投稿

2021の投稿を表示しています

2021/11/23

 自分や作品のプレゼンテーションをする場所が無い!ツイッターを先週くらいにやめたらそういう場がなくなってしまった。講評やってほしい。大学生やりたい。作品について話す場があまりに無さすぎる。憚られるし。せっかく東京にいるのなら、同時に展覧会をしているひとが一堂に会して講評をしあう時間があるといいのに。やりたいけどラボで手一杯だから主催難しい。制作もあるし他のプロジェクトもある。キュレーターにアイデアを話して一緒にやれたらいい。誰に声をかけたらいいんだろう。ちゃんと一緒に仕事してくれるひとはいないものか。

2021/11/02

界隈にたいしてユニークな立ち位置をどのように発揮するかという遊び。多様性枠として放り込むってすごく暴力的なのに、放り込まれる側のハートの強さ(?)によって多様性の担保としてある特定のひとが担い手となりその当事者性と存在において示すよう要請されている。そういうことが多すぎる。多様ってどういう状態なんだろう?再開発された土地が全て立川と同じかその縮小版になっていくこと。 制作と発表は分けて考えるべきで、制作に関してサポートされることってほとんど無く、発表とか、なんかイベントやるとか、そういうハレ?祭?的なことへの関心は多くあるけど研究とか制作とかに関して全然何もないよな。アーティストは作品制作の労働者である側面だってあるはずなのに、作品売買とか成果を上げることが前提となった価値観の中でしか制作を許されていない(お気持ちでは無く制度的に)。普通に正社員非正規雇用問わず少なくとも何かしら働きながらじゃないと制作以前に生活ができないのに、でも働いてると制作が難しくなる。1日8時間労働、週5勤務という形態は、余計なことを考えさせない管理社会に最適化された労働中の8時間の外でクリエイティビティを発揮できないようにする時間設定だと強く感じる。でも、しかし、いざ税金でサポートされるとなんか管理されてる感じもするのでやだなとも思う。税金で作ることに何の負い目も感じないかといえばそうではない。 関わりたくないタイプのアート(チームラボとか、懐かしのNAKAMA de アートとか、単純に動員数のカウントを目が$や¥マークになってる人たちが運営する展覧会みたいな、や、知り合いも参加してるグループ展だからまじで申し訳ないが、あのあたりの地獄み本当に軽蔑している)の資本主義gogo的盛り上がりや、例えばここ3年くらいで始まったノンプロフィットやオルタナティブな場所のほとんどは(胡散臭くみえる)(貧乏人のやっかみだろうか?)金持ちのアート事業(税金対策なんじゃないのか?!)とか、ほんと何?ダサすぎるけど正気?プライドないの?て感じのこと多すぎて知ってるアーティストもなんかめっちゃダサいタイアップとかしてて勘弁して的機運が高まっている。なんかわかりやすい成果に結びつけるコマとしてアーティストを扱うのほんとにやめてほしいしアーティストたちも断れ!だらしねーな!!とつくづく思う。なんか弱みでも握られてる

2021/10/28

パフォーマンスイベントのミーティングをしていたらややあって急に川上君と須田君とテツシンの セッションが始まり、それを追いかけるように記録を撮影した。記録しないともったいないので大急ぎでカメラとかマイクとかセッティングする。わたしにもそういう人が周りにいてくれたらな。  インプロのときどのくらいゾーンみたいなものにいれるか(集中力どのくらい続くか)。川上君が僕はわりとぼんやりやってますと言っていて、そうは見えないからまじで?と思ったが、「ぼんやり」がちがうんだろう。わたしにとってインプロにおける「ぼんやり」は、考えながら――なんならやりたくないなとすらおもいながら――その場に佇み次の行為を検討しても脳が状況に噛み合わなくてあまり動いていないような状態で、逆に過集中(ゾーン)はどんどん次次にその次の行為がが身体の周りに竜巻のようにぐるぐると集まってくるみたいに身体に起きて、そして気づいたらやっている。その連続によって時間が経過するみたいな状態。「ぼんやりってどんな状況」と聞くと「か〜〜〜〜〜ンガエル(早口)」と説明してくれて、わかるようなわからないような。「か〜ん〜が〜え〜るオモイツク(早口)」ではなくて?と質問し損ねた。考えることの中に行為があるのか、考え→思いついて→それが行為化するのか。わたしのばあいは考えを喋りながら整理するしそれをパフォーマンスの中でもやるから「かdo it、んdo it、がdo it、えdo it、るdo it」(←ワルツみたいな三拍子で読むと丁度いい)みたいな感じかもな。カモナウィーク(打ち合わせしていたパフォーマンスイベント)ではそういうパフォーマンスのメソッドを検討するみたいなパフォーマンスをやろうかなあ。

2021/10/27

ラボメロのジェンダーゼミ。様々なミーティングで、参加者の意見を出すのに、少し前までまず参加者の話が出てくるように場を温めるようにしていたがうまく行った試しがないので(ただただ進行役としての技術不足なのかもしれないが、)自分のアイディアを攻撃表示で召喚(そしてターンエンド)し、その後で、それに対して他の人の意見を聞くというスタイルに転換するようにしてみた。議題のようなものはあらかじめあるけども、自分の言葉で話しはじめる欲望のスイッチはどうやら議題そのものにだけ含まれているわけではないしやはり参加者と議題の間にスイッチがあって、参加者(一年生とかはなぜか特に)はそれを自分で押しにはなかなか行かない。ので、まずは欲望のある者が押すことにした。力強く押し進めると自分が思っている方向以外のところへ展開する可能性が閉じてしまうような気がしてこれまでできなかった。が、もういいや、とにかくどんどん意見を転がす時間を過ごしたいと思って試しにえいと「私はこれがしたい」という言い方で議論をディレクションして、とにかくその場を構成するメンバー全員に全体重をかけるがごとくやりたいことをバババーと話してみて、それから、「どうしていったらいいかね」と相談する形で議論を始めるようにした。こっくりさんみたいにみんなが誰かが喋るのを待つ譲り合いに耐えられないのでこういうことになったけど、このやり方ができるのは参加者の性質に依るところが大きい(そういう話し合いにだけ参加したい)。しかしなんとなく、このミーティング以外でも消極的だったように見えた人が欲望全開の人(私)が話して「はい次バトンタッチ」と冗談半分で紙とペンを渡しながらやりたいことを言うように仕向けたらえーーーじゃあホニャホニャ・・・と喋り始めたりして、結構効果があるような気がする。これは最近身についた技術ということができるかもしれない。コツは、欲望全開にしつつも、他の人がいいそうなことは言わないでとっておく奥ゆかしさだ。自分の欲望で土手を作り、広く場所を開けておいてほかの話してほしい人がそこで雪玉を転がすようにして(私は実際に雪玉を転がした経験はないが)深めていくことができるように環境を作るみたいな。もんじゃ焼き作戦。 ラボメロの後はいつもつがちと反省会というか小さな打ち上げというかを河原か公園でやっているがそろそろ本格的に寒いので、ためしに魚

2021/10/26

落ち込んでしまって何もできなくなった。ウーバーイーツを頼む――キリがなくなってしまうので、何もしたくない時だけ使うようにしているのだが月に2回くらいはそうなっている気がする――と、配達員がいっぱい連絡をしてくる変わった人で、顔文字を多用してくるひとだったのでわたしもかつて身につけた顔文字リテラシーで性別を伏せる選択をしながら-_-bとか返信した。掲示板に常に張り付いているアキバ系弟の真似かもしれない。弟はもちろんわたしよりも若いが、古風なヲタクだとおもう。ぽまいらって感じのデクくんだ。 Q「ぽきた」とか「ポタク」とか お→ぽ にするのはなぜなんですか?また語源のような何かがあるんですか? A 「お」が「ぽ」に変わることは「お前ら→おまいら→ぽまいら」と変化した昔のネットスラングからの流れもあり、QWERTYキーボードの、「O」の隣の「P」を誤って触った誤変換から生じたものと思われます。 初出・由来についてはこれ以外にも諸説ありますが、どれも曖昧なため、上記の理由から、自然発生的に生まれたものかと思います。 他に「ぽ」と言えば 2ch (現在の4ch)では「だめぽ」など終助詞として扱われていた時期もあり、「ぽ」が含まれているだけでネットスラングらしくなるという一面もあるかと思われます。(りあなさんの回答) (yahoo!知恵袋でのやりとりより) 私が小学生の頃リヴリーアイランドというゲームが流行っていた。ブラウザ上で小さなモンスターをペットみたいに飼い、育てつつ別の飼い主達と交流をしたり自分の島をデコったりする、ゲーム要素の強いSNSだった。「こん(こんにちは)」にはじまり「落ち(ログアウトします)」でおわる、2000年代初頭のリアタイチャットの電脳感が恋しい。リアルタイムという感性があったのは、パソコンの前に座り――大体同じ姿勢で座っているイメージが大事だと思う――このサイトにアクセスしているひとが自分以外にも大勢いるというような見知らぬ他者の存在がネットと結びついていたからのような気がするし、ページは増えてもアカウントが増えるようなことはあまりなかった。というか、インターネットでの生が、こうも個人情報と結びついて存在証明を細かに管理されたものになるとは思っていなかった。あの時とったフリーメールアドレスがこんなことになってしまうなんて―― 話を戻す。リヴリーアイラン

2021/10/25

  みんながいい人だと感じるようなひと。身近なたちは尊敬していて、わたしも尊敬しているひと。 * ここまでの登場人物に数えるほとんどが男の人たち(少なくとも思い浮かべる顔は)。そんななかでのモヤつきはどこへも行けない。嫌だと思うこの心を見直すべきで、 思い過ごしだと言われてもおかしくない環境だし。その話聞きたくないと言われそう。聞かせたくないなとも思うし。だからあまり人に話せない。そして日記やSNSにそういうことを書くと面倒なひとからだけLINEが来る。そんなひとのことも、面倒なひとだからといって大嫌いだというわけではない。ただやめてほしいだけで嫌ってるわけじゃない。と本人には言うだろうけど、はっきり言って、ほんとうは全部嫌いだし嫌だ。 ZINEをやっても、female artists meetingをやっても、ゼミをやっても、結局周りの人は自身のことをフェミニストだと思って弱者や正義の側だと思って――それはそんな活動をしているわたしと親しい(と錯覚している)からだったりもするんじゃないか――いる。 そういう感じだから集まりを作るならちゃんとまわりの面倒なひとが入ってこないようにガードしないといけない(それが一番大変)。本当のことを書き出すノートも作っておいて、ローカルな告発をしていくのがいいかもしれないな。ああ嫌だ。こんなことがずっと続いてきていて(もちろん年長者からだけじゃなく年下からも)ほんとに男が嫌いになりそう。勘弁してほしい。

2021/10/24

すごく大事にしている要素が伝わらないとか、これまで学んで来たことが反映されていない作品を見てコメントするとき、そんなに重要だと考えて作品まで作っているのに目の前に現れていないで作品からのレスポンスがない状態でい続けるなんて寂しくないんかみたいな感情移入しすぎ系コメントといまこの作品はこう見えるということをどちらもいうようにしている。というのを休日なのに思い出した。なんでだ・・?まあいいや。 今日は休日なのに早起き(と言っても9時だけど)して、早起きついでに時計を見ながら行動するようにしてみた。即興状態で過ごす休日はたえず混乱して自分のムードにやられてしまうが、今日はリズムがあってやりやすかった。案外こういう風にしたほうがいいのかもしれない(本当に意外だけどそうなのかもしれない)。掃除とかをたくさんして制作環境を整えて服を買ったりスピーカーを買ったりした。スタジオを持とうかな、何処かへ行かないと頭が切り替わらなくて困る・・・といううだうだいうのがかなり現実的になってきた。個展が落ち着いたら物件を探そうかなあ。なんか自立とか自律とかそういう要素のある日だったかもしれない。 9時起きる、10時着替える、11時ご飯食べる、12時掃除する、15時出かける、16時縄文の村、18時帰宅する、19時夜ご飯、20時制作する、24時今。 縄文の村へ(入り口にeMacというめちゃ古いPCモニターが置いてあり、それに勾玉のこととかが上映されている。オールドデバイスたち。。。)。土器や土偶を見る間、ずっと糖分が足りていないのを感じていた。土偶の腕の短さや模様のつき具合を見て当時の粘土の水分量を想像して粘土の仕方をトレースするのを気づいたらやっていて日々の粘土効果?とにかく驚いた。(石に言葉を一字ずつ書いて積み、骨と一緒に埋葬すると徳を来世に持ち越すことができる(?)システム!参考にしよ)。竪穴式住居のレプリカの中で火が焚かれていて、死産した赤ん坊の遺骨とかは住居の入り口のところに埋めていたと解説に書いてあった。夕方の林の薄暗さに小さな火があり、そんな昔の死産した赤ちゃんの遺骨と魂の気配がレプリカの住居の入り口の踏み固められたささやかな土の凹凸に捏造される。駅の地図に鳩が止まっていて、その向こうに時計が見えた。視線の角度を鳩から時計へと少しだけずらし時間を確認する。鳩が急に首だけ振り返ってどこ

2021/10/23

学生の作った授業の中でプロフ帳に答える機会があり、「タイムマシンが使えたらどうする?」という項目に未来の展覧会を見てくると回答した。もし先生になったら「10年(もしくは30年)先の未来の美術作品」という課題をやろうと思った。攻殻機動隊のTVアニメを見返しているからかもしれない。物語の中で未来をシミュレーションするのを拾いながら拡張するのが楽しい。ボクシングのチャンピオンの話では、メダルにパラリンピックと書いてあり、2002年当時のことは調べていないが今年のパラリンピックで少しだけ見たパラ競技はスポーツ概念とルールの入れ替えが起こっていたように思う(eスポーツがオリンピック競技になるか?!というのは茶番ではないか?eスポーツはeスポーツでeんじゃないのか)。パフォーマンスをやる人を集めて身体ベースに未来をシミュレーションしたい。そういう遊びに付き合ってくれる人が何人もいるといい。しかしとにかく今は個展のこと…個展では「パフォーマンスの化石」というアイデアを金沢に持っていこうと思っているけどうまくいくのだろうか。これも未来のことを考える中で、今がどんどんと遠くなってゆくことへの焦りと憧れから出てきたアイデアだが、そんなことを考えていても締め切りには追われるし、時間とか約束というのが本当にぐちゃぐちゃになって迫ってきて困る。そういう絡まった紐みたいなエントロピーみたいなのはいいかげん、アプリでどうにか整理できるといいんだけど。

2021/10/20

 日記をしばらく書かないでいるあいだ、川上君が図書館から貰ってきたヴァージニア・ウルフ『ある作家の日記』を読んだ。読むたびに驚いたが内容を何も覚えていない。誰と会ってこう感じたとか本を読んでここがこうだとか書いてある日報に近いような日記だが緻密。 ラボメロ。ラボメロのメモを日記がわりに3回分書いていたのでのせてみよう。このブログの使い方はもはや日記じゃなく考え事の整理みたいなかんじだ… -- 9/22 うらより大学内の喫煙所で遭遇した配慮のなさから生じる差別的発言の数々への苛立ちが相談され、それに応答するような作品や展覧会のやり方(ポスターを貼るとか、喫煙所でレクチャーをするとか、パフォーマンスをするとか・・・)のアイデアが提案され交換された。休憩を挟んで、まろんさんとつがさんが『雑誌・現代思想2021年9月号特集:〈恋愛〉の現在』をめくりながら「ポリアモリー」の話をしているところから、集団的な恋愛の形がなぜないことになっているのかとか、恋という現象のどうしようもなさとか、関係性の変化とかについてそれぞれがわからないことへ言葉を投げ込んで緩やかに議論がされた。「わからなさ」に向かいながら経験を言葉にするやりとりが豊かだなと感じた。 -- 10/6 オンラインから参加するまろんさんより「ある状況の中にいるときに、実際に行動をするって難しいよ」という切り口から、例えば家族の結婚式に参加してジェンダーロールに違和感を覚えてもそれを表明するのも憚られたり、戦いたいわけじゃないという思いもあったりで難しさの具体例が提示される。池上ちゃん、がたちゃんの家族や親戚に関する経験が共有され、ディスカッションが深まる。「面倒くさい家族付き合いに反対」という共通の意見を持った上で、それぞれがどんな家族なのか話すことで違う話や経験を持っていることがはっきりと現れる。また似ている境遇もある。家族付き合いという現象(?)がどうして続いているのかとかの流れで「クレヨンしんちゃん」がずっと変わらない家族(およそ30年も!)の形を示し続けることとか話す。伝統を守る=根拠がないから続けて実践で示す「いいことは続く→続くということはいいこと」の膠着状態。めっちゃ大和魂やんけ、と思った。 -- 10/20 ある学生劇の批判から始まる。全くジェンダーロールへの違和感や視点が抜け落ちている他人の作品に対して、

2021/09/28

パーティーだけは 欲望がない限りできないことだ。ほかのことはできてもパーティーだけは。。。 大学の外には、生活と暇と制作の間にある時間がこんなに多方向的に豊かなことはない。というかそういう時間を作らないと存在しない。今までいた場所の中でラボが一番面白い(もっとみんな来た方がいい)。 課題だけやっても作品はできなくて、大学出たらどうなるとか、大体何もやってない人ばかりが気にするやつだなといつも思う。どうにでもなるし、どうもならないから大丈夫と 今何してるか聞くとそれが就活の準備とかいう答えだと悲しい。。。そろそろ日記を再開しよう。。 2021/9/28のメモより

2021/09/15

  オンラインで挨拶する。「くだけた雰囲気で」といわれると真っ先に誰よりもくだけた態度を取ろうとしてしまう。ラボや勉強会でいろんなハードルを下げるための手段として技術化してる節すらある「くだけたプレイ」を、もちろん良かれと思ってやっているつもりなのだが、なんとなくやりすぎてしまったかもしれないなと思って思い出すのも恥ずかしい。ああ恥ずかしい。つがちと夜までやってる唯一のカフェで打ち合わせをしたが、あのカフェほんと許せないくらい全てが不味いし有線の J-POP が最悪。眠れなくなったし吐き気もした。悪夢のようなカフェ。ラーメンも売ってる。

2021/09/14

 木工作業をたくさんやった。図って図面を書いて製材。あとは組むだけ。ラボの空間は大小いろんな家具作りをするポテンシャルに満ちていてアイデアだけはたくさん出るが、身体を動かし作る作業はいつだって一苦労だ。広いので一つ作っても仕方ないことも多いので、作業効率のことも考えないといけない。でっかい倉庫を山川陸さんがジャイアントファニチャーと(2021/8/2あたりに)呼び指していた(そういう言葉があるのか!)。巨大な空間とその中に建てられた家具。ラボで働いているうちに、巨大な家具を作るぞ。

2021/09/13

 風呂が嫌いなわけじゃなく、寝る準備が面倒なのだ。眠い時に眠るのを我慢して身支度を整えるこの時間の間、私は私のこの所在がうっとおしい。寝る準備が面倒すぎて寝ないで過ごす夜を持っている人がどれだけいるのか知らないが、同志よ、私は持っている。眠いのに寝る準備をしたくなくて、ずっと不機嫌なまま起きて、気がおさまるのをじっと座りながら待って、ようやく落ち着いたら顔を洗って目を覚ましてできればシャワーを浴びて眠る。眠る準備が嫌なのではなくて、気がおさまらないということなのかもしれない。風呂嫌いでもなく、寝る準備が嫌なのでもなく、やりたいことに身を燃やされている状態に陥る夜を私は過ごしていたのかもしれない。なるほど。

2021/09/12

2021/09/12 熱に浮かされながらアメリカンホラーストーリーを一気見。こんなに熱と隣に置くのに悪い影響ばかりあるような映像作品もなかなかないのではないか。考え事はできないし横になっていたいので、ドラマでも流し見して過ごしたかったのに、なぜかずっと見てしまった。セクシーな幽霊とかが出てくる。全然怖くないし細かなギャグを入れてくるので――しょっぱい料理みたいに――もうちょっともうちょっとをしてるうちに時間が過ぎていった。欲望がないのに刺激によってそう錯覚させられて、決定が延長していく、サブスク型の、欲望に似た何か怠惰なものに支配されているみたいなこのあり方。 夜には熱がおさまった。よかった。デトックスみたいな感じでいつも健康なよりもたまに熱を出すくらいがちょうどいいんじゃないかと思う。もうアメリカンホラーストーリーは見なくていいや。

2021/09/11

  熱がでた。ワクチンの副反応。 十君の3歳(早!)誕生日会だったのだがスキップして、バースデーソングのビデオを送ることにした。 birthday strings として ギターとウクレレと歌で 登場。十回連続で再生して喜んでくれたらしい。十くん大好き。お誕生日おめでとう・・! 熱でドタキャン。でも熱じゃなくたってドタキャンしてもいい。ただ気が乗らなくてやめるということと、色々考えた結果やめるというのと、その思考過程の工数の差でどちらがより真剣な決定かというのは考えようがない。嫌いだから行かないというわけでもないし。自分の時間を使い方を自分で決めるというだけのこと。気が乗らないというのだって真剣に取り扱われていいはずなのに、なぜかそうではない感じがする。 高校生のころ部活へ行かずに帰る幽霊部員活動をやっていた時期があって(今思えば行きたくないなら部活をやめたらよかったんだと思うが)、その部員であるヤモリが気乗りしないのは体調不良と同義だから休むことに罪悪感を持つ必要ないのだと小田急線でレクチャーしてくれた。予定には従わないといけないとか行くと言って行かないのは嘘をついたことになるとか思うほうだったけどかなり学び、素直に行動するようになった。ついでに素直という言葉にも抑圧を感じていたがその解釈も改めるようになった。そういえば、子どもの頃ピアノ教室で習ったブルグミュラーの「素直な心」という曲の指導で素直さについてピアノの先生から言及があって、そこが何かを疑ったり考え込んだりするのが始まったような気がする。弾くにあたって、わたしは解釈を入れたい方だったから素直ってなんだろと色々思案した。何を考えたかは忘れてしまった。たしか正月のあたりのことで、そうそう、習字の書初めでも「素直な心」と書いた。好きな四字熟語と言われて、文章じゃんとだれかに突っ込まれて、いや曲名だよと言う。「な」は有りか無しかと議論になったが、いいでしょうということになった。

2021/09/10

イメージ
  コロナのワクチンを打った。手が重いとか筋肉痛のような痛みとかっていう例えにピンとこない。「ジワー」というとき、濡らした紙にインクを落としたジワーとした滲みのことを思い浮かべる。インクのイメージと現在この身体に起きているジワーとの差異を確かめる作業はレンダリングと呼び出したくなる。この腕の痛みは「ジワー」ていう感じだな、と思った。 病院に行く前に100均に寄ったらハロウィンの飾りが売っていてなんかやけに怖いマスクが売っててなんかおかしかったから写真を撮った。 しかしなんか日記に飽きてきた。書きたくないわけじゃなく、書けないってことでもない(まあ常にネタ切れではあるが)んだけど、なんかマンネリだろうか。楽しさが。寝不足のせいだろうか。また毎晩書いてはアップロードするやりかたに戻そうか。あと四日ほどの負債を返したら (日付にできごとを文章にしてお返しするって変だな)。

2021/09/09

  年商をプロフィールに書く系のひとたちがしきりに「コーチング」とか言ってるらしいというのを見た。対馬で自分の大学での仕事について teaching でなく coaching のほうがちかいかもとダジャレのつもりで言っていたので語句の一致に鳥肌が立つ。おもえばたしかに、自分のやっていることを「意識高い系」と揶揄することもできるかもしれない。なんかそういうやっかみはありうる。でもいいのだ。わたしは親ではないし。子でもないし。家族的役割の薄い人間。地元とか田舎とか、べつに田舎ではなかったけど、あの鬱屈としたところで、自分の考えとかやってみたいこととかをやるというのはすごく難しいことだったな。できるだけ何もやらない。枠の中で一番になろうってかんじで、そんな環境にいたから「意識高い系」とかみたいなルサンチマンと共鳴して自分もその呪いの中にいるままになっちゃうのかもしれない。そういうのから転生したい。これからもなにか告知をするたび、このドロっとした後ろめたさみたいなものがずっとくっついてくるのだろうか。もしかして何もやってないのに何かしたふうなことを言ってるのではないかとずっと不安だ。

2021/09/08

イメージ
  RAU にひさしぶりに合流できた。知らない間に議論の雰囲気がかわって、自分たちで話して考える感じになってた。ユニさんとたくさん話せた。話してみたかったので嬉しい。全然 わからないままいろいろと、ほとんど口から出まかせなんじゃないかということを言ってしまった。報告などの時に、あまり覚えてないとか、慌てていたので他の人お願いしますとか、周りの人は議論のまとめ報告をする人の指名をし合っていて、え、議論てそういうもんなのか!と思った。今まで参加したことのある議論は、なんなら喧嘩みたいなやつかもしくはかなりゆったりしたやつで、いずれも明確ではないぽんやりした言語と意見とを交わす場だった。それが悪いわけでは全くない。アイデアを持ち寄って、アウトプットを目指す作業。RAUではそういう感じで議論は進まないので違うトレーニングみたい。とにかく違う感じ。長い時間かけて、考えを場所ごと動かしていく(歯列矯正みたいに)。 -- twitterからメモ転載:私はどこにいるか→→→足を運んで撮影した映像に撮影者の身体がはりついている 土地に身体が張り付いてる さらに→めり込んで/一緒に動く、引きずる!←これやってみようと思う、試 今日のRAUいいエクササイズだった。Twitterで見た亀も手引きに(画像)

2021/09/07

初めて会う人が入れ替わり立ち替わりラボに打ち合わせに来る日だった。配信の練習をしたから、オンライン開催簡単にできますよと少し話を盛ってみる。簡単にできるならあれもこれもとアイデアが出てきて、散漫にうーんなるほど、とタコ足配線を処理するみたいに要らないところを外す(組み合わせればいいってもんでもない)。大学の広報のお手伝いみたいな業務はできるだけやりたくない。事務方の人は事務職で生計を立てているわりに裏方業を舐めすぎだ。プロがいる仕事はプロに任せたらええやんか(しかもピースやんか)。卒業生の始めた映像制作会社とかあるだろうしそこと業務提携して仕事回してあげればいいのに。 マイカさんの粘土の作品を見せてもらった。展示をしてみて、写真を撮って、zineを作りたいという相談をしている(お楽しみに・・)。他の人の作品を見るとやってみたいことが浮かんでくる。そういう時は出来るだけ流さず誰かに話してみる。とにかくいろんな人に思いついたことを話しておいて、それでいいじゃんやろうよ!という協力者が現れたやつから取り掛かる。大体そんな感じで自分の仕事作ってる感じがする。ぽろっと思いつきを話されても冗談だと思わないで間に受けてアイデアをのっとり合うくらいに引き合ったままやりたい。そういう人とでないと何もできない。このやり方で高めていくのはなかなか難しい。何度か空中分解しているし。人と仕事するやり方がだんだんわかってきたから、今度のいくつかはうまくいくといい。

2021/09/06

イメージ
お下がりセンターの酒井さんが古民具の搬入に来た。今日は佐塚さんと一緒だったからなのかわりと普通にゆったりとしたような雰囲気がしているように感じた。皇族のことを話すような言い方になってしまう。酒井さんは雅だ、という形容詞の似合うひとだ。靴を履いてるところを見たことがなくいつも便所サンダルだけれど。 搬入された品の中にノートがあった。農家の人が昭和初期に書いた手記だった。気味が悪く怖いので触らないようにしていたけど綱川さんがこれもらったほうがいいですよと教えてくれたので手に取ってみて、ノートをめくったら急にカバーから本文部分が落っこちてもうだめだ呪われた終わったと心の中の小学四年生と大学一年生が言うのを感じた(わたしが思ったわけではなく)。種まきのチェック表とか、と筆記体が練習されていたりとか、日誌とか、あらゆることがひとつのノートに書いてある。勝手に読んでいいのか?とおもいつつ複写を載せる。

2021/09/05

  浅田さんと打ち合わせ。 子供の頃にトイレに貼っていた世界地図と国旗のポスターのことを話す。他にも色々と(備忘録:動画の目=手の動きを粘土でトレース a.k.a 犬古粘土)話したけれどまずは地図。チリは長い。 15cm くらい。 … 長くない!手で届かないくらいには長いという縮尺と身体の大きさのギャップ。「チリは手のひらの端から端で届かない程度に大きく」、「日本は親指に収まるほどに小さい」。「私の額はロシアが覆えるくらいに広い」。世界地図を(あの平べったく処理したメルカトルだかなんだかの図法による)自分の体と照らし合わせて大きさを把握する日々。そして歩く。私が思う「それぞれの頭のおかしさ」を浅田さんは執着とか切実さと呼んでいて、ああそうやって言うと上品だなとか思った。例えば絵を描く人がもうなんでそんなことをよりにもよって絵で?というようなことをそれでも絵でやるということ。なんでよりにもよって、というところの説明をウダウダとする前に絵を描くことや、なんでよりにもよってこんな日記なんて書いてというようなことを、聞きたい人もいるだろうし話せなくもないけど話さなくたっていいし話せなかったとしてもどっちでもいいんじゃないかなとか、なんでそんな妙なところに住んでとか、なんでそんな変なことに首を突っ込んでとか、聞きたい人もいるかもしれないし話せなくもないけど話さなくてもいいし話せなかったとしてもどっちでもいいなと、最近は思う。企画書を書いて、説明したりピックアップされたり、グローバルなアーツなアクティビティに全てが結びつくような表現が善いとかされているふうに見えるけどその傾向と対策みたいなキャラ付けを背負って立つような「わたしらしさ」の強さを表明しなくたって、その求められる価値観の上で表現を行わなくたっていいのに、なぜだかみんなアクセスのいいインフォメーションばかりに気を取られる(それが必要な時もある)のはとても貧しいことなんじゃないのかと思うし、能書きと裏書きに全部あるみたいなものや、そして既存の美意識に基づいた見た目の美しさへの疑いがある。まあとにかくへんな活動がしたいものだな。

2021/09/04

  歯医者へ行った。ついに! 治療が怖くて怖くて仕方なく、レントゲンを撮影しに部屋を移動して自力で席へ戻るときに別の部屋へ迷い込む。いくつかのことを並行して(痛いとか怖いとかそれらを緩和するために指の付け根をつねったりとか歩いたり座ったり記憶したり思い出したり)行うとき、差し迫るタスクのスタッキングをなぜか知らぬ間にトランプを切るように差し替えて順番がわからなくなった状態にありながら遂行しようとしてカードをこぼしてしまうみたいに崩壊する感じがする。歯医者にウラさん、と呼び戻されて、立ち戻って、席に座り、自動で寝っ転がらされ口を開け、痛みに備えて指をつねって現在に相対することができる。怖さを受容するだけの体だった。

2021/09/03

  夏休みの飛び地。「ボイス + パレルモ」展(口ではボイパと呼んでいた)を見に行った。のっけから口悪い感じになるけど埼玉近美の薄汚れた設えがボイスにぴったりだと思った。ショーケースの展示台を回り込めるでもなく壁に近づけ狭く狭くといった感じにちょっと見たことない並べ方をしていた。学芸員がどういう意図でそうしたのかはわからないけど、配置からは単調な展示室に有り物の中で差をつけようとしているような感じがして、いやそんなことあるか?とも思ってを反芻するような行き来があり、その読み取れなさはチャレンジングと言ってもいいんじゃないかと思ったが、やっぱしよくわからない。「パフォーマンスをやったことあるひとはわかるであろう恥ずかしさ」と小山さんが言っていたボイスのパフォーマンスの記録映像は、《ものの一つ一つになにかをめっちゃ代弁させようとして真剣な顔でうやうやしくものを扱いしゃがんだりする所作も硬く意味深な感じでやる》というタイトルにしてもいいような(よくないやろ)、あの初めてパフォーマンスやるとき/ものに込める意味ばかりばっちり考えてきてパフォーマンスの内容を全然決めてこなかったとき/顔芸で場を持たせようとするパフォーマンスの特有のあの感じ、がして、もうとにかく恥ずかしくなってしまって、これが共感性羞恥か!。パフォーマンスを何度かやったことがあるひと(見たことがあるだけだとわからないんじゃないか)(演劇やダンスのひとにも多分わからないんじゃないか)と「あれ恥ずかしいよねー!」ということを話すだけのイマジナリーな飲み会の 5 分間が立ち上がる。そういうやりとりを全然していないなあ。

2021/09/02

  雨 バスの運転手が肩を上げ下げしながら運転をしている。森美術館のワークショップのことでミーティングをしたり、告知作業をしたりして、すごく久しぶりに Facebook を開いた。 70 くらい「いいね」がついて、最近はたまに投稿をするだけで全然見なくなってしまった Facebook に少なくとも 70 人の知人が絶えず出入りしていることに驚いた。 70 という数字は多いいんだか少ないんだかわからないけれど。というか Facebook における「いいね」ってなんなんだろう。相槌? たとえば instagram はビジネスと友好の2チャンネルだとして、Twitterは備忘録とシェアの含蓄(ささやかな加勢)だとして、Facebookはなんだかそれらよりは個人的でミニマムな社交に基づいたものに思える。SNSの勉強をして、オリジナルSNSを作るという講座をしてみたいかも。

2021/09/01

  歯磨きに慣れない。子供の頃から毎日口の中をブラシで自分で擦っているのに、なんでこんなに口の中のことを知らないのか。歯医者のほうが知っている部分がある。歯医者の言葉を頼り口の中のできごとを把握する。痛さから何が起きているかを感じとる(何かやばいことが起きている)。電車の中で何が起きているかを周りの反応から想像するのと同じようなものだ。自分がこんなにずっと付き合ってきたこの身体のことを知らなさすぎる。「自分の口」というのも違うような気すらする。治療中の歯の詰め物が取れたりすこし欠けたり、抜歯した部分の傷が塞がりつつあって痒かったりして、もしかしたら字義通りに「毎日違う」身体に付き合っているんじゃないか。早く歯医者に行きたい。 生理も来た。「来る」という言い方が共通認識としてあるこの現象。婦人科の問診では「生理がある」と書かれるけれど、会話や口語においては大体「生理が来る」とか「生理になった」とか言う。「(わたしが)生理になった」「(わたしのところへ)生理が来た」これらの生理と一人称の呼び付け方から、この現象の他者具合を生理のない人はなにか想像することができるかもしれない。生理が来て、生理になる。私でない身体を定期的に引き受けている。

2021/08/31

イメージ
  小山さんに二枚貝の化石を握らせてもらった。ボツボツが手のひらに跡を残して( 1 億 5000 万年前の貝の形が!!!この身体!!!跡が!!!!)、身体があっつくなって、興奮して叫びそうになった。なにか別の生き物やできごとの痕跡が私の身体に跡を残す。そういう体験をたくさんしたい。それを記録したい。嬉しすぎて怖い。化石はやばい。

2021/08/30

  昨日まで金沢、その前は対馬にいたというのに、いま大学でなんなく働いてるのは本当に変な感じがする。夢の中の出来事みたいだ。 7 月の賢い自分が疲れを取るために 8/30 まで休みを取っていたのに、 8 月末の私は愚かしいことに、休日出勤をしてしまった。 めちゃくちゃ疲れて、でも幸福な気持ちでぼんやりした日を過ごした。家に帰ってきたということがこんなに楽しいとは。お土産に海で拾ったイノシシの奥歯をKにあげた。子供が一生懸命描いた歯の絵みたいな形だと言っていた。

2021/08/29

  長距離移動に加えて人に会うのが続くとヘトヘトになるので金沢へ行く前に新大阪に一泊( 8/28 )。駅直結だったので、落ち着いていて若い感じの洒落たコンセプトホテルに泊まることにした。寝れればいいのに少し高い気もするが、もう選ぶ気力もないのでゴロゴロとスーツケースを押す。小さな薄明かりの部屋にガラス張りのバスルームがついている。夜景も見えるが、夜の風景というだけで別に綺麗とかではない。綺麗である必要もないけれど、なんとなく、この雰囲気の高層ビルのホテルならば夜の景色ではなく夜景が見えてもいいじゃないかという気持ちになった。夜の景色。普通で安心した。チェーンロックみたいな鍵を扉につける。 (8/29) 朝。起きたはいいが完全に寝坊していた。長距離移動なので諦めもつく、しかたない。寝坊は仕方ない。ここのところ徹夜気味だったし。連絡を入れて歯を磨き、スーツケースを押してエレベーターにのる。特急電車で 3 時間。電車の中で対馬の作品のテキストを書く。どこへも行けないで椅子に張り付けになり、移動しながら過ごす 3 時間。すごく仕事がしやすい。 金沢。「ストレンジャーによろしく」という展覧会を宮崎さんにアテンドしてもらい、みんなの作品を一通り観た。アンザイさん、ホッタさん、タカハシセンさんの作品が気になった。漢字間違えるのもいい加減にしたいのでカタカナで書くこととする。アンザイさん、川上君、ホッタさん、綱川さんの四名での展覧会を企画したいと直感的に思った。企画書を書いて口説きに回ろう。しかしそのまえに、 11 月末にめっちゃ広いところで個展がある。その前まではなんか色々思いついても手を出さないように気をつけないとだ。

2021/08/28

今日オープニングの日のはずだったけどコロナで延期になった。作品もまだ遠隔で少し修正できる。バッファが不規則に出現することだけはボーナスみたいに感じるけど、スッと始まらない怠さとかはずっと修正したくなっちゃうからよくない。締め切り means 締め切りだ。「本当の締め切り」というのなんかはあてにしない方がいい。展覧会設営とかに区切りをつけて飛行機に乗った。服やポーチに入れてたライターが仇となって荷物検査でスーツケースをひっくり返す羽目になった。こういうあたふたとしたうまくいかなさにひっぱりまわされてばかりだ。自分の深層心理には、そういうのを望んでいる節さえある気がする。なんなんだもう。とにかく飛行機にのって、その中でこれを書いている。 四年前、バーベキューを韓国のアーティストたちとしているときに岡田君からメッセージがきた。コジコジ読んだこと、ジェットコースターみたいだったこと、ぼのぼのとも似ているけどそれならぼのぼののほうが好きだということ、蕎麦を一緒に食べに行こうねという約束をした。その次の年、そのまた次の年、次の年、今年と対馬の滞在と夏を数える。岡田くんと蕎麦食いたかったんだけどね。対馬と岡田くんとがわたしの目の中で交差していて、そういえばいつも対馬ではふとしたときにそっかあという感じで気づくと霧が立ちこんでそして通り過ぎていった。福岡に着いた。めっちゃ都会でなんかびっくりした。

2021/08/27

朝 買い出しのため厳原へ行き、その途中でボートの作品を見た。ボートの作品がよくなっていたのでがんばろ〜と思った。スプレーを吹いた。ビギナーズラックがあるかもしれないしいろいろやっちゃおう。ムードの破壊。をしながら、タイトルを考える。作品にタイトルつけるのは楽しいんだけど、作品を名指すためのタイトルにしては大体の場合長すぎるものになるのでわたしのはタイトルと呼ぶのは合わないような気もするな。じゃああのテキストは一体なんなんだろう。

2021/08/26

作品終わるだろうか。といいつつまた鍵本さんと探検に行く。石黒さんが鋳造をやるのでそれにかこつけてバーベキューをした。ブロワーのあるバーベキューをはじめてやった。ブロワーのスイッチを軽押しして火の調節をしている。なんか可笑しい。外にいるとよりよくわかるけれど、虫は光に狂っているんだな。光の方に生を掴んで、吉方!恵方!って感じに窓を体をぶつけているんだとしたら冷静じゃなくてほんとうにかわいそう。この先に進めるはずだと思っているんだろう。虫たちが夜眠るように進化する未来だといい。虫は怖いし。バーベキューのあとアルミ鋳造のショー(ではないけど、火花がヒラヒラ上がって美しかった)。アルミ缶を燃やす。頭がバカになるガスがでて、バカガス!バカガス!バカガスフィルター(マスク)つけな、といって黒田さんと三原さんと吉松さんとふざけていた。享楽と制作に戻るバラバラさが心地よい。 後藤さんと匡さんがきて、家に高貴さが香る。それは生ハムの差し入れが来たからと言う理由だけではない気がする。カップルの充実した旅行に居合わせて、これ食べる?とか二人の間で取り交わされる会話の聞こえる席に座る妙な居心地。親密さが食卓に広げられるようや豊かな感じがした。

2021/08/25

 粘土やりまくった。対馬で売っている紙粘土はもうありえないほどべちょべちょで、ちょっと無理だなって感じだったけれどやってみる。紙粘土。ここで手に入るものとこの素人的手つきと思考のこねくり回しとでギリギリ成り立つ作品空間になりそう(成り立たない場合においても、それでも展覧会は始まる。恐ろしい。)

2021/8/20_twitterより(集まるとか集めるとか)

 2021/8/20にツイートした、 荒木夏実さんが執筆した記事 についての意見をここにまとめておく。誤字脱字等について修正した部分もあるし、所々大幅な加筆をしています。 元ツイートのスレッドはこちら --  荒木夏実さんの記事読んだ。荒木さんが指摘していた、天皇制を掲げた男性ばかりのグループ展に紅一点的に配置した在日アイデンティティをもつ女性という構成は、椹木さんのジェンダーへの関心の無さなんかではなくむしろ計算し尽くされた(かなり嫌な感じの)キュレーションなのでは。と思った。  (2021年2月号の美術手帖の特集にあった当該展覧会の参加作家座談会の記事では、ほかの登壇者と比べ李晶玉さんばかりが(自身の危険を伴いながら)フェアでない役割を担わされているように私には思えた。 ほかの人が経歴を背負ってきていることに対して、わたしには李さんが「多様性枠」的なものをひとりで担わされているように思えて仕方なかった。アイデンティティばかりが目立つ構成になるのは、もちろん本人ではなく、構成する側の配慮の問題だ)   「集まると目立つ」とか、コレクティブを紹介する展覧会に女性が取り上げられないことを指摘するなかで、「グループとして活動する女性は少ない」と書くということに対して、キュレーターのリサーチが明らかに足りていないことに由来する問題を、アーティストになすりつけている?!と思った。 選ぶ選ばれる的な権力構造の強化ばかりがキュレーターの仕事でないにしても、 それでもキュレーターが選ぶ側をやるという役割を担っているのならば、アーティストが作品を作るように、美術史家が過去の時代を研究するように、 キュレーターは同時代における人事的リサーチをまじめにやるべきなんじゃないのかとつくづく思う。ていうか、美術とかムーブメントとかにたいして、キュレーターとははたしてそんな外野的な立場なんだろうか。(違うよね?!)   女性は集まっているし、リーダーシップを取ることや集まることと女性は親和性無くない。集まることにジェンダーは関係ない(全く関係ない)。 女性たちの集まりについては2021年美術手帖8月号の内海さんの論考を読むとよくわかると思う。 それぞれの活動をひとつひとつみれば「グループとして活動する女性は少ない」ということにはならないはずだ。わたしたちは集まっているから。  荒木さんのテクス

2021/08/24

   対馬に初めてきてから5年が経った。5年も経つと、最初の年に会った時小学生だった子が高校生になっていたりする。集落の外へ出る欲望と機会とに折り合いがつかないとか、なんかとにかく辛そうという噂が聞こえてくる。久しぶりに会うのでどう話し始めたらいいかなと伺っている感じがして、大人になったんだなと思ったとNさんが言っていた。 よそからひとが来て、映画とか音楽とか普通の絵画展みたいなものとかを選択して受け取ってゆく文化機会をすっ飛ばして現代美術(的なもの)に触れるってどんな感じなんだろうか。夏になると家の隣に美術家という人たちがやってくるのだ。うーん奇妙。  私の経験をもとにするならば、現代美術は意識してから触れることになるような、「知らないと見れないもの」として位置付けられる。もちろん知らないうちに受け取っている可能性もあるけれど、ばらばらのことがたくさん起きるような人生において発生した感性をすべて現代美術や作品の成果に結びつけるというのはおかしい(だから、 目[mé] のするような表現や主張は私にとって到底受け入れられるものでは無い)。パッケージングの範囲を見誤り、成果として手の及ぶ範囲を超えて責任の持てない「あるかもしれない(無いこともありうる)」に言及するのは、「無いことも含めて観察せよ」というときの「あるのに見えない自身のバイアスを取り払うためのイントロダクション」とは異なる。「あるかもね、でも無いかもね、あったらいいね(あったらいいね、にディレクションが切られていることが問題だ)、素敵だね、素敵な出来事はこの作品のおかげで起きたのよ」というようなことは、なんかすごい仕掛けのある作品というわけでもなく、範疇をただ単に見誤っているとしか思えない。  わたしの現代美術の原初体験は予備校に置いてあったシンディ・シャーマンの作品集であった。ふざけたひとだなあと思った。シンディ・シャーマンの作品を知れたことから私の人生はかなり変化してきたように思うけれど、素朴さや無知とアートの重なり合いが鍵となって人生の水路が開くような体験は、作品がきっかけになったとしても作品とわたしとの間に起きた私の変化であって、シンディ・シャーマンの作品の中に含まれているわけでは無い。私の人生をシンディの作品に明け渡す気は一ミリもない。私の人生におけるある部分を明け渡すということと、例えば作品を所

2021/08/23

 今日は買い出しの日。島中の紙粘土を買い占める。それぞれの店に夏休みの宿題にまだ手もつけていない子供(対馬の子供はめっちゃ少ない)のために2つほど残して、あとは全部買ってきた。28に出発しないといけないけれど、作品の完成度は50%くらいで、またやってみたいことも思いつき、ある集まりの逃れ方と集まりの作り方とかをここに住んでいる、もう来なくなってしまった5年前は小学生で今高校生の女の子が見るかもしれないというような、でもみたら何かになるかも、手助けになるかも、そんな内容の作品を後2日くらいでもし作ることができたらとてもいいなと思う。できるかな・・

2021/08/22

 少しだけ晴れて外を歩けそうな感じになったので作業場へ。会場へ行くと事前に考えていたことが考えからアプローチへと具体的に立ち上がってきて、素直にやる部分が見つかるおかげで飛躍のキャパを押し広げることができる。大学の同級生の長崎リサちゃんのバンド「このよのはる」のステイトメントに「空間が大好き!」と書いてあったのを昔読んで、その大好きの対象範囲のでかさに何をいっているか当時さっぱりわからなかったけれど、展覧会をやろうという時にそれぞれの固有の空間が与えるアイデアの急激な変化みたいなものの中毒性はまじでやばいと思う。場所に思考が巻き込まれて、場所が作品の形を決定するみたいなこのプロセスが私も大好き。部屋を決めて、やってみようと思案していたことを会場に照らしてみて組み替え作り直す。私の制作は大体そんなふうにしてやっているな。どこか後から追いかけるような感じ。

2021/08/21

かき混ざった家、台風。全然寝付けなくて結局朝6時くらいに就寝し、13時に目が覚めた。みんな仕事しに展示場所へ行っている。今日も泳ぎに行こうと思っていたけれど到底無理で、さあ今日はどうしようかなという感じ。頭痛い。作業したり寝たりしながら「山二つ」のオンラインライブを見る。プロジェクトで使っている住居スペースには廃墟を自力で改修した家と、空いている家を家具とか食器とか仏壇まで全部そのまま貸してもらっている家とがあって、私は後者に暮らしている。畳が所々沈む。水たまりを避けるようにして柔らかくなっているところを避けて歩く。家の中をカニが歩いている。急に動いてきて踏まないか不安。かにも怖がっているような感じで廊下の端っこを歩くので私はその逆側の端っこを歩く。なんやねん・・対馬の滞在の日々はいつもえ?あれ?おや?まあいいか、と様々な環境を了解しながら過ごしていく。

2021/08/20

イメージ
 昼に起きてちょっとご飯を食べて海へ。長袖長ズボンのスウェットスーツ的な水着を持ってきたのでそれでうろうろできる。対馬は石でできた島で、土壌がえぐれていて山の端っこと海岸がくついている。断崖みたいになっているところは薄く割れるような石が山から飛び出しており、海につづく部分は雲に撫でられたような岩がたくさんある。足音がごろごろとする。足音が石になっている。歩くのに飽きたので泳ぐことにする。荷物を置いてサンダルを脱ぎ、海に入ってゆく。ラボから借りてきたGoproを恐る恐る水中に沈める。泳ぎながら撮影する。ヘッドマウントを部屋に置いてきてしまい、しまったなーと思いつつ、泳ぎながら手持ちで撮影する。脚だけですすむ。足のつかないところまで行くと少し水が冷たく、海底を蹴りに行くために頭を低くする。地面よりずいぶん低いところに頭がある。小さい魚がいる。ゆっくり浮上して、カメラをラッコのようにお腹に乗せて背泳をする。ああ泳いでいる時のことを書いていたら泳ぎたくなってきた。泳ぐのに疲れたら浜に上がり荷物を持って歩く。鳶がものすごく近くに転がる切り株の根降り立つ。入江の石の浜の、勾配が緩やかなところには苔が生えていてそこにだけフナムシがいっぱいいる。またちょっと泳いで、二時間くらい海辺でいろいろしたら散歩しながら体を乾かした。急に声をかけられて「どなたですか、知らん人がいるなと思って気になって」と聞かれる。どういう意味だろう(まあコロナとかもあって知らない人が村にうろうろびしょ濡れの体で歩いていたら、まあ変な感じもするか)と思いつつ、うらです、アートの・・というとああアートの!と認知してもらえた。広島のアートの学生さんね、と言われる。いや29歳なんです、うらです、神奈川に住んでいます、というと、ああうらさんちゅうのね、みんなでバーベキューしにおいでよアートのみんな連れて、と言われたもののコロナ対策でまあまあガチガチにやっていることもあって、そうですね様子みて(いけんけど、気持ちは受け取る、サンキュー)みんなと話してみますと伝え、そうねえ色々(コロナとか、コロナとか、コロナとか)あるけど楽しんでってねと副音声的なレイヤーのあるやりとりを交わして犬を撫でさせてもらい、少し遠回りして歩いて帰った。

2021/08/19

イメージ
対馬。コロナで一年延期したので2年ぶりにきた。対馬アートファンタジアは今年で10回目で、私はなぜか4回目の参加。働かない(金も出さない)スポンサーみたいなふりをしているなぞのひととかをはじめとした厄介さによっていろいろ対応して変化しながら、黒田大スケさん(スケの字がいつも間違えられるからいっそカタカナにしようとしているらしく、黒田さんのそういうところがとてもいいなあと思う)を中心としたアーティストたちが運営を行なっている。 もろもろの契約から資金集め、アーティストの選定、インストール、広報、翻訳にいたるまですべてをDIYでやるありえないすごい企画で、離島でやり、アーティストとして自分の活動の中で知り合った国内外(おもに日本韓国中国の交流を国境の島でやるというやつなんだけど、それぞれのパートナーがドイツの人だったりバングラデシュの人だったりカナダだったりして家族でやってきたりするから結局いろんな国の人がいることになる)のアーティストを対馬に集めて、自力で改修した元廃墟の物件にて共同生活をおくりつつ滞在制作をして、展覧会をつくっていくというほんとうにまじですごい企画。 これから九日間は対馬にいる日記になる。 対馬へ行くとき今までずっとフェリーに乗っていたけれど、飛行機もすごくいい景色だった。景色がいいといろいろなことが大丈夫な気持ちになる。

2021/08/18

 パッキングをした。買ったスーツケースが大きすぎて詰めるものがなく荷物がぐちゃぐちゃになるのを避けるためにスーツケースに空き箱を詰めたりした。明日わたしはアマゾンの空き箱の入ったスーツケースを引いて移動するのか。ラボの冷蔵庫には何も入っていないのにずっと空間だけが冷やされている。そういえばラボには 2 週間くらい誰も立ち入ってないけど、大丈夫だろうか。虫とか。草とか。  マイカさんに相談したいことがあったので自宅に招き、一緒にやりたいことを話した。ピザを食べながら自分の馴染みの場所が廃墟になった話も聞いた。誰もいなくなると日光が強くなるのか酸素が濃くなるのか、何であんなに太陽で日焼けしぼさぼさした感じに建物が変わっていくんだろう。かき混ぜられていない場所の停滞した空気のあのありありとした感じはなんなんだろう。  Twitter のスペースで短歌とかやってるひとたちが喋っていて、「はやく片付けろ」とかじゃない言葉を使っていいということを知って嬉しかったことがありそこに現代詩の良さがあると気付いたと話していた。絵を見るように言葉を聞いてほしいと言っていた。絵を描くように言葉を書きたいということなんだろうか。そんな話を聞くたび、このひとは絵を描いたことあるのか?と思う。

2021/08/17

   歯医者の予約を飛ばしてしまった。またしばらく通えなくなりそうなスケジュールの中でのこの失敗はわりと痛手で、数日中にやばいことが起こる可能性があり未来が恐ろしい。やばめの痛みの到来が確定しているルートに入ってしまった。今日のことを書きながら未来のことが書ける。痛みと約束が結ばれた交差点には欠けた歯がある。その交差点にまっすぐ向かう道をひた進んでいる。。  時間ができて、やっと雑誌の入稿をすませることができた。ゲラで作った時はリズムなく詰め込みすぎなレイアウトだったことに全然気づけなかったけど、長い時間向き合う(なんとじぶんでもうけた締め切りから一か月もためらっていた)うちに雑誌に必要な要素がわかってきて、必要なページを自炊したりした。入稿したら、あとは発送を待つだけだ ( 雑誌のできあがる未来のあるルートに突入 ) 。約束は他所があって発生するのだとすればわたしの失敗は他所にあり、できごとにたいして点を打ちリズムをとるみたいな。できごとで分岐していったり、展開のあるカノン、というアイデアが浮かんだ。

2021/08/16

  コロナのことがすごく不安になってしまってねむれなくなり、 5 時くらいまでひとしきり色々な手続きとかを調べて疲れて眠った。起きると日が落ち始めていて、最近毎日こんな感じだな。毎日がっかりする。そろそろ改めないと、といういつものおまじない…。 飛行機の予約、飛行機の予約、PCR検査の予約、抗原検査の予約、新幹線の予約、残高の確認、スケジュールの確認、約束の返信。未来の行動にガイドをひくような事務作業。今をなんとなく蔑ろにしている気がする。短い昼寝をする。 カブールのニュースをみてびっくりして、イスラム圏のドラマとかアニメをみたあと「フルメタルジャケット」をみた。何も言ってないを結晶化させるハートマン軍曹役のひとは役者ではなく演技指導できた軍人らしい。本物のひとだ …ツイッターで 飛行機と並んで大勢の人が走っていく映像もみた。

2021/08/15

ホットコーヒーを淹れて事務作業をする。クラシックピアノ曲のジャズアレンジみたいな曲が流れているのでおやとおもってキッチンを見ると、キャンピングチェアが広げられキャンプみたいな感じになっていた。 怠いのは生まれた時からずっとなんだけど、もういよいよこれはコのつく病気に罹るかなという予感がする。確率からいってもかかるだろうという気しかしない。毎日だるいし寒い。面倒でしまわないでいた冬用の羽毛布団が活躍しているのが嬉しい。

2021/08/14

 井の頭線で同じ車両の遠くの方で女性が小さく叫んだのを聞いた。何かあったのかわからなかったし、周りの人もそわそわしてはいたけど特に何もなさそうだった。電車の中は人が重なっていて何も見えないので、他の人の動きから、何が起きているかを予想するしかない(間接触と仮に言ってみるが、誰かがもう用語を当てているんだろう) 。本当に何もなかったんだろうか。数日前の事件が思い起こされるようでちょっと怖いなとおもった。電車に乗っている時は自分の誰でもなさが強化される。風景になる。そういえば子どもの頃、雑踏という言葉を見て、これは都会の言葉だなと思った。

2021/08/13

不調だったPCを2週間休ませたらバキバキに回復していた。もうこれ以上私も休めなくなってしまって、カレンダーを手書きした。休めないぐらいまで休んだ。もうほんとにギリギリ。書いて現前させてこれだけのタスクがあるのかというのを量として把握すると消化のゲームみたいになる。ノートを書くとそれだけでやった気になれて、やりたくないことを遂行するイメトレになっていい気がする。こんなことを書くと意識めちゃ高い感じがするけど、そんなことなくて、もうほんとうに怠惰で、だるくてだるくて、ほんとどーしたらいいんだろ。どうしようもない怠惰さに巻き込まれて、がっかりしている。怠惰さはつよ〜い他者だ。

2021/08/12

 「物語」なるもの全然興味ないな。小説は好き。つまり単にストーリーでなくて、「物語」とかいっちゃうときのなんかやったるぞという仕草というかが恥ずかしい。なにかあるとすぐ「物語」だとか言い出すひととはたいてい話ができない。 とにかく歯が痛い。顔の右半分が痺れたように小さな振動を伝え合い、パチンコのドアが一瞬空いた時に聴こえてくる滝壺みたいにザーザーいう銀色の玉がおちる音の氾濫がまさにわたしの顔面の下で鳴っている。そのイメージが顔の皮膚の下で繰り広げられている。何をするにも痛い。歯を噛み締めると振動が無くなる。若干マシになるけれどそれはそれで別の、じんわりとしたような感じで、痛さが漏れてくる。治療中のところだけじゃなくて、その周りまで痛い。痛すぎて知覚が受けきれない痛みを他の知覚のツボ?とシェアしてんじゃないのか。

2021/08/11

 たくさん寝た。小学生のころに同級生からされた嫌なことの夢をみてびっくりした。すっかり忘れていたのにどうして急に思い出されたんだろう。あの頃は毎日長くて、なぜかうしろめたいような気持ちだったことを覚えている。まあそれでも、そこそこ楽しい日々だった気がする。とにかく一日が長かった。 ヨーグルトを食べながら、勉強になるかと思って他の人がやったWSの記録映像をみる。子供向けのものだ。全8回のうち1回分だけしか見れなかったが、ジェンダーについての説明が挟まり、いやその言い方あかんやろと思って企画者に意見をメーした。すぐに返信が来て、事前に言っていたことと違うことをされたということだった。複数人が関わる時に起きうるエラー(?)。 散歩して、フォーを食べて、夜は「広島・在日・ジェンダー」のオンライン講座の録画を観て、その感想をシェアするzoom。よき友達がいてまじで捗る。20代後半はこれに尽きるかも。よき友達がいてまじで捗る。

2021/08/10

日のあるうちは散歩行って空眺めたりとかなりのんびりしている。やる気が出てくるのがいつも夜中だ。重たい作業じゃないのになぜか時間がかかってしまって久しぶりに徹夜した。16:00まで寝て、ご飯食べて散歩してご飯食べて散歩して3amくらいに寝る。寝てばかりだ。犬のような生活?夜は猫が多い。虫も多い。猫になり〜たい〜という歌ををコンビニで耳にして、さらりとした心地でわー気持ち悪いなあと思った。

2021/08/09

 昼夜逆転が始まる。自炊も高まってくる。夏休みの生活に慣れてきた。昼に起き、ご飯を食べてPCを開いてネトフリに直行する。毎日のルーティンとなっている。大体まず「僕のヒーローアカデミア」をみている。みんなが何を言っているのかちゃんと聞き取れて声優すごいなと思う。というか、画面を見なくてもセリフで全部説明されている気がする。流し見しても全然何が起こってるのかわかる。発声の技術によるストレスのなさ。発声の仕方で低中高の音域の操作をして声をマイクに平坦に入力しているのかもしれないなとか思う。「この国には象徴が必要だ」というすごいセリフが聞こえてうおぉっとなる(前にも書いたっけ)。8月だね。 こないだ川崎駅でサッカー選手のインタビューの録音が放送されていたが、何言ってるんだか全然聞き取れなかった。オリンピックがはじまり、そしておわたねえ。

2021/08/08

 友達との久しぶりの遊びの約束をスキップした。昨日に引き続き。本当は都現美に行く予定だったけどやめた。打ち合わせとかがない状態で友達と普通に遊ぶのかなり気がひける。はやく予防接種を受けないと。 小山さんにボイス+パレルモのカタログを買ってきてもらった(わたしもそのうち行かないと)。気立のいいコヨーテを連れてきたキュレーターがいたんだろうねといっていて、とてもいい響きでおどろいた。「気立のいいコヨーテを連れてきたキュレーター」。そのキュレーターの肖像を描いてみようと思った。たまに、絵を描きたいと思う。 夜に散歩に行った。お化け見たことあるかとか、UFOみたことあるかとか話しながら歩く。川辺に立っていたはずの絵とか工作とかおもちゃとかポスターとかでいっぱいに埋め尽くしてデコっていた奇妙な感じの民家が取り壊されていた。ずいぶん前から人は住まなくなっていたようだったけど、建物まで無くなってしまうとは。取り壊されたところには深緑の薄い葉っぱをこんもりつけた低木にラッパみたいな白い花が咲いている。セブンイレブンの看板の光を受け取ってぼやっと白く光っていた。デコりの怨念だ、と思った。これも絵に描こうかと思ったが、怨念みたいなものが強すぎて絵を描いてしまったらやばいかもしれない。もう一度見に行ってから決めよう。 調べたらあの花はダチュラというらしく、夜に花が開くらしかった。吸引すると種子に毒があって幻覚作用とかもあり、かなり危ないとのことだった。たしかにそんな姿ではあった。

2021/08/07

 友達の誕生日会をスキップした。近いところでコロナになった人がいて、もうできる限り遊ぶのは控えようと思って。PCRを毎日できたらいいのかも、と思ったけど、夏菜子(ももクロ)が毎日PCRして陰性でもかかったから意味ないのかもしれない。とても不安ですね。対馬に行けるのだろうか。行く気持ちがかなり減ってきてしまった。 対馬って名前の人が小田急の電車の中で通り魔をやった。幸せな女性を殺したいって言ってたらしくて、そんなひとにまで女とか男とか冷静に見た目で判断されて、本当に嫌だな。通り魔をやるようなひとが、わたしの日記を読んでいたら、なにを思うんだろう。何も思わないんだろうか。何かを書いているというわけではないけれど。。

2021/08/06

 打ち合わせ。前に言ってたアイデアからガラッと変えましたと話すと良いじゃん!!!!みたいな感じだった。首の皮一枚繋がる心地。中高生向けに、パーティーの作戦会議をするという内容。前に言ってたものと全然違うけど、こっちの方がいい気がする。ジェンダーにまつわるものに絞ってやってみてもいいのかもしれない。 花の香りがするサラダを食べて、そんな考え方をしたことがなかったから驚いた。中国語(上海)を教えてもらった時には口の中の空間の広さを感じたものだが、花の香りのサラダも同じように感じた。食欲もあまりないことだし、飾りみたいなご飯を食べたい。

2021/08/05

 読書会をして、歯医者へ行った。虫歯が新しく見つかって、自分の歯が少しずつ違うモノに置き換わっていく。削られて半分違うものになったり。一回性の強いものを大事にするみたいなのって焦る。差し歯とかインプラントとかを調べてみて、芸能人の歯事情みたいなまとめサイトをみつける。言及されてるのは全部女性だった。歯列矯正をデコるやり方があるらしい。ジョジョに出てきそう。

2021/08/04

山川さんが帰って森さんがきた。広い空間を広く使うアイデア。なぜか新鮮に感じた。いい悪いの判断は先送りにして、他人から出るアイデアにはできるだけ全部乗っかるようにしているが、デカイことはいいことですからね〜とテキトーすぎるコメントをつけて小さいものをでっかくする準備をしてしまったりして、なんかイキった感じになっちゃって後から恥ずかしくなる。別にデカイことが直接そのままいいってわけじゃない。でかくすると楽しい感時がして、その楽しさに巻き込んでもらってアイデアが湧いてくることもある。そう言う意味で、デカイことはいいことだ。 長谷川さん最終日。この3日間はなんかずっとうっすらエヴァのことを言ったりしていて、中学生の頃みたいな微妙なノリの軽さになっていた気がする。

2021/08/03

 長谷川さんと山川さんがラボに滞在している。その二日目だった。サイゼにも二日連続で行って、夜お腹が痛くなる。外食すると疲れが溜まった状態で固定される感じがする。個展のアイデアを話して、いいんじゃない?!みたいに言ってもらう。いやもっといろいろ話せたけど、相談というより依頼がしたいと思った。公開でアイデアを交換するのはいいと思った。4時間オーディエンスを囲い込む。 有名なひとと話したいみたいな、変な感じのひとがいる。仕事というよりも肩書きで人を見たりする、そういう人はだいたい、有名なひととの間にいる窓口となるスタッフとかにはわりと無礼で、大体つまらないアーティストもどきみたいなものである場合が多いんじゃないか。逼迫しているっていうかんじもあるけど。 嫌な感じのひとを通せんぼするのも嫌だけど、気の合わない人と喋らないで済むには、開くことを諦めないといけないのかな。やだなー。嫌なことを嫌だということをせずに、素朴な優しさやら粘り強さやら使命感やらのごちゃまぜによって、アーティストとかキュレーターとかはサービスでやってしまいがちだということをみんな知らない人だって友人として理解し承知しておいてほしいなと思った。 死の予感イベントのアイデア。ファイナルデスティネーションを傍で流しながら、危険機材や設営時の防災を学ぶWS。

2021/08/02

ドラムコードを巻きっぱなしのまま使うのは火災の元だと聞いて、恥ずかしながら知らなく、そんなことも知らない人が施設の管理なんてやっちゃいけないと思った。火災関係の講習に参加しよう。それで、以降のラボのスタッフは全員必ず受けるようにしてもらおう。リューターに髪の毛巻き込まれているのを自撮りしてインスタグラムにアップされているのを見て本当に血の気が引いてしまって、めちゃくちゃ怯えた。ファイナルディスティネーションのような死の予感がずっとし続けて、落ち着かなくなってしまって散歩に行った。途中でサッと雨が降った。 薄い雲が全部雨になって地面に落ちる。空がすっきりして火星が見える。小さな田んぼがある真っ直ぐな道。静かに歩く。

2021/08/01

展覧会へ出かけるのを我慢し、諸々の作業をする、と見せかけて、昼過ぎまでタスクの重さに落ち込んで放置していたリンゴを剥いて煮たり草をみたり最終的にただ座ったりしていた、と見せかけて、実はお腹が減って動けなくなっていただけで、フォーを食べに出掛けて帰ってきたら4時間くらいで二つ終わった。歯医者の予約をして、できないことをできないと前もって伝えた。まだいくつかやらないといけないことがあるけれど、まあ今日はひとまず労る権利があるところまではきた気がする。動けない理由を発見して解消すると全部動き始めるようだった。歯医者の予約をしたら急に歯の痛みが消えたのですごく怖い。

2021/07/31

 前日に陽に当たりすぎてめっちゃ寝ていた。久しぶりに顔を見るようなひとが夢に出てきたりした。起きてしばらくぼーっとして、その古い友人に連絡をした。すごく気の合うひとだけれど、long time no seeもno seeすぎてお変わりありませんかという以外にする話が見当たらない。まあ生きてるらしかった。相変わらず。そんな友人(あるいは知人)は友達関係から退場することはないとなんでか確信を持っていたが、そうでもないらしかった。そうはっきりと言われたわけではないけれど、まあさまざまな事由で、というか女性とか男性とかどうしてもついて回り、わたしが男ならそんな話にはならなかったんだろうと思うと(いや、もしかして、そういうことでもないのかもしれないが)スカスカとした寂しさがある。なんか知ってる。これはcoccoの感じだ。coccoは悪霊みたいに歌う。昔住んでいた家から別の人が出てくるのをみるみたいな。そんな感じがした。 夜は日記の先輩(110日)の福尾さんと日記の話をした。110日のビハインド(?)は埋まることはない。福尾さんのbeggingは2ヶ月目あたりまでのことを言っていて、ちょうど今のわたしくらいの日記継続時のことだ。わたしのは7日目くらいのことをbegging的に呼び出した。点のようななにかの成果ではなく、生活者としての前後がありありと提示される日記を介して少しずつ構築する見知らぬひととの見知らぬ関係性を信用というふうにも呼べそうだと感じて、日記続けようと日記の先輩との話を終えて3日分の日記を清算したのだった。

2021/07/30

 家族旅行二日目。千葉はすごいぼこぼこしている。山があって海がある。滝も見た。妹が靴擦れであまり歩けないのになかなかワイルドな道を母がゆこうとするのでかなり強めに引き止める。家族といると10代みたいな感じになってしまうので、それが恥ずかしくて、だから長い時間いるのを避けるようなところがある気がする。お父さんが色々調べてくれた中に磯があった。行くことにした。小さい魚がいるねとか、カニがいるとか話しながらズンズン歩く。私とお父さん以外は展望台の方へ行ったみたいだった。こういうのがいいと思った。どこでもいいから家族で旅行をするっていうのはやっぱり意味がわからなくて、家族のことを知りたいならその話が聞けそうな場所へ言って、場所とセットで話をするのがいい。私のノリが悪くて、旅行にでも連れ出さないとということになったのかもしれないけれど。次どこ行きたい?と聞かれて、その時は答えられなかったけど、次旅行の話になったらそれぞれが案内できるような場所に少しずつ行ってみることを提案してみようと思う。父の実家が漁師をやっていて、あまりお父さんの話をされた記憶がないけど、今日は磯が父の知っていることとかを引き出していた。それぞれの持つポテンシャルが印刷されるようだった。 帰り道に住んでるところのすぐそばの道を通ってもらって、この河原をよく散歩しているんだと教えたりする。川が氾濫しても川向こう(東京側)へは流れないようにこっち(神奈川側)へ流れるように高低差がついているんだよと話す。税金の話とかをする。母も昔川崎に住んでいたことがあって、この道がここにつながっているとか色々言っていて、旅行で知らないところでなんか美味しいものを食べたりするよりもやっぱりそういう方がずっといいと思ったりした。

2021/07/29

家族旅行へ。千葉。前日にめちゃくちゃ歯が痛くなってしまったので、前もってあまり積極的に参加できないかもしれないと予告した。正直家族旅行は好きじゃない。遠くでわざわざ家族をやるのって変な感じがする(両親がこの日記を読んだら悲しむかもしれない)。一緒にいることの落ち着かなさの回避もあって、後から合流することにした。みんなでやったら楽しいかもと思ってちょっと高いフェイスパックを買っていく。アクアラインを通りたいので川崎から高速バスに乗る。バスの内側には水族館みたいな、カラオケ館の壁みたいな模様が描かれている。ここで降りたいと思うような場所がたまにあって、車の単位で散歩は難しいし、バイクの免許でも取ろうかと考えたりした。本当になんの免許も持っていない。乗馬の免許とかあるならそれがいいな。 千葉につき、詰め込まれるように車に乗り込む。ぎりぎり5人乗れるけれど、この車で快適に過ごすには4人が限界だろうとか思った。移動の間にルールを決めて音楽を流し合うことにした。間に何かがあると落ち着く。ガイドを設けると居心地を確保できる気がする。壁際に座りたいみたいな野生の本能が介在している。宿では弟が持ってきたswitchで桃鉄をやった。複数人で長時間居合わせることのやりづらさを、それでも一緒にいるという選択をとるとき、それぞれの持つ緩衝材やら回避やらのパターンを出し合うことで場がなんとか成り立つのかもしれない。企画者である父の場合は場所を変えて連れ出すことで、私は音楽とフェイスパックで、弟は桃鉄だったんだろう。妹と母はそれに乗ったり反ったりした。小さなパーティーの形。そういうふうにして、つぎはぎのイベントみたいになるから最近どうだとかそういう話をする隙間がなくなるので、だから家族旅行は好きじゃない。家で写真を見せたりして時間をとり近況報告をするのでいいじゃないと思うのに、あまりわかってもらえない。「最近どう?」という問いかけによって、何者かでなければならないようなプレッシャーを感じられてしまうのかもしれないけれど、そうではないという話し方を、作品を作る時のように家族にインストールする、とか思うとやっぱり嫌だなあなんだか。仕事みたいで。家族ってなんだよって話だ。大人になったり、政治的立場が同じでないということをどうやって受け入れ合えばいいわけ。「クレヨンしんちゃん」的な家族観の刷り込み。

2021/07/28

 ラボの模様替えをした。スタッフ3人の固定の机がやたらデカくていやなので全部捨てて、広い机をシェアすることにした。捨てるというかどかしただけなのだけど、それでも捨てるという感じがする。自分の場所を固定で持つというのがラボの仕事には合わないのかもしれない。他の人が何かしているところに居合わせて自分も何かやる。そういうとき集中できないという問題はあるけど、何かしているときは大体の場合みんな「今大丈夫ですか?」とノックしている(だから大丈夫です)。ドアがないところでノックするという仕草。むしろ、個人のところ以外で何かやっていると、何かやっているにもかかわらず「今大丈夫です」を示すことになってしまっていたので、この模様替えによってエクスキューズの仕方が変わるかもしれない。楽しみ。占有と共有の程度調整つまみとしての家具の配置。

2021/07/27

 きた、何もない日。やらないといけないことをやらないで後回しにしたということだけがある日。何を思って何をしたっけ。例によって二日経っているからあやふやではあるけれど。 アイスを食べていたら大澤君がふいに、サルトルの「嘔吐」の最初の方に、サルトルが通る公園に靴が両方違うおじいさん(元小学校の教頭先生だったらしい)が毎日座っていて、サルトルの友人に向けて手を差し伸べてにっこりし、サルトルは恐ろしくなり、しかしその理由は狂った老人の風体であるからではなく、エビやカニのようなことを考えているようだったから恐ろしくなったと書いてあったんですけど、急すぎて意味わからなくないですか?と言ってきた。わたしはにっこりと右手を何か別の生き物に向けてちょっと伸ばしながら微笑みかけるこの動作をしてみて、いや、結構わかるな、いやわかるというより、引きつけるならば、このにっこりの感じはザリガニの挨拶みたいかもたしかにと言った。大澤君はうわあそっちか〜と言っていた。からだの印象が言葉にジャンプを与えて、そのジャンプを体が引き受ける。 トライアスロンの選手たちが汚染された(写真は黄色く編集されてるが)海で泳いでいる写真とゲボゲボになって倒れている写真を見て、普通に吐き気がする。同情ではなく、毒みたいなものが体に捏造されるようなここち。

2021/07/26

擬似ラジオ「社会と抽象」で労働やハラスメントについて話す。ゲストは田中さん、吉澤さん。このログはYouTubeにあるから日記には書かないでおこう。 http://cs-lab.zokei.ac.jp/news/%e3%82%b2%e3%82%b9%e3%83%88%e3%83%ac%e3%82%af%e3%83%81%e3%83%a3%e3%83%bc%ef%bc%8f%e3%82%b2%e3%82%b9%e3%83%88%ef%bc%9a%e7%94%b0%e4%b8%ad%e5%8a%9f%e8%b5%b7/ 夕方には瓢箪で学生たちと展覧会をしているので、相互的な講評をする。焚き火を囲んでするみたいな話の雰囲気だった。詳細が抜けているところを聞いていく。素材から受ける印象。印象と効果。感性を言葉にしていく作業。わたしはそれがしたい。日記を書いていると、したいこととしたくないことがはっきりとしてくる。したいことをできる(した上で対価を得ることができる)ように助けられたい。日記を公開することはSOSとか誰かへのメッセージみたいな感じもする。なんで公開するんだろ。締め切りがないと何もできなくなっちゃうからってだけの気もする。

2021/07/25

 始発で公園に遊びに行く予定だったのに、しっかり9時に起きてしまった。結局昼ごろ集まり(さらに遅刻を重ねる)誰かが手入れしているんだかしてないんだかわからないような植え込みを見物する。良さげな部分にはなんとなく共通するものがあるような気がする。一度に入ってくる情報が多いとか、草の生える(矢印的な意味での)方向が見えたりとか、かき分けがいのある姿の草だったりとか。オリヅルランをかき分ける浅田さんの手が、作り途中の本のゲラなんかの紙束をザッザッとめくって見せてくれるのと同じ手の感じがあって、よいものを見たと思った。見ても意味わからないけど読むと逆立ちしちゃうようなのを作りたいねー。 そしてやっと「アナザー・エナジー」展を見た。あのショーケースさが気にならないのは満足できるボリュームでの展覧会を実現できるあの財力によるものって感じ。スザンヌ・レイシーの作品を初めて見れて、ほんと感動した。泣いちゃったね普通に。あの手紙の展示のされ方。普通の資料の展示の仕方のようなんだけど、なんであんなによく見えたんだろう。手紙を覗き込む私の背後で人々が語らう映像が流れていて、いろんな疑問が書かれたベンチが配置されていて、そこに座って何人もの人がじっくりとフェミニズムの語りを聞いているこの状況。このプロジェクトがきちんと取り上げられていて、権威化していて、まず何よりも、それぞれの視点によるフェミニズムの話が交わされている映像が流れる部屋。手紙がパーティの証明として機能すること。いろんなやり方のパーティー。フェミニズムをやるモチベーションの共鳴。嬉しい。本当に素敵だったな。

2021/7/24

2021/07/26に書いてます いろんな約束をして、その準備をしたり 本当にどうでもいいinstagramの広告で出てきた「なろう系」崩れみたいな(人が作ったものに「どうでもいい」とかいうと、自分の何かがめっちゃ傷つくが)web漫画を読んだり。今すぐにやらないといけないこと/一生やらなくていいことの交差点となる。糖質制限をうっすら意識しながら生活しているのにスニッカーズのファミリーパックを買って何かから隠れて食べたり。そしてついに全部忘れた。7/24はありません。毎日日記を書かないと、そういうゴミっぽい日にしか書けないようなことが取り返せなくなってしまうのか。Twitterには「焚き火したいです」とあった。取りつく島のなさよ。乾燥機のフィルターが埃で塞がれているのを爪でガリガリやって剥がす。そうやって掃除するべきではないんだろうなとは思う。

2021/07/23

 オがはじまってしまった…オの開会式もろもろの辞任後任で、クレジットへの関心のなさにすごい不安になる。昔やった良くないことを引っ張り出して重役から退かせることを膿出しといっているけど、まあある程度はそうなのかもしれないけど、民主主義ってなんだよ…欧米の監督者がいるから膿を出せるってなんかほんとにいやなんですが…悪役的悪役まるでシスの暗黒卿みたいじゃないかほんとにパルパティーン議員だあんなバッハというひとはまじで(この日記は7/25に書かれました)

2021/07/22

「もう一つの」という言い方。オルタナティブとか。メインストリームありきのオルタナティブ?何に対してそこから抜け出る道なんだろう。トップダウンとか消費速度とかマーケットとか、何かしら色々あるんだろうが。 (言葉遊びだけど、、)「アナザーエナジー」展の「アナザー」はどういう意味で使われtれいるんだろう。まだ観てないんだけど。基本的に「別の方」という言い方は好意的なことが多いけれど、そこにジェンダーが入ってくると待って、と思う。パッと「アナザー(もう一方の)/エナジー(力)」と聞いた時、メインエナジー(主動力)的なものを想起していやーな気持ちになるのは、それがジェンダーに関わる話だからで、何かの均衡を取るみたいにしてメインが全体に対してどちらかによっていた時に「もう一方の」というのが発生するのだろうけど、ジェンダーってそういうものじゃない。中性とかいっちゃうそういう考え方にもみて取れることだけど、ジェンダーは程度の話ではなくて個別の話のはずで、で、さらにフェミニズムが男女同権のための社会運動なら尚のことアナザーではない。でもあの展覧会はステイトメントとかでフェミニズムの展覧会であることを否定している(?)らしいし、じゃあ何に対してのアナザーなんだというのは、見に行ったうえで考えるべきことだね・・・。書いてあるのかもしれないけど好意的な解釈するなら、例えば・・「別の方へと動かす力」としてのアナザーエナジー・・?

2021/07/21

 7/21 暑すぎる。心臓が溶け出しそう。人の形を保っていられない。血液になっちゃう。臓器になっちゃう。義体化して脳とか脇とかにファンをつけたい。7/19の日記を朝書く。二日遅れ。7/20の日記を夜中に書く(7/22の朝も書いてる)。一日半遅れ。 今日7月21日は、ジェンダーゼミ「ラボメロ」の日。RAUはおやすみした。前期最後。後期の打ち合わせをみんなとしたかったけど、参加者が少なかった。講評とかあるし仕方ない。フェミニズムやクィアセオリーの考え方を使って、裸婦像を起点に環境に変化をさせるとしたらどうする?と言う話を少しず〜つやってきた。意外と手応えがない。自分の口から言葉をヒりだすトレーニングにはとてもなっていて、今日見つけられた言い方はフェミニズムのアクションをすることは、「身を置く場所や社会と言う環境に対してフェミニズムをサーフィンさせる感じ」というもの。 「アイデンティティ読書会」の本を決めた。竹村和子さんの『愛について:アイデンティティと欲望の政治学』。つなちの作品を見て話す様子をみてまろんさんから占い寄りの批評みたいな言い方で褒められる。「書き起こせば読者つく!」…まじで? つがちと久しぶりに2amまで遊ぶ。公園でだべる。誰にも言えないできたいろんなこと(望まないされ方で過剰にその関係するひとが非難されそうだったり、話すタイミングのないようなこと…)を話せるひとがいて嬉しい。 日記に個人名をあまり書かないようにしてきたけど、面白いひとでもそれがあまり前面に出ないひとたちのことは書いておくべきかと思った。信用できるひとたちはすごく慎重で、個人的なさまざまに複合的なやり方で場を設けて動いていて、身近だとわたしは居合わせることができるから、それならばその記録みたいにもこの日記を機能させることができればなにか身の回りに何度でもいいことがあるような気がする。

2021/07/20

7/20 はれ もうめっちゃあつい。正直昼間暑すぎて座り込んだ。代謝悪くて汗がかけない。足がめちゃくちゃ浮腫んで痛い。水は相変わらずがぶ飲み。  7/19に引き続いてレイシズムまわりの話。パーティの組み立て。自分たちをどうやって振り返るかとか。嫌がらせのトピックスではなく、あらゆる嫌な経験を持つ人に共通のレイヤーを作ろうというアイデア。次齋藤君に会ったら、オープンにしたい「程度ごと」に集まる提案をしてみようかな。それか英語で話すようにするとか… 先生やら各所に事情を聞いたり話したりして、理解を得ていく手続き。

2021/07/19

 おととい(7/19)。今日(7/21)。 おとととい7/18にざわつきはじめた身近なレイシズム。加害者にスクールカウンセラーの部屋へ行ってもらうの含め、対応策を考える。 例えば「ハラスメントを考える」みたいなタイトルで行われる権力あるひとが主催の「ハラスメントを考える会」は大体の場合信用できない。その人自身がハラッサーやんけという人がソーシャルグッド系プロジェクトに関わっていることの多さがエグい。ただ流行に乗ってやってる感じ。それに、「考える」なんて、安全なところから語る特権意識のあらわれやんとも考えていたけど、これは再発防止とか、攻撃的な態度によってではなく牽制の態度(ハラッサーがまず第一に守られる不可解さ)とかで、結局アカデミアのひとたちは所属に縛られてることもあって色々はできなくなってしまうってことなんだろう。だからこそ自身の持つ立場を有効に使い協力するひとは本当に助かるなーと思う。 こういうときに、名前があって便利だなと思うのですね。 しかし住友さんの件はどうなったんやろね。

2021/07/18

 晴れ スケジュール管理がきちんとできればなぁ。スケジュール管理に割いてるメモリをクリアして、別のデバイスで動かすことができたらめっちゃ楽なのに。LINEの「リマインさん」というリマインド機能のある公式アカウントがあって、日々それに話しかけてスケジュールを管理しているけど、LINEの来るストレスが強化されてあまりよくない。前はあんなに活用していたGカレンダーも使い勝手の悪さでほとんど辞めてしまったし。時間をいつでもきっちり、というか早めに行動できるひととは考える何かの部分がまるっきり違って、わかりあうことは出来なくて、許し合う(遅れる方に問題があることがほとんどだけれど)ことだけが共存の方法かもしれない。時間に交差点を設けることで生まれるこの「問題」は、何次元なら解消されるのかな……

2021/07/17

 ど晴れ あっつい いろいろと日々積み重ねてきた、ばらばらに過ごすことができつつやんわりとしたルールをインストールし合うための設えをがらりと、がらがらと、権力によって破壊される。「催しにご協力」なんて嫌だ!権力といっても、イベント期間なのでこうして!ああして!後で戻すんで!という感じで、今ここにいる私たちの存在が完全に無視されていることに気付いてくれない。全部が面倒になってしまって、「省エネでいきましょう!」という提案をしてみると、案外受け入れてもらえて、パワーワードごり押ししてみるもんだなと思った。相手は権力を代表してきているので、こちらはしつこさの一点突破で対応しないといけない。恣意的な決定の連続の現場にはしつこくそこに居合わせないと気付いた頃にはおかしなことになっている。もう諦めて放っておいてもいいけれど、身体ごと巻き込まれて、オのつく国際運動会のグッズが運び込まれたりしてもう嫌〜。

2021/07/16

日記も続けられないくらいに忙しいかといえばそんなことないのだけど、昨日(7/16)はわりと無理なスケジュールだったので、書かずにいままで忘れ・続けてしまった。もう仕方ないから1日ずつずれて書くというかんじにしてみよう。 アーカイブをみると、2021.6のところが(30)←というふうになっていて、6月に毎日日記を書いていたから当たり前なんだけど、日記を毎日30日間書いたら6月が完了したって感じだった。日にちを徒歩で行くような(歩いて地図を描くみたいに)。7月には最終的に、31の日記が日付付きでおさまっていなければ。いまはそんな気分。 昨日7/16は、人の手伝いをたくさんして、年長者からタメ口にてなめられ、いつもテンション低いひとが大声でうらさーんと呼んできたりしてもう祭りみたいなやつのときだけ元気になる場面に関わらないで生きていくにはどうしたらいいわけ?と思ったりする。メリハリがあるようなのが苦手だ。ずっと同じ、小さな機微に満ちている感じの場所にいたい。大きく何かが動かなくていい。花火とか、戦闘機の飛行ショーとか、でっかい人の顔の気球とか、そういうわざわざ系興行を見上げるようなものと距離とって生きていきたいな、

2021/07/15

 大雨 晴れ 傘に知らない人を招き入れる。 「瓢箪」での展覧会の搬入。公園で遊ぶみたいで楽しい。変な場所での展覧会は公園の遊具のデザイナーになる夢を叶えてくれる(いつかつくるぞ!) 電流の流れでインスタレーションを関連づける考え方が思い浮かび、人の作品のインストールで試してみたら結構いい感じ。会場にあるものを引き受けていく。

2021/07/14

 雨と晴れ 天気のない世界だったら物語という考え方や、時間の捉え方が違うんだろうな。ここからそこへ移動するという考え方。 洗濯をするのを忘れていて、ものがするアピールに気付けずに、Kが洗濯をしてるのをみて気づく。ひとが何かをすると、それを介してものの状態を知ることができる、とか言ってないで洗濯は自分で気づいてやったほうがいいね。 (学生たちに授業を作ってもらう授業のファシリテーションとか、大勢のプロジェクトとかみたいに、コレクティブに複数の人に何かしてもらいたいときには、さきに運営で枠組みを設けて転びにくいよう跳ねやすいように足場をつくり、中身に集中してもらう必要があるけど、フェアな仕組み作りは。。)・・・とかそんなことばかり考えているな毎日毎日。昨日(7/14)は特にそうだった。足場をつくり、居合わせその足場を伸ばしながらみんなで移動するみたいな方法をしばらくやっていて、もっとこれがやりたいんだけど、いったいどうやってプレゼンしたらいいんだろう。というかこの仕事はなんて名前の仕事なんだろう。とにかく足場をつくる仕事は今後も続けたいな。 この間Oにどういう流れで今こんな感じで活動しているのかというようなことを聞かれてあまり答えられなかったけど、ここで答え直すならば、大学出たばかりの頃、なんか妙に格好つけたっていうか権力者っぽいっていうか椹木さんっぽいタイトル(「地域とアート・イデオロギー」とか)をつけトークイベントと銘打った、友人宅で酒飲んであーだこーだいう感じの回を何度となく行って遊んでいて、結局そういう小さく喋る場をいっぱい持つことと、いろんな場所に行くことなんじゃないか。作品力と作家力は違うと千葉さんが昔言っていたが、これは作家力の話。最近は、そういう若者ムーブもしなくなり、気の合う友達と散歩とか犬古表とか電音活動とかするのが遊び。年下の人たちの若者ムーブに絶妙なタイミングでゲストとして呼ばれたりする。その時の勤めは司会のアシストだなといつも思う。。そういうことをやってきた人で集まって遊んでみたい。作品制作の中盤で訪れる、いかに自分自身を作品に配置するかによって作品の質が大きく変化するのを考える過程が楽しい(分裂している大きな身体の血管)。

2021/07/13

 大雨と晴れ。風呂場にちいさなバッタみたいな虫がいて、調べたらミドリヒメヨコバイというらしく、ヒョと跳ねたりして危ないのでコップで捕まえる。体の毛を剃り、手で化粧水をからだに塗る。からだが広い。 大雨で外が水浸しになり、施設管理のひとが葉を避けて水捌けのコントロールをしていた。大雨はおもしろい。何もしなくていいという感じがする。大きな音。閉じ込められたような気持ち。糸のような白い線となった雨粒。景色が大きい。山の向こうのほうまで全部に雨が降っている。なんとなくリチャードセラのようなかんじ。 もう今日はクジラから頭が離れなくて、ホエールウォッチングのこと調べると高知で見れそう。いけるかな?クジラの心臓がどんなふうに動いているのか知りたい、ちょうど通り抜けられそうな太さの大動脈(どこかに標本がある。めちゃみたい)。生きているクジラをみたい。みたことがない。みたことがある人の話を聞きたい。どんな感じなんだろう?部分しか見たことないだろうけど。しっぽとか。しっぽてなに??? 小山さんが箱に身体を向かわせる話をしてくれて(もっと聞きたいが、)すごそう。マッピングして動いていく。見たい。見たいものばかりだ。(眞島さんの個展もめっちゃみたいとここのところ毎日思っている)クジラをからだにマッピング試みたとして、みたこともないクジラの身体を想像できるんだろうか。大きさだけを短く置き直す。ほんの1mでもできるか?(どこの1mだ?)その身体のまま、ミドリヒメヨコバイを捕まえて、風呂に入り、毛を剃ったらどんなふうだろう。化粧水をぬったら。クジラになって寝ることができたら、クジラとして夢がみれるだろうか。

2021/07/12

 曇り、雨 雨粒が大きい 「 シーソーゲーム 〜勇敢な恋の歌〜」がずっと頭から離れない。ミスチルのひとの歌い方って抑揚を細かく入れていて「こぶし」がきいてるどころじゃない。そういえばB'zとかつんく♂とかけっこうみんなそういう感じだ。シャギーいれた髪の毛。アンニュイさを出すような歌い方。若さみたいな感じもする。不安定さ。曲の運びの高低が激しいとか。こういう曲をみんなが聴いているなんてちょっとどうかしてる。カラオケでひとが歌うのを聴くという体験。カラオケは歌いに行くところ(なんつう娯楽だ)だけど、歌いに行ったら人が歌っているのが観れるというのは案外(?)わたしには思いつけないアイデアかもしれない。歌う時間と空間を売るなんてすごい。

2021/07/11

 晴れ たまにめっちゃ雨 天気雨。天気雨は空から水が降っているという感じがする。雨という天気として観測するのではなく。メロンを食べた。明日ももう半分あるし、あたらしい別のメロンがまだ机の上に控えているからしばらくはメロンが続く。メロンに心さらわれる。胡蝶蘭が死にそうでつらい。やらないといけないことを前にするとどうしてもルミネ行ったりゾゾタウンを見たりと雑多なものに身を浸して逃げたくなってしまう(そして実際に逃げてしまう)。中学の時オフィスに並べられたしょぼい机としょぼいベンチで黙々と過去問を解きまくる塾に通っていた。他の生徒達は向上心があり、何より先生が怖くて(みんないい先生だと慕っていたが、いい成績だと何故か1000円くらいのご褒美があるのが本当に怖かった)、どう考えても精神衛生的に良くなかったのだけど、結局そういうふうにせっつかれやるしかない状況になった方がわたしはタスクを進められる。でもそうしない、早死にしそう。好きでやるには時間が足りなさすぎる。アーティストは仕事の意識がないと続けにくいのかもしれない。手を止めているのは仕事の部分だ。まじでやばい。 なーんかもうコロナだからコラボしましたみたいなのももう嫌だな〜。というかコロナを理由にしたいろんなことが嫌だ。全部別の理由があってほしい。タイミング誰とでも内輪ノリみたいな感じになってしまうこの共通の話題。気味が悪い。いろんなことの変化する原因が、全部同じなのが本当に嫌だ。タイミングスペシフィック・・・

2021/07/10

 晴れ 雷 どんなに暑くても、頭まで布団をかぶって寝てしまう。汗だくで息止まりそうになりながら起きる。 ルポールのドラァグレースのシーズン1を見終え、総集編でクイーンたちが参考にしている年代や映画やカルチャーが紹介される。アーティストたちのそんなインタビューがあれば見てみたい。 それにしても、週休2日じゃ全然足りない。数え方を変えたらいいのだろうか。私の時間はほとんど日記を書くための時間くらいしかない。完全に好きで勝手にやってることは、他人との協働のなかでクリエイティビティを突っつきあうようにして(それも好きでやってるんだけど)でない、ほんとにいつやめてもいいけどやってることは日記くらいだ。生活を見直さないとな。

2021/07/09

 雨 ベタベタになった Red Stockingの編集会議。今回の編集は私がやることになっているが、それはあくまで作業と最終的なビジュアルの判断を任されているという意味であって、表紙や紙面の流れはみんなで相談しながら決める。今回の自分の原稿はイラレの技術が少し進歩したような感じがしてうれしい。 服服交換で誰かが中学の時に着ていたらしい「男子が母に買ってもらった」っぽい品のいいシャツを貰い、着て過ごした。髪型と相まって女ともまたクィアぽくもなく、レズビアンぽくもなく、若者ぽくなく年長者ぽくないように思える。小学生のころ男の子が急にめっちゃ背が伸びて「誰?」となるかんじを思い出す。背が伸びるのは夏休みで、ミニトマトの成長と重ね合わさって「(ぐーん)」という印象がついてくる。 表現することに消極的で(それでも表象がついてまわる)、受動的に生き自分が存在することに驚くような。そもそも生まれるということは受動にはじまるもので、生きることは能動ではない(興味あるところを語る時、これ中動態のケースではとおもうときがよくある)。自死だけが自分の生にたいして能動性を試せる手段なのだろうか、というところから始まる作品が「おどる墓石」でもある。自分に対して誰でもなさを感じることができるのは自身だけだ。最近はそんなアイデンティティクライシス的なものが面白くて、それを積極的に引き起こすために動いているような気がする。居ながらにして居ないひとになりたい。でも消して群衆に消えたいってことではない。相対的にではなくて、絶対的に「居ない」が欲しい。幽霊的な存在の逆位置を取りたい。

2021/07/08

 雨 雨に腕を濡らしながら帰ってきた。幸福。あの幸福さを文章の中につかまえておけたらいいのに。やわらかくて、腕を濡らすのがとても気持ちがいい雨だった。帽子をかぶっていたから頭が濡れなかったし、日除けのツバで顔も濡れない。頭と顔は違う。頭は四角いし顔は崖みたいに切り立っている。目と鼻先との正三角形になるくらいの位置にある部分で物を見ている(私自身は基本的にそのあたりにいるような気がする)。腕が濡れて気持ちがいいとは、草に水をあげたときと同じように外にあるような感じで、私がそれを見て共鳴しているというほうがあっている気がする。気持ちいいことは共有する必要が全く感じられない。痛覚を通したものではない気持ちよさ。しかし足元が濡れる心地悪さは私の範疇にあるように思える。理由のあることだからかもしれない。服が濡れるとか共感できるようなこと。身に起こる「非―快」の現れにあわせて私なるものが部分的に発生している。私なるものが介在しない時の方が生に没頭できているということなのだろうか。生は快も不快も指さない。私という存在に向かうことは、生という現象から離れていくことのように思う。aliveではない(生とは死を対置している言葉を意味していない)。いまのところはもう魂としか言えないかも。  ファシリテーションのような複数人を扱うということは、水面に石を投げてどんな模様ができるかみたいな感じでありつつ模様を作るみたいなものであって、その石の投げ込みかたを試していくことがファシリテーションなんじゃないかと思う。集まりがどんなものかということは模様よりもむしろその石の投げ込み方に表れていて、ひとびとの集まりと模様の布置は石の投げ手によってではなくひとびとの集まりによって決まる(この石の投げ方を試すたびに私なるものが呼び出されているように思えて仕方ない)。私なるものの発生という点において、身に起きた非―快と結びつけるのならば、ファシリテーションはケアであり、何かの世話をするということで身体を拡張しているようでもある。わたしにとって他者を巻き込み参加させてまで自分だけでなく複数人で身体のことを考えて実験する参加型作品をつくるということはつまり、こういうことなのかもしれない。

2021/07/07

 晴れ 無風 湿気 ベタベタ 昨日の日記さ…「うっせぇわ」みたいになってるよね………寝そうになりながら書いて読み返さずに昼に慌ててアップしたから心の中のあのひとが個人主義無関心を撒き散らしてしまった……つらい。今日の日記は個人主義無関心的なことを書こうと思ったのに自分がそのミスをおかしてしもたな…あかんあかん。 さて今日の日記。 ジェンダーに関する話をして、(7/17発行のRed Stockingにも書こうとしてることだけれど、)アイデンティティとセクシャリティの変化についてをやんわりと話してみた。個人的なもやもやの導入から、そのもやもやと線引きできないというところから、共感ではないあり方でジェンダーのことを話すのを期待していたのに、その導入はスッと抜けてしまって、個人主義的な語られ方による装いの話や、あるある話みたいなもの、さらには友人関係の話になってしまって、つまりは緊張感の無い雰囲気をもう止められないくらいに、ていうかや、それはさ、と止めても「まあそれはそれとして→てか私は→わかるー→それなーetc」という感じで共感と速度感のある個別のはなしの流れを全く止められなくなってしまって、たいへん反省。もうこういうことは起こらないようにしようと思った。イベントって感じでは無い休み時間のおしゃべりだったけど、わたしはおしゃべりには案外興味はなく、砕けた話し方の議論がしたい。 ささやしせずとして明日は生きてみよう。

2021/07/06

 曇り時々雨 この天気を言う時の言い方(曇りのち晴れ、雨時々曇りetc)をするとき、大正くらいの人に口が乗っ取られているような感じがするな。 元気よく書かれた日記をよんだ。日記をやってる人があると聞くと覗きに行ってしまう。でも書かれているのは、日記ではないような感じがするものだった。タイトルがついていたり、SNSベースだったり、なにより読んでいて色気付いてるのうな読ませようとしているようなテキストは日記ではないような気がする。だから何だというわけでもない。

2021/07/05

曇り時々雨 古着を集めて交換するフリマみたいなイベント、服服交換の初日。ワークショップスペースでリメイクもできる。ベロアのような生地のシャツとワイドパンツの袖と裾を交換して縫い合わせてみたら結構いい感じだ。「モードなくまさん(忍者)」というか。昨日の日記ではわたしには服を作るスキルが無いのだと書いたけど、案外あるかも知れない。 展覧会に誘われる。企画書は正直あまりピンとくるものではなかったんだけど、まあでも書き方の問題であって「わたしならこうはしない」とはもちろん思うのだけど、それが悪い方へ行ってるようなものではないからいいかな。でも最終的に受け入れがたい展覧会のテキストが出てきたら、それは無理かも。フェチは作品とか態度で表現するもので、企画書は企画書として書いたほうがいいのではとやっぱ思う。企画書で全部説明したつもりになっちゃいそう。ここに書いてあるように、といいつつ書いてあることがアイデアだけならば、それは概要が書けていないということなんじゃないのかと遠回しに伝えたつもりだが、つたわってるんだろうか。

2021/07/04

 小雨 今日は東京都議選だったらしく、わたしは神奈川に住まいし者なのでみんながvoteなinstagramなどを更新するのをチラ見しつつ新宿の本屋「i.r.a」へ。バトラーの新しい本『問題=物質となる身体』、五所純子『薬を食う女たち』、the feminist press発行の革命と抵抗の歴史のポスタープロジェクトの本『 celebrate people’s history』を買う。他にもポロポロとzineとかバッヂとかを爆買い。面白い本屋へ行くとどうしても「大人なのでOK」という気になって、(自身が低所得者層真っ只中なのに、)いいものを作っている人に直接行き渡りそうな場所で爆買いしてミクロな経済を回すべしという使命感のようなものに突っつかれついつい買いまくってしまうが、後で欲しくなった時自分で作れないものはすぐ買った方がいい。服は手に入れることができなくても自分でほしい形のものをこしらえれば良い、と技術もないのにそんなことを思っている。形への興味は刻々と移り変わっていくものだし。見て触っていれば気の済むところまではできるというだけのDIYだけれど(yourselfって誰視点なんだろ、英語には単語の段階から変な視点が入っていることがある)  Anna Poletti『intimate ephemera』に、ベンヤミンの短いエッセイ『Experience』からの引用で「Young people are lauded,and hated,for their lack of experience, that they are denied any serious political or cultural respect because experience is seen (by the dominant,adult culture) as the necessary condition for such respect.(若者はあらゆる真剣な政治的、文化的側面において、支配的な大人たちの文化から拒絶されており、経験不足を理由に「新参者」として褒めそやされたり、また「素人」であることを理由に尊敬されなかったりする。(私訳))」とあり、や、まじそう(ていうか21歳のベンヤミンキレ散らかしてて最高…)と思ったりするけれど、学生がやることに対してそれやるならこれも見るといいか

2021/07/03

 晴れ 平塚の川が氾濫しているというニュースを朝起きてすぐ目にする。テクノロード。平塚らHやNの実家があるのでぼんやりと心配だ。七夕祭りの大きな花火大会があり、高校生の頃年に一度は連れ立って行った。道路の両脇に商店街のある京都駅のまわりに似ている駅の周辺。新潟に行った時に平塚みたいだなと思い、岡山に行った時に名古屋みたいだと、しかし名古屋に行った時は高円寺と横浜と藤沢のハイブリッドだと思った。平塚は京都みたいだ。京都に行った時には、意外と普通だなーと思った。 久しぶりにドトールへ。お腹が空きすぎて判断力と手元がおぼつかない。コーヒーを頼んでお金を払うというだけの簡単な作業が全くできなくなってしまって、オーダー途中にもう諦めて帰りたいよという気持ちになる。後ろに何人か待たせている(もうだめだ)。なんとかオーダーしてテラス席に座るも、タバコを持ってくるのを忘れて泣きそうになり、今日はずっとこんな感じなのかもしれないと恐怖する。こういう状態になってしまうことは稀なので本当に慌てたし、その慌てが身体全部飲み込んで全てを崩してゆくようだった。熱海がめちゃくちゃになっているニュース。土砂崩れの映像。津波のことが頭をやはりどうしてもよぎって、頭がじっとする。これがトラウマってものなのかと水害の映像を見るたびにまざまざと実感する。遅れて幸田文の『崩れ』を思いだすが、水害の映像が怖いというかなんというか、とにかく頭をじっとさせるので、もうなんだか仕方なくなってしまって、座っていられなく、タバコを買いに行き少し歩いて気を落ち着かせてからまたドトールに入り直すことにした。カフェで落ち着かなく歩いて気を落ち着かせてまた同じカフェに行くなんて初めてやった。近所に川があり歩いて向かう(氾濫が怖いので早く引っ越さないとなんだけど、山も地層もあって散歩が最高に捗るから引越すのはさびしいなー。RAUに出す映像は地層のところで撮ることにしよう、明日は朝起きて地層を撮りに行こうかな…)。歩いていると気が紛れた先のことを考えられるだけの勘が帰ってくる。 提出先が自分の原稿を少しだけ進める。もう提出期限は超えているのだけど、全体の調整をしながら足りない要素を作るような感じで取り組んだ方がうまく行くだろう。今日はほんとうは高円寺に行く予定だったんだけど、同行者が濃厚接触者になってしまったのでゆっくりしていたの

2021/07/02

 大雨 流石に梅雨  イケガミちゃんにモードメイクを施してもらった。寝転んで一人で泣いた涙の跡のような、真っ直ぐの水色の水平線が目尻に引かれたメイク。顔のことを色々教えてくれる。頰の稜線が――ジョジョでここになぜ真っ直ぐのたて線が?という線が顔に引かれていることがあるが、これは光によって現れる頰の稜線を線表現で処理したものだ――くっきりと現れている。シェーディングで顔の側面を「倒し」て、ハイライターで眼球周りの窪みの下の部分から小鼻の横あたりの三角の面に光を入れてその差で顔を起こす。グラフィックデザインの効果を拡声器に例えたミニレクチャーをイケガミちゃんに帰りの電車でしてもらったことがあるが、メイクの考え方も拡声器のようなものなのだなと思ったりした。「この」顔を「その」顔に変容させるような、ありありとさせる技術と活用、その思考法。

2021/07/01

 大雨  電車で新作のプランドローイングを無理やり描くために日記の中から手掛かりになりそうなテキストを抜き出して写真と配置する。毎日やってることがあると、それを並び替えるだけで新作のガイドが引ける。すごい。  また人に日記に書いたことと同じ内容を話すときがたまにあり、そのたび妙な心地でこれは日記にも書いたことなんだけどとごにょごにょ言いながら書いていないことを自分の口から出すぞとピッチを上げるようにしてディテールをつけながら、日記をアレンジするようなかんじで喋ったりする。卒制で賞をもらって大学の美術館で展覧会とパフォーマンスの機会を得たとき、卒制をそのままやるのは当時難しく感じていたのと参加型の作品だったりギャラリー運営の過程などを含めた作品であったことから自分だけが選ばれるというのはおかしい気がして、広報物のアーカイブを展示し、3ヶ月間の日記についてをはなすパフォーマンスをしたのだった(「アイデアはいいが長すぎるからニコ生でやったら」的なツイートが知らない人によってされていた)。日記はアーカイブという感じではない。たまに読み返すし。話が途中のままにおわったあとにはその話を整理するのを日記の中でやったりもする。昨日なんかはそうだった。  朝の電車でプランドローイングをつくったのはもしかしたら初めてだったかも。写真を撮ったりテキストを書いたりは良くしているけど。意外と短い時間で作れるものだなと思った。これからもやってみようかな。朝はドローイングで夜は日記。日記みたいにフッテージとしてつかえたりするのだろう。アーティストたちは、毎日一体何をしているんだろう。みんな日記書いねほしー。

2021/06/30

 小雨 寒い 存在がパーツにわけれるか/身体をパーツにわけるかどうか/存在や身体を千切るとき、存在は(あるいは魂は)どこにあるのか。 知覚できないところも身体かどうか(身体なら他者が触れば知覚が起きる)/認識していない要素もアイデンティティなのかどうか/(現前しないものも含めて、)一枚のアイデンティティとするか否か、アイデンティティはパーツだとするか/取り出して語れるもの。語れないものはアイデンティティじゃないのか→それが他者から指し示された場面で、たしかに自身であると自身の認識が及べばアイデンティティであるのか。その深くにインストールされている振り付けをアイデンティティと言うのはあまりに生きることとアイデンティティを同一視しすぎではないか。アイデンティティが見出せなくて困ってるひとが生きていられるということは、アイデンティティはなくてもいいものだからだということなんじゃないか。なくても生きていけるが、無いといけないような「何者かであらねばならぬ」という刷り込みがあるということなんじゃないのか。アイデンティティは基本的に外からやってきて、「わたしらしさ」の存在を求めてくるような押し付けがましいものだと感じる。社会や他者がなければ必要のないことであるように思う。 またアイデンティティ複数あることが認められないのであればわたしは生きていられないし、「さまざまな要素があれど、あなたはあなた」だとしても、「わたしの中のさまざまなわたし」が存在する主語の違いによる指し示す対象への向かい方とその深度がまたその中でも違和感があることを受け入れろというのは酷なことであって、(ボディポジティブに賛同できないのはそういうところだが)違和感を感じることが必ずしも悪しきことというふうにもわたしは思えない。ありのままを引き受けて、「この存在が〈わたし〉という現象なのだ」いうことはあまりにも現実に起きている違和感と乖離しているように思えて、たとえば〈わたし〉が〈わたし〉を嫌うことを拒まれるようであったり、たとえば太っていることを指して他者からなんと言われようがポジティブでもニュートラルでもなにかしら受け入れ喜ぶという意見に理念としては賛同しみんながそうなれたらたしかにいいよねーと思いつつも、他人事の域を出ることができないのは、マインドセットによって変化できるようなものでもなく、それが取り替え不

2021/06/29

 小雨 少し肌寒い 何があったっけ、と思い返すと返していないメールなどのことを思い出して具合が悪くなってくる。また壁の施工をしていないし。やろうと思ってやってないことは、思い出してもすぐ忘れてしまう。スヤァ…。。いや本当にまずい。やらねば。明日こそ。やらないといけないことが日が経つにつれて増えるのは不思議だ。法事も親戚が死ぬたびに増える。他人が干渉すると、有限さが引き伸ばされたり希釈されたりする。なにかしらよ欲望で物差しが伸びるような。伸ばし方の中で「受け継ぐ」が最も嫌いだな。 法事に辟易としてなんとか長男たちは水面下で家父長制アンチ行動をしているのかもしれないとか思ったりする。

2021/06/28

 晴れ 小雨 涼しい  ラボで田中功起さんのレクチャーと勉強会。わたしが学生の頃にヴェネツィアビエンナーレということもあって、田中さんにすごく影響を受けているアーティストのひとりだと思う。田中さんがもうほんとうに過不足なく、完璧に表現した領域があり(それってほんとうにすごいことだよ)、また伝達技術の発明もしていると感じる。今日のレクチャーでアーティストキャリアのピークを超えている自分がそこからどう変われるかが重要というような話をしていたのだけど、他のアーティストたち(というか自分)も田中さんの発明以降同時代に作品をつくるとき、どう引っ張りあえるか、あるいはいかに更新するかをもっと真面目にやらないとよな。うん、田中さんの作品と同時代で引き合うというのはひとつの重要な視点かもしれない。橋本聡さんや眞島竜男さんも。すごいアーティストたちと母国語が同じなのは本当に嬉しいことだなと感じる。たまに、「が」がくるたびに「がぁ↑」と上げ伸ばして、というかむしろ中継地点に必ず「が」を入れて言葉をくぎりながら主語と述語みたいな関係をとにかく複雑化させて喋るみたいな、でも整理しながら。ま、とにかくそういう人がいて、日本語に長けてるなっていうか話すことに慣れ親しんでるなといつも感心する。前にコーパス(おしゃべりの音データ)を集めて分析する研究者のお手伝いのバイトをしたことがあり、そこへ集まってくるデータは知らないひとが撮っている意識みたいなのがかなり薄い状態で親しい話し方をするからそれがおもしろくまたなぜか切ない。知らないひとが生きている記録が(戦争とか震災とかともすごく離れた内容で、ただそんな日があったというだけの記録が)ここにあるということにたまにすごくあてられてしまって、バイト中にトイレへ行って泣いたりしていた。

2021/06/27

 晴れ 雨予報だったけど ベトナム料理をたべて、川原を散歩した。土鳩が2羽じめんをつつく。姫昔蓬が乱立して景色に濃淡がついている。細い草を足場にする雀。草が雀の重さでぽんぽんと跳ねている。花のついたアレチハナガサを足場にして蔦がその面積を増やしている。足が動かないで手に目があり脳があり、いや全身が同じように手であり目であり耳であり脳であり、身体を無数に枝分かれさせた状態で自分以外のなにかを足掛かりとして、あるいは自身が足掛かりとなったりしながら、関わる面積が増える。領土の話のように思えて、ウッとなるけれど、受け入れ全身で環境に向き合うしかない/自身が環境なる植物の、特に雑草のありかたは、あの川原の風景は、わたしにとってかなり理想的な姿だ。(風景の魂はどんなものなんだ) ひとの誕生日はたのしい。小っ恥ずかしいやりたいことを思う存分やるチャンスだから。川原を思い出しながらそんなふうな花を買ったり、ケーキにネームプレートをつけてもらったり、歌を歌ったりした。aokidからお祝いのメッセージが届く。たしかに、aokidはいつも誕生日会みたいなひとだなと思ったりした。お誕生日おめでとう。

2021/06/26

 晴れ ちょっと湿度ある 夏に近い雰囲気だが夏ではない。夜になったので日記を書き始めようと思う。Kの鼻から息がはかれる音がする。  種類としてオオカミにとても近い「バセンジー」という犬がいるらしい。人間と群れて暮らすような伴侶種の犬は吠えるが、それは仲間が近くにいるから安心して吠えるのであって、独立した犬は吠えてしまうと自分の居場所がばれるので吠えないそうだ。オオカミではないけど魂がオオカミというか。そんな話をしながら「何歳の気分?」と聞かれる。5歳と思いつつ、15歳くらいですかねと答える。15歳って5歳になりたいみたいなところない?と言われて、正直5歳ですねと白状する。「じゃあ5歳のオオカミっていうかバセンジーはどう?」と問われる。よい。「それがいいです」。  Sさんは子どもの頃、「自作の日記を書いていた」と言う。どうも倒錯しているけれどすごくおもしろいアイデアだ。「自作の日記」。日記のていをとった小説、とは言わずにあくまで日記なのがいい。人称のはなし。ひざがビリビリのジーンズに子どもが「痛い痛い?」と保冷剤をそっとあてにくる。ジーンズの痛み。転んだ可能性への言及。ビリビリだ!と言う発見から主語を飛び越えて、いや、多くの主語を包括的に扱いながら痛みと言う現象につなげる。気持ちのいいもの。そういうふうに交感するという話。ジェンダーもそう考えたい。髪を切ってもらいながら、Sさんと話したこと。新しい髪型がわたしにものすごく似合っていて、この姿はうらあやかというよりも浦彩佳もいうよりもささやしせずの姿だと感じる。嬉しくなって、ビリビリのジーンズを買った。ビリビリのジーンズを着るたび多くの主語を、わたしのさまざまな細かな人格が表現されるこの身体をしたままに現象のように存在するヒントを得ることができるような気がする。わたしは現象になりたいのだ。

2021.6.25

 晴れ。本当に梅雨?涼しいしかなり快適。ちょっと気圧にムードある。 助成にアプライするためにプランを整え書類を作る。つがちゃんとの仕事は元々楽しかったけど最近さらに楽しくなってきた。ラボの仕事はなんかこっくりさんみたいで、なにかのバランスにどう転ぶかという感じで、意外と自由な企画書を書くことができない。もちろん学生は完全に自由だし、私自身誰から阻害されているわけでもないけど自分が好き勝手やるとバランスが取れないし、なんか教えたりしたくなったりしそうで嫌なので好きそうだけどやったことないことをやるように最近はしている。「遊んでください!」と言っている一年生がその割にあそびに来ないのは場の設定がボヤっとしすぎているということなんだろうか。それとも二人きりで遊びたいってこと?わたしの誘い方は半分開いている(勇気あるもの求む的雰囲気だとおもう)イベントみたいな遊びだけど、指名してほしいってことなのかな?指名されると断りづらいしわたしはあまり名指されることが好きじゃないのだけど。思い返してみれば、これまでしてきた言い合いでも、嫌な感じのことを言ったひとに直接言わずに、そういう発言を許す空気が最悪というかんじで怒るようなことが多かったかも。野生の人がい〜。

2021.6.24

  曇り。昨日の日記に「 経験を共有するというのはいったいどんなことなんだろう。たとえばVRみたいに一人称が他人に移植されるような日記は。」と書いたが、人称が他人に移植されるというのは「共感」であってはほしくないなと朝一番に思う日だった。電車の中でもそう思った。共感の嫌なのは、そしてそれが現れるのが嫌なのは、わたしの感性が言葉が蹂躙されるように感じるからだ。共感よりも交感がいい。共感が「わたしにもこの経験がある」ということを思い起こさせるとするならば、交感は「この経験はないけど、翻訳を受け取ることができる」というような感じかもしれない。  「女の子の部屋」。Kちゃんが企画している共同制作のビジュアルイメージが「女の子の部屋」なんだけど、それがいわゆるピンク/ふりふり/kawaii的女の子イメージに向かっていて、まあ個人の趣味だしいいんだけど、趣味の範疇でやってしまうのは美術じゃないんじゃないの?と思ったりどうにか楽しくバックラッシュ化を避けたいとか、あるいは見越して扱えるものになるといいなと考えてる。どうやって伝えたらいいだろうか。ジェンダーを作品で扱う時、人やものや空間に演じさせる時、作者自身も自身のジェンダーについて考えないわけにはいかないと思うのだけど、「女の子らしい」とか口から出すときにもそれに自分が与するの抵抗を感じるとかあるんじゃないかと思うし、usよりもIとして語るべきと思う(youは最悪って思うことが多い)。主語がIであるとき前提として共感の気配が漂うだろうか。usは連帯だろうか。交感の気配が漂う主語はなんなんだろう。

2021.6.23

 雨と大雨と晴れと曇り。ストーリー性のある天気、と思いつき、なんじゃそりゃとつっこむ。  「生理の日こそ可愛いもので気分を上げよう」という歌の流れる生理用品のCMのことをたまに思い出す。ちょっとやそっとの「可愛い」じゃ気分なんて上がらないよね。  Nと日記の話をして、Nは語りかけるような口調と文法で手書きで日記を書いて貯めているらしい。中学の頃から。すごい。  毎日毎日仕事をしていて、楽しいのだけど、ひとりでじっくりなにかをする時間と元気を全然確保できていなくて辛い。なにか新しい気づきが得られないと心が衰弱していく感じがするから面白そうなところへ赴くようにしているのだけど、何にも集中できなくてとてもしんどい。できる時もあるけど、やはりなかなか難しい。19時まで働いて、帰ってきてご飯食べるほか各種自分のメンテをするとそれだけでもうクタクタ。寝よ寝よ、寝ます。おやすみなさい。  やっぱもう少しだけ書こう。公開した後だが。風呂に入ったら回復した。風呂はいい。風呂嫌いを克服しつつある。  RAUで「誰かと経験を共有することが映像でできるとして、それはどんな映像か」というような話が出た。映像、のところはいわば変数で、文章とか絵とか日記とか音楽とか踊りとか歩行とか呼吸とか料理とか語りとかいろいろ入れて考えられるやつだと思う(し、誰かと経験を共有するということを特別目指さなくたって別にいいのだけど、みんなで考えると巻き込みあえて楽しい)。日記にそのものさしをあててみる。「誰かと経験を共有することが日記でできるとして、それはどんな日記か」。共有問題が発生する。わたしの経験を実在を翻訳して記録したものを誰かが読んで、それは共有でありつつ経験の共有ではない。経験を共有するというのはいったいどんなことなんだろう。たとえばVRみたいに一人称が他人に移植されるような日記は。

2021.6.22

  晴れ。急に不正出血+生理痛で、か細く叫びながら起床。悪魔が住んでいる。そんなスタートなので何もやる気になれず、ただ諸々の事務をこなす日。そういえば日程調整とかの事務的な連絡以外のLINEを久しぶりによくやる日だった。これ見た?とか、これ見てよ、とか。しかし今日は本当に足が浮腫んで痛かった。すごく血の巡りが悪い気がする。高校生の頃、疲れが出やすい体質なのかあまりやる気がなかったのかそのどちらもなのか、まあそれなりに私なりに楽しくやってはいたもののそんな感じだったので、部活の練習ですぐ足が痛くなっていた。「疲労骨折」と耳なれない言葉に浮き足立って、これはきっと「疲労骨折」なんだとばかり思っていたけど、おそらく浮腫だったんだと思う。あの時の痛さにすごくよく似ているから、この痛みは浮腫なんだと思うけど、もしかしたら疲労骨折なのかもしれない。普通に生活しているだけでなるものなんだろうか。調べると「シンスプリント」と書いてある。スポーツをやっている人がなるものらしく、私とは無関係な感じもする。痛みの原因は全然予想がつかない。ウィメンズクリニックと整骨院に行かないと。。それと歯医者も。

2021.6.21

 晴れ。昨日のこと思い出したりしつつ、なんとなく心ここに在らずと言った感じでメンタリーリモーテッドワーキング(mentally remoted working)文法は知らんがとにかく気を分裂させた状態。なんだかうっとり。  学生たちとやっているフェミニズムzine「Red Stocking」の表紙用の写真を撮影し、記事の近況報告をする。服のトレードをするお金が介在しないフリマイベント「服服交換」も始まり、みんなのクリエイティビティがやばくてなんか泣きそうになっちゃう。場所をシェアしてる人が勝手にアイディアを持ってきて付け加えて場をアレンジする。統率の取れた区画主義的なコレクションやバリエーションよりも、つわもの達が勝手にやるブリコラージュがいい。

2021.6.20

 晴れ。オンゴーイングコレクティブで企画中の、アーティストやキュレーターたちの生活にフォーカスした展覧会に向けて、子どもたちの顔合わせを公園にて。出産や子育てを経験していなくても、周りに子どもがいたり、子ども向けのワークショップを考える機会もあり(そういう仕事が振られる系アーティストとそうでないアーティストがいる)、ケアワークを考えたり自分と違う環境のことを考えたりするときも、そしてわたしの身体が女性であるということも含めて「子ども」という存在をブラックボックスに入れておくのは難しく、どんな子どもがいるか知りたい。子どもTの判断や行動はとても具象的で具体的で、Tはまだ十分にマジョリティの言語形態で喋るわけでは無いがとてもわかるかんじがした。具体的とは「目的があってそこへ向かっている」あるいは「その状態であり続ける(たとえば目の前にダンサーの身体があるとき、抽象的なダンスは無く、コンセプトがあってもなくても身体の形はそこに現れ続けてしまうような)」ということをわたしは思い浮かべる。必要な知識(暑かったら水飲むとか)や身体のデカさを持っている人が、必要なときに補助をするということをベースにしていい気がする。あとは、要望を聞ける(何かしらのランゲージを受け取るリテラシー)仕組みを設けて、そのくらいでまずはいいのかもしれない。

2021.6.19

 小雨。昼に起きる。昨日食べたピザの匂いがこもった部屋。臭い・・・植物に水をやり、シャワーを浴びて着替える。飲み残したリンゴジュースを飲み切る。前日に残した食べ物は1日くらいなら常温で放置していても口にしていいということにしている。  Sと待ち合わせてvalkneeのイベントに行くため渋谷へ。S、valkneeさん、田島さん、会いたかった人に会えて嬉しい。女児の憧れグッズが並ぶ祭り。田島さんのbring-bringを装備。ハートやラメ、偽宝石、動物のビーズがついたヘアゴムなどの「いつ着けるんだこれ」系アイテムをたくさん持っているが、みんながいい感じに着こなしていてこうつければいいのかと納得した。着たい服を着る元気がかなりチャージされた。この夏は楽しくなりそうだ・・・  on stageする同世代・同性の”推し”を見て、自分は好きになられることを避けて活動してきたのだと思ったりした。私のところへTwitterのDMとかでたまに嬉しくないメッセージをよこしてくる人がいて、それは好きです的なやつで、作品ではなく私のことで、かつ恋愛的な意味であり、そういう人は大抵親しい人ではなくいつも頭抱える。怖いしやめてほしい。また「 若いうちは見にくる人も楽しむ人もいるかもしれないが、年取ってもそういう作品作るの?ま俺は応援してるけどw 」と(もっと嫌な言い方だったような気がする)いってきた クソカス絶対許さんばかアホドジまぬけ早よくたばれボケナスぽこちん男さん的な 人もおり、そういういろんな方向のセクシストたちが女性アーティストのことをマジでめちゃくちゃ邪魔しているというのをみんなもっと知ってほしい。というかアーティストだけでなくキュレーターとかボランティアとかみんな結構嫌な思いそれぞれしているのではと思う。やだね〜。女性たちがやりたいことを楽しくやるのに居合わせるたびに「好意かもしれない」と勝手な暴走をしてしまう人。。。好き勝手やって全然本当に大丈夫な環境を得るには、そういう人は無視しつつリストを共有して身の回りから締め出す方向で構わないと思う(だって無理なんだもの)。valkneeのライブとMCにエンパワメントされたことだし、もう少し普通に前に出てみようかなと思った。「こんな普通の30歳のヲンナの感性を支持したり応援したりする人の態度がかっこいいし、支持してる。そのリスペクトの循

2021.6.18

  ついに、翌日に日記を書く。いつも日付的には日を跨いでしまうのだけれど、眠りのカウント的にはギリギリ「今日は」の適用範囲にある。しかし今回ばかりは「昨日は」という書き出しで書く。  昨日は、その昨日のことを思い出す一日だった。昨日はその昨日の日のことを、つまり金曜は木曜のことを話してばかりで、昨日という日の印象が薄い。一昨日のことを話す昨日。一昨日のことはこの日記の前の日付の日記に書いてある。だからここに書いておくべきことがない。そういう日はむしろ特別な感じがする。抜けの日。美しい気がする。昔話ばかりをするひとがいるが、その人の今日という日の感触はどんなものなんだろう。経験を圧縮して語りでコラージュするような?あるいはDJのような?ああそういえば、昨日のゴケミドロのDJの構成は昼休みのチャイムが鳴ったと同時に始まって(チャイムと同時に始まる気持ちよさ)、蝉の声、誰かのフィラー(えっと〜、とか)のサンプリング、そして複数の曲が複雑に重ね合わさっている状態から気付けば「星規模での危機」が起こる系映画のスペクタクルな曲がかかっている(随分遠くまで来た)。ややあってミニマルめなポリリズム、ジャズっぽいようなスカっぽいような時間、昼下がりって感じの優しい曲、そして蝉時雨に帰ってくるというような構成だった。なかなかよかった。いや結構よかった。白昼夢的な感じ。  残しておくということはサンプリングできるということで、日記に残さなくても、ナラティブで掘り返すことで出来事化され、身体を獲得するある日にあった事。ある日にあった事を、プレーンにそのまま取り出したい時、それをどう呼べばいいのだろう。  今日はこのあとvalkneeのイベントへ行く。田島ハルコのDJがあるということで期待。

2021.6.17

  晴れ。「都心」は豪雨との噂を又聞きする。本当だったんかな(都心、というところがどうも嘘くさい)?どちらでもいい、自分が巻き込まれていない天気の話を記録するのはなんだか不毛な感じがする。手元のキーボードを見て、この英数字の全てが一望できていることに急に驚いた。キーボードにはひらがなも実は全部書かれていてるっぽいが、慣れの問題なのだろうけど、行と列で検索する方が一望するよりもスムーズに思う。なんとなく日記はフリック入力では書かないようにしている。  占いのおもちゃから「スケジュールを組み直して」とのお告げがあり、暗示的で怖い。Mには「野良猫に愛を」というお告げ。垂木で伝えてくると言って、パフォーマンスをすぐに始めるM。気まぐれですれ違いざまに/距離が空いている状況で/大きめの声でオォ〜ッス!と呼びかけるというおちゃらけをSに仕掛けたら大きめの声でオィ〜ス!と返してくれた。愉快。  帰りの電車でMとJiri Kovandaの話をしつつ、パフォーマンスイベントの企画をした。中学生の頃謎のひらがなの羅列と「ヒント:パソコン」と書いてある紙をもらったことがある。windowsのスイッチをいれ、キーボードをそのひらがなの手引きの通りに打ち込んでゆくとラブレターの文面がメモ帳に入力された。パフォーマンスイベントでラブレターのエピソードをトリシャ・ブラウンの「イマジナリー・キューブ」で試しに踊ってみようか。あの手紙は本当に素敵だった。  話している最中に、不意にMが今日はめっちゃ楽しい日だった〜と高らかに言っていて、聞いている方も胸の内にポップコーンが弾けるようで、これは絶対に覚えておきたいし日記に書いておこうと思った。そんなセリフ聞けることあるんだ、と思いながら電車を降りて自転車の鍵を開けていると、小学生のboysが自転車で立ち漕ぎをしながらノロノロと通り過ぎる。「おでん〜おでん〜おでんと言ったら〜・・・だいこ〜ん」と歌うboy1。「子供かよ〜子供だけど〜」というboy2。こんなセリフ聞けることあるのね。なんかちらちらと小さくカラフルなことがたくさん起こり、また思い出される日だった。行と列で検索できる日本語対応版の「イマジナリー・キューブ」を考案すれば、この日記を踊ることもできる。

2021.6.16

   雨?曇り?寒い。にもかかわらず半袖で過ごす。友人の死についてというよりもその後にある自分の状況について思い出したりした日だった。いない人とか会えない人とか死んだ人とかでなくただ友達として付き合い、その人と自分の現在の関係性について考える。考えることでしか現実がない。もうそれだけは、わたしの中にしかない現実のように思う。死んだ人との関係性は自分から自分へと入出力される。会えたり会えなかったり話せるという状況も話せないという状況もよくわからないが、会えない相手についてを誰かと会って話したいという気持ちが湧くことがある。でも姿や声みたいな記憶の中にある肉体の響きのことを思うと話すのはもちろん思い出すのも避けるような感じになる。ひとりぼっちで考えるのも難しい。悲しみたいわけでも折り合いをつけたいわけでもない。昔話にちゃんと登場させ、こんな人だったというふうではなく、こんなことがあったということを思い出したり話したりしたい。前のまま友達でい続ける、ということが難しい。死んだということが友達でいることを阻んでくるくらい、相手の状況が私の方にものすごく干渉してくる。その関係性がずっと続いていく。一方的であることと死の干渉を引き受けて新たな関係を築く。だらだら押し合いをすることができる。というかしている。ひとりぼっちでやる逡巡ではなくて、関係性の問題。

2021.06.15

  晴れ?ちょっと雨。涼し  今日は健康診断。一時間かかるかなと考えていたら10分足らずで終わったので驚いた。健康も健康で、目も良く見えているし耳もいいし背まで伸びていた。採血。名前を呼ばれる。「ウラさん」。席に座ると腕を出すように言われ、好きな方でいいと言われる。好きな方?指示の仕方に疑問が浮かぶ。注射した方の腕で重い物を持てなくなることは明白(採血の後大体2時間は力が入らなくなる)なので、数時間捨てるならせめて利き腕じゃない方をと思い好きな方として左腕を差し出す――大袈裟なようだが心持ちとしてはこのくらいの言葉を当てて間違いないように思う。針を刺されながら名前を呼ばれる。「大丈夫です」ぶっ倒れないように気を張らせるためなのか色々と話しかけてくる。話しかけてくるというよりも実況のようなことをしてくる。抗体検査も兼ねて親指くらいのボトル3本採血しますね、ちょっとちくっと痛みますよ、重いもの持たないように、気になるからといって傷口を揉んだりしないでくださいねなどなど。「はい」「はい」「はい」と息をつめていると知らないうちに済んでいて、机に血の入ったボトルが3本。こんなに採られたのかと驚き、その後空腹もあってかなりふらふらになった。  帰宅。創作でそうめんのつけ汁をトマトとミョウガでこしらえる。付け合わせとして砂肝ときゅうりで炒め物を作る。最近料理が上手くなったんじゃないか。  Kさんから身体を分割したり部分的に扱ったりするアーティストや本は何があるかと聞かれ、2時間くらいダラダラと自分の気にしている物事のことを話す。今言っていたのを資料まとめてプレゼンしたらそれだけでいいじゃんとアドバイスされる。確かに。もっと掘り下げたいので、そのリサーチは夏休みにやることにしよう。  今日は赤肉のカットメロンを食べた。メロンウィークだ。

2021.6.14

  湿った空気の感じ。梅雨に入ったのかもしれない。昨日夕方に暴食したマックはどこかに消えて、むしろかなりスッキリしているくらいの本日のわたくしの体。漂白をしすぎて洗濯に失敗したかもしれないと落ち込んでいたお気に入りのグレーのワンピースは乾いてみれば何事もなかったかのように綺麗になっていて、心底ホッとする。昔は古着の柄シャツなんかをよく着ていたけど最近はめっきりコンサバっぽい服が増えている。普段着ている服はほとんど妹からもらったもので、だからなんだかなんなんだか、積極的に服を着ていない感触がする。着れる服を着ている。気に入っている服を着る元気がない。貰い物を引き受けていたら持ち物が溢れてこの始末なので、いいかげん物を捨てる決心を持たないと(また持つのか)いけないリミットがきている。ストレージももちろんそうだが、扱いきれる情報の量のほうも限界がみえてきている。本棚も200%の収納量だしそんなひとも多いのだろうけどかなり圧迫されているので引っ越しが必要すぎる。ひっこーし!

2021.6.13

 今日はずっと家にいた。スーパーに行く以外一歩も家から出ない。久しぶりの引きこもり。今日はもう全部どうでもいいやという気分になりマックを買い込み暴食をして、気持ち悪い。不健康な日曜日を過ごした。昨日は鯛飯を拵え、餃子まで作ったというのに今日はパジャマからパジャマに着替える(一応着替えるだけ偉い素晴らしいすごい)。何かのバランスを取ろうと半額のカットメロンを食べる。  ツイッターでぼやいたことが結構拡散されていて、別にクソリプ的なものも来ていないがめんどくせ〜と感じる。Retweetされることによって、個人的な意見として言ったことが誰かの意見の代弁のように機能させられているのが不快だと思った。共感しんどい。  『 「シェア」の思想/または愛と制度と空間の関係 』で読んだ国分さんのインタビューの中には「カーシェア」を例に出しながらシェアは単に共有というだけでなく「占有」も含んでいるということが書いてあった(CSLABの運営にも大変参考になるなと心に大きめの字でメモった)。この考え方でいえば、純粋にシェアと思い込んで行う、(共感の入り混じった)リツイートという行為には、ツイートをツイ主から引き剥がし――それでも決して引き剥がれてしまうことはない――単に情報として――発言者を引き連れて――シェアするという一つのURLを持った情報としての「ツイート」への向かい方のギャップが潜んでいて、引き剥がれないがゆえに、誰も占有できない状態となって、シェアだと思って行なっていたことが実は不完全なシェアだけが行われているということなのかもしれない。(支離滅裂すぎてやばい..)  Twitterにおいて真にシェア的な振る舞いをしているのはいわゆる「パクツイ」で、犬の動画だとかパクツイは情報を引き剥がして行われる。落とし物を拾って自分のものにした後でそれを別の人に貸すように所在が浮いている状態? (引用といえば伊藤亜紗さんの『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』のことを思いだしたりもするが、日記にささっと書くには重たいのでやめておく。並べて刻んで考えたいことのメモに入れておこう)  リツイートの取り扱いはそれぞれ違うはずで、「Retweetは賛同を示しません」をわざわざbioに書いている人もいるが、私はフォロワーと未来の自分の目につくところに貼り付けるというイメージで、とにかくシェアとしてあのマーク

2021.6.12

  晴れ。風あり。昼にPO-12が届く。ゲームボーイをやる小学生みたいな体勢でシーケンサーなどをポチポチやる。YouTubeにある大体のチュートリアルは、POに対して操作する手がでっかいので押しているボタンが見えなく、あまり参考にならなくて笑える。  昨日の日記は実は書いている途中で寝落ちしてしまって(機能までの全ての日記は書いている途中で一度机に突っ伏すように寝て、20分くらいして目覚めてまた書き始め、途中で風呂に入り、読み返してみて大丈夫そうだったら投稿する、という妙なルーティーンができている)、色々な工程をすっ飛ばして今日の昼に起きた時に投稿した。書いているとどうしてこんなにも眠くなるのか。  午後。浅田さんと粘土とか草とか石とか線とか霧っぽい話をする。表面に引きつられてあらぬところが崩壊したりするといったことを延々と話す。縦書きや横書きの文字、文章の話。簡体字は草書をベースに簡略化しているらしい。意味をはぎ取ってミニマルにしているのかと勝手に思っていたので驚いた。簡略化と抽象化の差をあまりうまく説明できない。手書きでは確かに字が持っているディティールを我が物として引き摺り回してアレンジする。  夜、コーヒーがぶ飲みにも飽きたので、川へ遊びにいく。石を投げたり、空を見たりする水面の模様を楽しんだりする。気の合う友達との遊びが積み重なって、遊びの中に表現が出てくる。浅田さんとこっそりやっている「犬古表」という誌面表現のユニットは自分のための時間でしかない感じがとてもいい。社会性のない思考があるとすれば、犬古表がやっているようなことであろう。そんな犬古表は新聞の形をしたフリーペーパー「時代」に連載をしているのだけど。自分のためでしかないことはかけがえがない。それぞれ独立して動けるのはすごくやりやすい。打ち合わせ然とした打ち合わせは、もうできるだけしないようにしたい。

2021.6.11

 晴れ。日が長くなりすぎて7時を5時くらいと錯覚する。脳が春を引き伸ばしているみたいに夕方が長い。 Nさんが熱中症で倒れたらしい。Nさんが日記を書くとしたら熱射病になったことを書くのだろうと思うと、他の人が別の生を生きているのだということが急に鮮やかに感じられる。(他の人、他人、と書くことになんら抵抗を感じたことはなかったが、私の、というよりもこの生ということでしかなく、知ったことと知らないこと、ありえたことがこの生ではない場所に起きたというだけで、他のとか別のとかそう言った言い方では表現できていないような気がしてくる。他の人、というのは単に説明だ。私の、というのも現象を取り回しやすくしただけにすぎないのではないか)  同僚のIさんと観葉植物の画像を褒めながら帰宅。育てるのが上手いわけではないが観葉植物を集めるのが好きなので、―― インテリアのためではない。インテリアに気を遣っているのであれば、部屋を片付けたり掃除機をかけたり、色々としないといけないことが山ほどある――たまにサーチする。地面にある植物は体積よりも面積に注目ができて土と草を分けて見ることができる気がするが、鉢植えに植えて家の中にある植物は、鉢植えの中にその環境を完結していて植物がその生をアレンジをすることを抑制することになっている。とはいえ、外も屋内も同じように草は動かず、面積を伸ばすことで自己完結的に繁殖し、ごくローカルな環境を全身で受けて応答する。  現在参加してるRAUの「都市と芸術の応答体」で土木のことを色々と語っているのを見聞きしていると――そこでは土地という言葉が使われる――植物のことやら土のことやらが思い起こされてきて、「どうしたら植物や土のような観察の仕方で人間が土地を見る(あわよくば表現する)ことができるのか」という話がされているような感じもする。話が逸れる逸れる。  人間の尺度で植物のことを引き受けようとするときの違和感は、人間に起きる現象を病理として扱い病院に囲い込む違和感と似ている。観葉植物を枯らさないように場所を変えてやったり水やりのタイミングを計ったりすることはケアなんだけど、ケアする範囲に植物を引き込むということは私のdoingの範囲を拡張するということで(それがあればこそ日記が書ける)、植物やケアのことを考えるなら病院という施設と制度のことを知らないといけない気がする。