておくのは難しく、どんな子どもがいるか知りたい。子どもTの判断や行動はとても具象的で具体的で、Tはまだ十分にマジョリティの言語形態で喋るわけでは無いがとてもわかるかんじがした。具体的とは「目的があってそこへ向かっている」あるいは「その状態であり続ける(たとえば目の前にダンサーの身体があるとき、抽象的なダンスは無く、コンセプトがあってもなくても身体の形はそこに現れ続けてしまうような)」ということをわたしは思い浮かべる。必要な知識(暑かったら水飲むとか)や身体のデカさを持っている人が、必要なときに補助をするということをベースにしていい気がする。あとは、要望を聞ける(何かしらのランゲージを受け取るリテラシー)仕組みを設けて、そのくらいでまずはいいのかもしれない。

2021.6.19

 小雨。昼に起きる。昨日食べたピザの匂いがこもった部屋。臭い・・・植物に水をやり、シャワーを浴びて着替える。飲み残したリンゴジュースを飲み切る。前日に残した食べ物は1日くらいなら常温で放置していても口にしていいということにしている。  Sと待ち合わせてvalkneeのイベントに行くため渋谷へ。S、valkneeさん、田島さん、会いたかった人に会えて嬉しい。女児の憧れグッズが並ぶ祭り。田島さんのbring-bringを装備。ハートやラメ、偽宝石、動物のビーズがついたヘアゴムなどの「いつ着けるんだこれ」系アイテムをたくさん持っているが、みんながいい感じに着こなしていてこうつければいいのかと納得した。着たい服を着る元気がかなりチャージされた。この夏は楽しくなりそうだ・・・  on stageする同世代・同性の”推し”を見て、自分は好きになられることを避けて活動してきたのだと思ったりした。私のところへTwitterのDMとかでたまに嬉しくないメッセージをよこしてくる人がいて、それは好きです的なやつで、作品ではなく私のことで、かつ恋愛的な意味であり、そういう人は大抵親しい人ではなくいつも頭抱える。怖いしやめてほしい。また「 若いうちは見にくる人も楽しむ人もいるかもしれないが、年取ってもそういう作品作るの?ま俺は応援してるけどw 」と(もっと嫌な言い方だったような気がする)いってきた クソカス絶対許さんばかアホドジまぬけ早よくたばれボケナスぽこちん男さん的な 人もおり、そういういろんな方向のセクシストたちが女性アーティストのことをマジでめちゃくちゃ邪魔しているというのをみんなもっと知ってほしい。というかアーティストだけでなくキュレーターとかボランティアとかみんな結構嫌な思いそれぞれしているのではと思う。やだね〜。女性たちがやりたいことを楽しくやるのに居合わせるたびに「好意かもしれない」と勝手な暴走をしてしまう人。。。好き勝手やって全然本当に大丈夫な環境を得るには、そういう人は無視しつつリストを共有して身の回りから締め出す方向で構わないと思う(だって無理なんだもの)。valkneeのライブとMCにエンパワメントされたことだし、もう少し普通に前に出てみようかなと思った。「こんな普通の30歳のヲンナの感性を支持したり応援したりする人の態度がかっこいいし、支持してる。そのリスペクトの循

2021.6.18

  ついに、翌日に日記を書く。いつも日付的には日を跨いでしまうのだけれど、眠りのカウント的にはギリギリ「今日は」の適用範囲にある。しかし今回ばかりは「昨日は」という書き出しで書く。  昨日は、その昨日のことを思い出す一日だった。昨日はその昨日の日のことを、つまり金曜は木曜のことを話してばかりで、昨日という日の印象が薄い。一昨日のことを話す昨日。一昨日のことはこの日記の前の日付の日記に書いてある。だからここに書いておくべきことがない。そういう日はむしろ特別な感じがする。抜けの日。美しい気がする。昔話ばかりをするひとがいるが、その人の今日という日の感触はどんなものなんだろう。経験を圧縮して語りでコラージュするような?あるいはDJのような?ああそういえば、昨日のゴケミドロのDJの構成は昼休みのチャイムが鳴ったと同時に始まって(チャイムと同時に始まる気持ちよさ)、蝉の声、誰かのフィラー(えっと〜、とか)のサンプリング、そして複数の曲が複雑に重ね合わさっている状態から気付けば「星規模での危機」が起こる系映画のスペクタクルな曲がかかっている(随分遠くまで来た)。ややあってミニマルめなポリリズム、ジャズっぽいようなスカっぽいような時間、昼下がりって感じの優しい曲、そして蝉時雨に帰ってくるというような構成だった。なかなかよかった。いや結構よかった。白昼夢的な感じ。  残しておくということはサンプリングできるということで、日記に残さなくても、ナラティブで掘り返すことで出来事化され、身体を獲得するある日にあった事。ある日にあった事を、プレーンにそのまま取り出したい時、それをどう呼べばいいのだろう。  今日はこのあとvalkneeのイベントへ行く。田島ハルコのDJがあるということで期待。

2021.6.17

  晴れ。「都心」は豪雨との噂を又聞きする。本当だったんかな(都心、というところがどうも嘘くさい)?どちらでもいい、自分が巻き込まれていない天気の話を記録するのはなんだか不毛な感じがする。手元のキーボードを見て、この英数字の全てが一望できていることに急に驚いた。キーボードにはひらがなも実は全部書かれていてるっぽいが、慣れの問題なのだろうけど、行と列で検索する方が一望するよりもスムーズに思う。なんとなく日記はフリック入力では書かないようにしている。  占いのおもちゃから「スケジュールを組み直して」とのお告げがあり、暗示的で怖い。Mには「野良猫に愛を」というお告げ。垂木で伝えてくると言って、パフォーマンスをすぐに始めるM。気まぐれですれ違いざまに/距離が空いている状況で/大きめの声でオォ〜ッス!と呼びかけるというおちゃらけをSに仕掛けたら大きめの声でオィ〜ス!と返してくれた。愉快。  帰りの電車でMとJiri Kovandaの話をしつつ、パフォーマンスイベントの企画をした。中学生の頃謎のひらがなの羅列と「ヒント:パソコン」と書いてある紙をもらったことがある。windowsのスイッチをいれ、キーボードをそのひらがなの手引きの通りに打ち込んでゆくとラブレターの文面がメモ帳に入力された。パフォーマンスイベントでラブレターのエピソードをトリシャ・ブラウンの「イマジナリー・キューブ」で試しに踊ってみようか。あの手紙は本当に素敵だった。  話している最中に、不意にMが今日はめっちゃ楽しい日だった〜と高らかに言っていて、聞いている方も胸の内にポップコーンが弾けるようで、これは絶対に覚えておきたいし日記に書いておこうと思った。そんなセリフ聞けることあるんだ、と思いながら電車を降りて自転車の鍵を開けていると、小学生のboysが自転車で立ち漕ぎをしながらノロノロと通り過ぎる。「おでん〜おでん〜おでんと言ったら〜・・・だいこ〜ん」と歌うboy1。「子供かよ〜子供だけど〜」というboy2。こんなセリフ聞けることあるのね。なんかちらちらと小さくカラフルなことがたくさん起こり、また思い出される日だった。行と列で検索できる日本語対応版の「イマジナリー・キューブ」を考案すれば、この日記を踊ることもできる。

2021.6.16

   雨?曇り?寒い。にもかかわらず半袖で過ごす。友人の死についてというよりもその後にある自分の状況について思い出したりした日だった。いない人とか会えない人とか死んだ人とかでなくただ友達として付き合い、その人と自分の現在の関係性について考える。考えることでしか現実がない。もうそれだけは、わたしの中にしかない現実のように思う。死んだ人との関係性は自分から自分へと入出力される。会えたり会えなかったり話せるという状況も話せないという状況もよくわからないが、会えない相手についてを誰かと会って話したいという気持ちが湧くことがある。でも姿や声みたいな記憶の中にある肉体の響きのことを思うと話すのはもちろん思い出すのも避けるような感じになる。ひとりぼっちで考えるのも難しい。悲しみたいわけでも折り合いをつけたいわけでもない。昔話にちゃんと登場させ、こんな人だったというふうではなく、こんなことがあったということを思い出したり話したりしたい。前のまま友達でい続ける、ということが難しい。死んだということが友達でいることを阻んでくるくらい、相手の状況が私の方にものすごく干渉してくる。その関係性がずっと続いていく。一方的であることと死の干渉を引き受けて新たな関係を築く。だらだら押し合いをすることができる。というかしている。ひとりぼっちでやる逡巡ではなくて、関係性の問題。

2021.06.15

  晴れ?ちょっと雨。涼し  今日は健康診断。一時間かかるかなと考えていたら10分足らずで終わったので驚いた。健康も健康で、目も良く見えているし耳もいいし背まで伸びていた。採血。名前を呼ばれる。「ウラさん」。席に座ると腕を出すように言われ、好きな方でいいと言われる。好きな方?指示の仕方に疑問が浮かぶ。注射した方の腕で重い物を持てなくなることは明白(採血の後大体2時間は力が入らなくなる)なので、数時間捨てるならせめて利き腕じゃない方をと思い好きな方として左腕を差し出す――大袈裟なようだが心持ちとしてはこのくらいの言葉を当てて間違いないように思う。針を刺されながら名前を呼ばれる。「大丈夫です」ぶっ倒れないように気を張らせるためなのか色々と話しかけてくる。話しかけてくるというよりも実況のようなことをしてくる。抗体検査も兼ねて親指くらいのボトル3本採血しますね、ちょっとちくっと痛みますよ、重いもの持たないように、気になるからといって傷口を揉んだりしないでくださいねなどなど。「はい」「はい」「はい」と息をつめていると知らないうちに済んでいて、机に血の入ったボトルが3本。こんなに採られたのかと驚き、その後空腹もあってかなりふらふらになった。  帰宅。創作でそうめんのつけ汁をトマトとミョウガでこしらえる。付け合わせとして砂肝ときゅうりで炒め物を作る。最近料理が上手くなったんじゃないか。  Kさんから身体を分割したり部分的に扱ったりするアーティストや本は何があるかと聞かれ、2時間くらいダラダラと自分の気にしている物事のことを話す。今言っていたのを資料まとめてプレゼンしたらそれだけでいいじゃんとアドバイスされる。確かに。もっと掘り下げたいので、そのリサーチは夏休みにやることにしよう。  今日は赤肉のカットメロンを食べた。メロンウィークだ。

2021.6.14

  湿った空気の感じ。梅雨に入ったのかもしれない。昨日夕方に暴食したマックはどこかに消えて、むしろかなりスッキリしているくらいの本日のわたくしの体。漂白をしすぎて洗濯に失敗したかもしれないと落ち込んでいたお気に入りのグレーのワンピースは乾いてみれば何事もなかったかのように綺麗になっていて、心底ホッとする。昔は古着の柄シャツなんかをよく着ていたけど最近はめっきりコンサバっぽい服が増えている。普段着ている服はほとんど妹からもらったもので、だからなんだかなんなんだか、積極的に服を着ていない感触がする。着れる服を着ている。気に入っている服を着る元気がない。貰い物を引き受けていたら持ち物が溢れてこの始末なので、いいかげん物を捨てる決心を持たないと(また持つのか)いけないリミットがきている。ストレージももちろんそうだが、扱いきれる情報の量のほうも限界がみえてきている。本棚も200%の収納量だしそんなひとも多いのだろうけどかなり圧迫されているので引っ越しが必要すぎる。ひっこーし!

2021.6.13

 今日はずっと家にいた。スーパーに行く以外一歩も家から出ない。久しぶりの引きこもり。今日はもう全部どうでもいいやという気分になりマックを買い込み暴食をして、気持ち悪い。不健康な日曜日を過ごした。昨日は鯛飯を拵え、餃子まで作ったというのに今日はパジャマからパジャマに着替える(一応着替えるだけ偉い素晴らしいすごい)。何かのバランスを取ろうと半額のカットメロンを食べる。  ツイッターでぼやいたことが結構拡散されていて、別にクソリプ的なものも来ていないがめんどくせ〜と感じる。Retweetされることによって、個人的な意見として言ったことが誰かの意見の代弁のように機能させられているのが不快だと思った。共感しんどい。  『 「シェア」の思想/または愛と制度と空間の関係 』で読んだ国分さんのインタビューの中には「カーシェア」を例に出しながらシェアは単に共有というだけでなく「占有」も含んでいるということが書いてあった(CSLABの運営にも大変参考になるなと心に大きめの字でメモった)。この考え方でいえば、純粋にシェアと思い込んで行う、(共感の入り混じった)リツイートという行為には、ツイートをツイ主から引き剥がし――それでも決して引き剥がれてしまうことはない――単に情報として――発言者を引き連れて――シェアするという一つのURLを持った情報としての「ツイート」への向かい方のギャップが潜んでいて、引き剥がれないがゆえに、誰も占有できない状態となって、シェアだと思って行なっていたことが実は不完全なシェアだけが行われているということなのかもしれない。(支離滅裂すぎてやばい..)  Twitterにおいて真にシェア的な振る舞いをしているのはいわゆる「パクツイ」で、犬の動画だとかパクツイは情報を引き剥がして行われる。落とし物を拾って自分のものにした後でそれを別の人に貸すように所在が浮いている状態? (引用といえば伊藤亜紗さんの『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』のことを思いだしたりもするが、日記にささっと書くには重たいのでやめておく。並べて刻んで考えたいことのメモに入れておこう)  リツイートの取り扱いはそれぞれ違うはずで、「Retweetは賛同を示しません」をわざわざbioに書いている人もいるが、私はフォロワーと未来の自分の目につくところに貼り付けるというイメージで、とにかくシェアとしてあのマーク

2021.6.12

  晴れ。風あり。昼にPO-12が届く。ゲームボーイをやる小学生みたいな体勢でシーケンサーなどをポチポチやる。YouTubeにある大体のチュートリアルは、POに対して操作する手がでっかいので押しているボタンが見えなく、あまり参考にならなくて笑える。  昨日の日記は実は書いている途中で寝落ちしてしまって(機能までの全ての日記は書いている途中で一度机に突っ伏すように寝て、20分くらいして目覚めてまた書き始め、途中で風呂に入り、読み返してみて大丈夫そうだったら投稿する、という妙なルーティーンができている)、色々な工程をすっ飛ばして今日の昼に起きた時に投稿した。書いているとどうしてこんなにも眠くなるのか。  午後。浅田さんと粘土とか草とか石とか線とか霧っぽい話をする。表面に引きつられてあらぬところが崩壊したりするといったことを延々と話す。縦書きや横書きの文字、文章の話。簡体字は草書をベースに簡略化しているらしい。意味をはぎ取ってミニマルにしているのかと勝手に思っていたので驚いた。簡略化と抽象化の差をあまりうまく説明できない。手書きでは確かに字が持っているディティールを我が物として引き摺り回してアレンジする。  夜、コーヒーがぶ飲みにも飽きたので、川へ遊びにいく。石を投げたり、空を見たりする水面の模様を楽しんだりする。気の合う友達との遊びが積み重なって、遊びの中に表現が出てくる。浅田さんとこっそりやっている「犬古表」という誌面表現のユニットは自分のための時間でしかない感じがとてもいい。社会性のない思考があるとすれば、犬古表がやっているようなことであろう。そんな犬古表は新聞の形をしたフリーペーパー「時代」に連載をしているのだけど。自分のためでしかないことはかけがえがない。それぞれ独立して動けるのはすごくやりやすい。打ち合わせ然とした打ち合わせは、もうできるだけしないようにしたい。

2021.6.11

 晴れ。日が長くなりすぎて7時を5時くらいと錯覚する。脳が春を引き伸ばしているみたいに夕方が長い。 Nさんが熱中症で倒れたらしい。Nさんが日記を書くとしたら熱射病になったことを書くのだろうと思うと、他の人が別の生を生きているのだということが急に鮮やかに感じられる。(他の人、他人、と書くことになんら抵抗を感じたことはなかったが、私の、というよりもこの生ということでしかなく、知ったことと知らないこと、ありえたことがこの生ではない場所に起きたというだけで、他のとか別のとかそう言った言い方では表現できていないような気がしてくる。他の人、というのは単に説明だ。私の、というのも現象を取り回しやすくしただけにすぎないのではないか)  同僚のIさんと観葉植物の画像を褒めながら帰宅。育てるのが上手いわけではないが観葉植物を集めるのが好きなので、―― インテリアのためではない。インテリアに気を遣っているのであれば、部屋を片付けたり掃除機をかけたり、色々としないといけないことが山ほどある――たまにサーチする。地面にある植物は体積よりも面積に注目ができて土と草を分けて見ることができる気がするが、鉢植えに植えて家の中にある植物は、鉢植えの中にその環境を完結していて植物がその生をアレンジをすることを抑制することになっている。とはいえ、外も屋内も同じように草は動かず、面積を伸ばすことで自己完結的に繁殖し、ごくローカルな環境を全身で受けて応答する。  現在参加してるRAUの「都市と芸術の応答体」で土木のことを色々と語っているのを見聞きしていると――そこでは土地という言葉が使われる――植物のことやら土のことやらが思い起こされてきて、「どうしたら植物や土のような観察の仕方で人間が土地を見る(あわよくば表現する)ことができるのか」という話がされているような感じもする。話が逸れる逸れる。  人間の尺度で植物のことを引き受けようとするときの違和感は、人間に起きる現象を病理として扱い病院に囲い込む違和感と似ている。観葉植物を枯らさないように場所を変えてやったり水やりのタイミングを計ったりすることはケアなんだけど、ケアする範囲に植物を引き込むということは私のdoingの範囲を拡張するということで(それがあればこそ日記が書ける)、植物やケアのことを考えるなら病院という施設と制度のことを知らないといけない気がする。

2021.6.10

  晴れ?天気のことを覚えていない。そんなこともあるのか。Sが元気にしていたということは天気が良かったということなんだろう。喫煙所でイキった人たちが蜘蛛を燃やそうとしていて変な怒り方をした(変すぎてここに書きたくない)。蜘蛛は燃やされずに済んだけど、変な怒りの表明によって燃やそうとした人を結構びっくりさせてしまった。(いや蜘蛛燃やしたいってどういう心境なのよ?それはカッコつけたいと燃やしたいが混じってしまったイキリ現象、おおなるほど・・・)  蜘蛛燃やされそうになり叱るみたいな浦島太郎的なことが起きて竜宮城にも地獄から救われるとかでもなく落ち込まされるなんてことあるんだ、大学。どういうことなのか全然わからない。靴にカエル入れられる小学生のいじめみたい。  ストーリーズ的なものを撮っていたが、本当どういう心の状態?今日は他にも、「#8891」のステッカーを間接的に渡したことでなんか微妙に関係者みたいになっているDV被害について継続している旨の詳細な噂話をきかされたり、誕生日パーティーしている子達にコロナ対策のためにマイルドに水をささないといけなかったり(コロナが悪いので不憫だとは思うが、やるなら自分たちでちゃんとできる形と折り合いをつけてやってほしい)、蜘蛛を燃やしちゃだめだっていうのも、どうして起こるんだ?(私の心のケアはどうしたらいいんや)まじで全部混乱する。みんな興奮状態だということだったのか?なんか不穏な出来事が多く恐怖の日だった。  夜。Twitterのストーリーズみたいなところでトークイベントに参加。「ちゃんと怒る」というタイトル。喋るの好きだ。Twitterでクソリプと格闘するフェミニストたちがどうか心穏やかな時間を多く持ってほしいということをTwitterでしゃべる。あの機能使い心地が程よいな。そして、ペリスコープ的なことをTwitter上で普通にできるみたい。ツイート画面のカメラマーク押すとライブというのがあり、それでできるそう。見たら他の人を入れることもできるみたいだった。すごいな。2020年の3-5月の外出ない期間中はinstaLiveに割と心救われていたから、そういうサービスがあるとなんとなく使ってみたくてそわそわする。  

2021.6.9

 めっちゃ暑い、晴れ。日差しがすごい。夏日。夕方は素晴らしい。   昼の記憶がほとんどない。みんなが何かしらやっていてわたしはそれを見ていた。ずっと頭がぼーっとしている。体も重い。 いろんな人が来ては相談に乗ったりなどをしていたら気づけば今日が終わっていた。イラレなどのソフトは一通り喋りながら(事前にこちらができるようにしておかないといけないのは大変なことだ)見せて、区切りのいいところまでやったらその工程を全部繰り返してもらう。工程の区切りは通訳を参考にしている。解釈の時間をとりいれることができる最小単位。  夜。対馬アートファンタジアのミーティング。対馬アートファンタジアは東アジアを中心とした国際展で、アーティストたちが共同生活をしながら展覧会を作るユニークな取り組み。去年がコロナで延期になり、今年は余程のことがない限り開催するそうだが、外国のアーティストは来れない(韓国のアーティスト、特に釜山に暮らす人なんかはわたしが対馬へ行くよりもずっと移動距離は短く、なので来れないのは国境の問題であるが、まあ別に来れるのかもしれないが、とにかく来ないらしい)代わりに、オンラインで共同制作をすることに。共同制作ペアのマッチングにてジェンダーについて一緒に話ができる人がいいという人がおり私もそうしたい、では、とカップル成立となった。面白くできるといい。もうすでにいくつかの共同プロジェクトをやっているところへ、また新たに抱えることに。スケジュール管理が不安だ・・・  イ・ランの新曲「ある名前を持った人の一日を想像してみる」というタイトルのシングルが8月に発売するらしい。B面(レコードなのかな?)は「イムジン河」のカバーだそうで、なんとなく「この世界の片隅に」を思い出すような構成だと思った。8月だし。最近の夏――夏は一つの単位として数えやすい――夏は対馬にいることが多い。20代後半の8月15日は大体韓国人のアーティストたちと過ごしている。  対馬の共同プロジェクト、音楽を一緒に作ったりしたいかも。最近シンセサイザーを練習しているから、相手にもしそういう趣味があったら(できたらすごく楽しそう)。音楽やzineや映像のように何かフッテージやテーマを引用しあって増殖するようなコラボレーションの仕方がやりやすいだろうか。気が合えばもっと大きいプロジェクトにしてもいいけど、初めましての挨拶な

2021.6.8

 ミーティングがとにかく嫌になっている。何やる?から始めずに、集まったらなんか始まるだろうし、野武士たちが何かをはじめた瞬間を見たいので、まずは普通に遊ぶ時間をつくるために火曜に電子工作、金曜に電子音楽をして遊ぶことにしている。  今日はTECH CLUBの日。また色々とおもちゃをばらす。学内の人であれば誰でも自由に参加できる状態で、わたしが一応のホストをやって地味に宣伝もする。昨日レモンをピッカりさせたのでほとんど二日連続。  イベント運営はできても、普通に遊ぶのはなんか難しい。自分の欲望の向くことを、同じように興味のある人を集めて探りながらやっていけば良いかなと思うし、幸い、みんな自分のペースを持っている人なので勝手にやっているようだから良いような気もするが、四年生なんかは割と無為に近い時間を過ごさせてしまっているな・・・!と焦る。(実は昼間のうちに夕方のTECH CLUBの活動時間にやる予定だったことを一通り一人でやりきってしまい、やべ〜どーしよと焦っていた)何か手っ取り早く成果が出るもので電子工作のテンションを上げたいということで、次回はファービーを魔改造。  昨晩teenage engineering のちっさいかわいいドラムマシンを買った。これでシンクコードを繋げれば一人でもバンドができる・・・。

2021.6.7

 晴れ。曇ってるかと思ったら日差しジリジリしていた。今日はなぜかここ数年で最も代謝の良い日だった。水をぐいぐい飲み、汗をかいた。代謝が悪く汗かけないので体に熱がこもって辛くなることが多いけど、今年は健康に生きとし生けるものの仲間入りかも。  昼ごろ他の学校で写真を学んでいるNさんが、Red Stockingのことを取材しにきた。学生たちと作っているフェミニズムの雑誌が友達ではない同世代(学生たちの同世代ですね)の女性に届き、一緒に仕事をすることになったのがうれしい。葛藤や矛盾を抱えながら(矛盾を抱えないで生きる方が欺瞞ではと思う)フェミニズムに入っていく人たち。私もそう。他の人の言葉の使い方や大事にする部分――「女性」らしさ、と書くか、「女性らしさ」と書くかとかでも結構話せたりするよね――を見て話して学びながら、わたし(たち)の間で話せる共通言語を見つける。とりあえず服でも買いに行きがてらスナップ取ろうかということになった。めちゃ楽しみ。しかしその前に原稿締め切りが今月末だ。次に出る号の編集はわたしがすることになっている。みんなが卒業制作で忙しいからね。  夕方。TECH CLUBの部品がいっぱい届いたので景気づけにレモンで電気をつける。金欠なのにレモンとグレープフルーツを買ってきてしまうS君。ピカリ。電気がついて喜ぶ。消えたりついたりすること、踊り。ずっと踊っているのは踊りではない。止まる時間をいかに持つかが踊り、そして音楽、そのような気がする。  夜。コレクティブのミーティング。子供たちの状況を聞く。作品のアイデアとか話すのも楽しいけど、状況を聞いて、じゃあこうすると良いかもねとかそういう具体的な話がポンポン出て、それを形にしていくようなやり方で展覧会とか本とかを作っていく方が楽しく思う。よくするための知恵を出し合い、それをどうしたら面白くなるか話す。よりよく遊ぶために頑張る。わたしにとって、フェミニズムも作品制作も全てがそう。イシューのパートと切り離さないままにしかし半分切り分けた状態の、遊び方の考案。それを実践すること。

2021.6.6

 曇り時々雨。TさんとEさんと一緒に「居場所はどこにある?」at藝大陳列館、「女が5人集まれば皿が割れる」at BUoY へ。  まず岡田裕子さんの作品には本当に驚かされた。岡田さん扮する、通常は見えないことにされている「狂った」おばさん像によって、アイデンティティや他者の介入について鋭い方向から言及している。  しかしそれは作品の話で、展覧会としては「居場所はどこにある?」展は破綻しているんじゃないかと思った。もっとも破綻している部分は、展覧会を作るにあたっての「空間」と「鑑賞者」のイメージの欠落、つまり、作品やアーティストのピックアップだけしか行なっていないのではないかという疑念が湧く構成になっているという点だ。空間と鑑賞者のイメージの欠落とは、すなわち、展覧会という形式における破綻といって差し支えないだろうと思うがどうか。 (ばらばらと思ったことを書いていくが誰にも頼まれてないしこんなこと書いても知らない誰かから嫌われたりするだけだろうけど、日本の美術業界は安楽死的状況すぎてガチでやばいと思うから元気のある時にはそういうこともしてみようと思うが、早々に飽きるかもしれないが、まあ今日はやってみることにする)  まず「新大久保UGO」の取り組みを紹介する部分において、会場都合によってカーテンで間仕切りをすることで、UGOが行なってきた「多様性を尊重する「たまり場」」とwebsiteで説明されるような取り組みとは鑑賞者の振る舞いやビジュアルからくる印象を逆へ向かわせる仕組みになってしまっている。カーテンを含み、どう見てもインスタレーション的手つきによって配置を行ったインテリアは鑑賞者の身体に緊張を強いる。足元などにおいたモニターにイベントの記録映像を流していたけれど、もし内容を見せようと思うのであればあの構成にはしない。2020年のヨコトリの飯山由貴さんのインスタレーションの方法(Tさんが前にお喋りの中で指摘していて、なるほどと思った)のように、パブリック向けではない内容をそれでも会場に滑り込ませる隠れ蓑だったのかもしれないが、残念ながらそんな感じはしなかった。色彩の印象だけが強烈に印象に残り、他の部分はすっかり消えてしまう。映像とインスタレーションって何なんだろう。見せる前提で展示された映像作品との扱い方の差によってあの配置にはあまり見せないようにしようという意図

2021.6.5

 9月に森美術館でワークショップをやることになっている(企画書をメールしないと)。ワークショップのアイディア:ステップ1_身体を下からたどって、股まで登ったらそのまま足を持ってふたつに割く。 ステップ2_割いた身体の左側に、自分の全部の要素を入れる。ぎゅうぎゅうになる(ビジュアルイメージで突破する)。右側は空っぽになっている。何がある? 半分違う人になる。それか、何かに挟み込んだり、多い被させたり。なんかちょっとアンビエントな雰囲気にしたいかも。自分を乗算するワークショップにしたい。やっぱり粘土使うのがいいかも。粘土とアンビエントは似合う。嫌いな人も多いようだけど、私は紙粘土のあの不気味さが結構好き。でもオンラインなんだよな〜。  去年の11月くらいにジェンダーゼミの人に勝手に声かけて画面オフにしみんなハンズフリーしてそれぞれの家で踊り、その実況をして想像しながら真似をして踊りまくる遊びをやったけどとても楽しかった。人に見られてない状態だからなのか、集中できる環境だった。山登りみたいだったかもしれない。他の人の状況は見えないけど、「暑い・・・!」とか「ちょっと休憩するッ」とかいちいちみんないうようになっていたので、半分身体がリンクしているように感じた(脳筋っぽくて気持ち悪い発言だろうか)。  私はそういう遊びの提案みたいな感じで作品を作っているような気がするので、今朝聞いたクレア・ビショップの講義は結構勉強になった。いつもビショップは、わざわざ言うまでもないことを「」にいれて語っているように思えて仕方ない部分もあり、リレーショナルアートをいかにアーカイブするかが美術館や美術史家にとって喫緊の問題であろうから仕方ないかもしれないけれど、知らない人といかに遊ぶかというアプローチを、単純に政治性ばかりに結びつけるのとか勘弁してよと思ったりする。政治的ではない作品なんてあるのか?(ないだろ)勝手にやっていたって、それは何らかのポリティクスが働いているし、応答であるし、それでいて働いていないなんていうのは、先日からツイッターでいっぱいいろんな人たちが意見を言っている「セレブバイト」理論とかわらない。経済的な理由や、ジェンダーや、人種や、年齢、家庭状況、サイトスペシフィックな問題、タイミングスペシフィック(この言葉は今日知ったが、別にビショップによる新たな発見というわけでもない

2021.6.4

 すごい雨。湿度1000%。みんな髪の毛がモワモワになって、私はベトベトになった。みんな色々なコンディションを諦めている雰囲気。低気圧なんだか高気圧なんだかその辺りがいまいちわかっていないまま気づけば29歳になっていたが、とにかく気圧の関係で頭がものすごく重い。メールを打つ。備品が届く。ミーティングをする。現状復帰しない教員にイラつく。紙を測る。電音活動。何か終わるとその都度喫煙所へ行くが、大雨に降られることによってそのたび集中が切断されて、別のことをバラバラとやるように大雨によって考えがジャンプしていたように思う。 電音活動にて初めてセッションをやった。私の担当は鍵盤のついたシンセでメロディ的なところ。全然上手く空気読めなかった。人が変調したらすぐに合わせに行ってしまって、向こうが合わせにきているのを見逃すこと多発。安定してる人と探してる人のバランスが重要なのだなと気付く。反省点は多いが、とっても楽しかった。早く来週になってほしい。

2021.6.3

 晴れ、少し肌寒い。ラボ日記にならないように努めるのが大変。ずっとラボにいるので仕方のないことだけど。 といいつつ、今日からラボでワールドおさがりセンター。古いおもしろい民具が大量に運び込まれ、それを好きなだけ持っていっていいという夢のような企画。一度も足を踏み入れてこなかった彫刻の教授みたいな人がラボに入ってきて、いそいそと「瓢箪」にのぼり巨大な桶を泥棒のように抱えて足早に出てゆく。大きな箪笥を下ろせない者、転売を企てる者、気に入った花器のようなものを嬉しそうに持ち帰る者。探し物をする目が野生的で面白い。大きいものを持ち出す人は大体泥棒みたいになっているし、小さいものを探す人は他人の箪笥を開けて物色しているようでやはり泥棒みたいだ。私も早々とガラスの香立て(!)を盗んだ。盗みではないのだけど配置を崩して会計や交渉の儀式を経ずにものを得るのはやはりどこか動きがぎこちなくなるし、だから貰うよりも拾うよりも盗むの方が私には心地よく感じる。泥棒たちがいいものが手に入ったと嬉しいままに、ものをポケットに入れたりそのまま担いでいく様はとても愉快だ。手を繋ぐように持ち手のついた花瓶を持つ人を初めて見た。 骨の名前を呼ばれながらからだに触られるアイデアを覚えておきたい。映画を見て表現方法を学ばないと。まともに演出や編集を入れた映像作品を未だ作ったことがないのは、どうやったらカメラに関係が映るかを知らないからだ。見る経験を他人任せにしてきたけれど、作るとみるが一体化しているのなんてまさに映像じゃないか。インタビューなんかの時の、話す順序を入れ替えてパロールをラング化する(言葉がおかしいかも)ように文章を組み立て直してしまうような作業の非人道的な雰囲気とか、時間にもれなく言葉や振る舞いが張り付いている様。編集の時にはそれが気になってしまって、写っている内容にもましてその気づきの方が面白くなってしまって何も進まなくなったりする。初めて会話をつなぎなおすような映像編集をしたのは卒業制作の時だったが、それを経て斎藤玲児さんの作品を見た時になんてことをやってるんだと驚いたのがずっと残っている。玲児さんの映像には発話による会話らしい会話は出てこなく、目だけがずっと映像の中で時間を乗り移りながら同時に私の目と身体はこの体とともに映像が進む分だけ時間を滑っていくのだが、映像編集というのはこんなこと

2021.6.2

 昼は暖かくて夜は肌寒い。大きくて重くて薄ぺらいものを朝から運ぶ。延滞した本を図書館へ返し、別の本を借りた。借りたかった本のうち3つは借りることができなかった。仕事で使うのに。困った。閉架や禁帯出の本を図書館の中で読む時間を作れる人と作れない人がいて、それでも図書館は開かれていると言えるのか。学内で使うと説明しても、先生は借りれるけど私は借りれないとつっぱねられる。おかしい、それならわたしを今すぐ先生にしてくれ。それは半分冗談として、明日か明後日意見書を出そう。(追加メモ:無料で使える大型のスキャナーを導入してほしい、階段が暗い、飾られている絵とキャプションが汚れすぎているので要掃除) 図書館の前はテラスになっていて景色が良く風も通るいい雰囲気の場所だが、くつろぐ人はほとんどいない。学生の動線上ではなくしかも急な階段があったりしてアクセスがとにかく悪い。しかしとても気持ちのいいところにある。こんな感じで、用途と配置がチグハグで埃が溜まる感じの場所が東京造形大学には多い気がする。 アクセスをよくするとか、ハブとして機能できるような広場を設けるとか、ドアを大きく取るとか壁をつくらないとか道を広くするとか灯りを入れるとか、行き来を作り出したい時にまずやるべきいくつかのお約束みたいなものがあり、大学のような施設ではそういうものが守られることで人の動きが活発になるが、磯崎新が建てた部分の東京造形大学はそうじゃないように入念に作りこまれているように感じる。図書館のテラスでくつろぐ人はほとんどいないが、とはいっても一人二人くらいはあの素晴らしい空間でのびのびとしている。多くの人が休憩する開けたスペースとしてでなく、一人でいたい人や友達作りに悩む人が一番いいところを見つけそこに居れるような可能性にひらかれていると言えるのかもしれない。閉じ込めないままに一人になれる場所を作り出すというのはかなり重要なことで、大勢をどうにか、という人間を数にしてカウントするような施設がおおい中で、もしそういったところから脱するコンセプトのもとに大学を設計して、それが使う人の振る舞いをも振り付けているのだとしたら大したものだ。カリキュラムには「領域横断」「ハイブリッド」などの言葉を使い学科や研究室を設けず専攻を配置するなど流動的で有機的な目論見を軸に置いている学校に、建築は――磯崎新の理念はどうか知らな

2021.6.1

 今日は気持ちのいい晴れた日だった。風も少し吹いていたし湿度もちょうど良かった。完璧な気候。今日のような日が多くあってほしいと思う。日記を書くにあたって思い出す作業をすると、喫煙所のシーンがまず何枚か現れる。思い出す作業は、音のついた写真(サムネイルのような)となっているどうってことないバラバラのシーンをざっと見ていくつか抜いたあとに輪ゴムでまとめるみたいな感じする。喫煙所にいるのは学生も教職員も大体同じようなメンツで、私と彼らの喫煙のタイミングが完璧に一致しているわけでなければ、どちらかがえらく頻繁に通っているか長居しているかだろう。それから今日は初心者だらけのTECH CLUBの初日だった。おもちゃをバラしてスピーカーを剥ぎ取り、HAPPY BIRTHDAY TO YOUが流れる教育用の基盤と組み合わせる。ちゃんと音が出たことだけでもうかなり嬉しい。結構いいスタートだったよねと確かめ合う。確かに。チップチューンをやってみるとか、ドローンとくっつけるとか、「音姫」をハッキングするとか、さまざまなアイディアが出る。そういうのも喫煙所で話す。

2021.5.31

 25時34分。こんな遅くに日記を書いて、読む人は何時に読むのだろう。日記は夜に引きずり出されるものだから、できれば読む人も夜に読んでほしい。  朝のことを思い出す。ほとんど覚えていないが結構な大声で作品やCSLABのことを寝ながらプレゼンしていたような気がする。寝言を録音してくれるアプリを利用したら面白いのかもしれない。  昼には職場に物々交換所の酒井さんが来て、何やら古いものを洗ったり干したり並べたりしていた。酒井さんが視界に入っている時はなぜか空気を揺らしちゃいけないんじゃないかという気分になったりする。本人はけして威圧的な人ではないが、周辺視野で意識し合う動物たちのような緊張感をなぜかいつも感じるのだ。  日記は一日に一つだけ書くというのがいい。覚えておこうとかあとで見れるように保存しようとか思いついた側から身近なところに並べていかないと気が済まないという忘れることへの恐れが大きくて、そのせいで「積ん」で溢れて崩壊しているのかもしれない。日記は思いつくのを節制された、思い出すためだけにある部屋で行う修行だ。