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9月, 2023の投稿を表示しています

2023/09/28

ここ10日間、夜に少しずつピケティ『21世紀の資本』の映画版を止めつつググりつつ観ている。映画というよりは図版大量スライドという感じだ。1時間45分の間超高速高圧縮で資本主義の歴史が話される。この映画がどの程度妥当なのか正直あまりわからないのだけど、ひとまず大掴みにする教材だということにする。資本という言葉の定義やそれぞれの年代のディテールは他の資料にあたるしかない。世界の終わりに向かうというような勢いを7時間くらいかかって50分まで来た(レンタル視聴の延長は6日目)。モートガーソン Mother Earth's Plantasia(1973)。めちゃ時代を圧縮した説得力だなとか過剰に汲んでしまう。

2023/09/22

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AがAをAする構文で遊ぶやつのメモ 彫刻が彫刻を彫刻する 演劇が演劇を演劇する 制作が制作を制作する 教育が教育を教育する 複製が複製を複製する 誤解が誤解を誤解する 抑圧が抑圧を抑圧する 広告が広告が広告する 意識が意識を意識する 記録が記録を記録する 痴漢が痴漢を痴漢する 誰かと遊ぶたびふっかけて増やしていこう。 下北沢へ本屋を見にいったがめちゃくちゃ雨に降られて終始無言で歩き、屋根の下へ入ったらどうしよーといい。雨が降る前にタープの下でzoomしてるひとは雨が土砂降りになってからもそこに座っていた。pcを抱えたまま雨の中移動できないし、オープンエアに閉じ込められていた。タープの上に溜まった雨水がかなりの頻度で滝のようなししおどしをするのが面白かった。喫煙所にはめっちゃ汚いペットボトルが。カラオケでウーロンハイをめちゃくちゃたくさん飲んだ。歌いたいわけじゃないのかもしれない。カラオケで聴く曲を聴くための施設というか。カラオケに行く人数の少なさと、絶妙な能動性と、が組み合わさると酒が止まらなくなってしまう。酒を飲んで久しぶりに少し吐いた。次の日を気にする必要のない日に体が強くあることが嬉しい。朝に仕事をひとつ済ませたというのがいいコンディションの理由かもしれない。日頃基本緊張しているか疲れているか焦っているかのどれかにあり、その状態に他人と関わるスケジュールが足されることでストレスになることも多いのではないか。最近は一緒にいることを喜んでいること素直に表現できる機会が増えて、無理がない。嬉しい。

2023/09/18

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斎藤玲児さんの個展に恵比寿peopleへ。ギャラリーの床で何かを畳んだりしているひとがいる。あまり気にせず中へ。大らかでいい空間だと思った。タイトルのナンバリングはなんなのだろう。前に聞いた気もする。日にちが増えるごとに、つまり生き続けるにあたって、フッテージの可能性がざわざわと現れては消え続け、それをカメラで撮ってああいう現れが増えてこのナンバリングも増えていくのだと想像すると少しなぜか怖い。直線を素早く通り過ぎていくのに増殖的で、それでいて絶えず忽然と消えるようなのはどうしてなんだろう。齋藤匠君(サイの字は勘で)が前に、「酔った後に入る風呂」と形容した音楽の感じとその形容詞を思い出す。それは日記的な鈍さを引き摺り回すような音楽でもある。ずっと傍にあり、どうにもならないことを納得する心の傾き。曇った甘さがある不快。他のナンバリングの展示よりも音声が音楽的な気がする。というか強く惹かれる。ポップ音やマイクが通電したみたいな音が呟きのような、鼻を啜るような存在感に思える。そう感じるからいいのだというわけではないが。すごい作品だ。 日記から言葉をバラバラに外して自分の日記を引用することで構成した文の作成を目論んでいる。毎日何を考えているのか(結局なんも変わらずに同じことをずっと言ってるのかもしれない)自分でもよくわからない。鈍さを湛えた編集、理解、情報伝達。   goodルノアールの床。

2023/09/17

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玄関、トイレ、クローゼットを含めて9枚あるドアの(そのうちひとつは引き戸だ)そのうち、7枚が壊れている。天井が歪んでいるのか、ドアがドア枠に嵌って動かなくなってしまうのだ。閉めるのも開けるのも力がいるので玄関以外のドアは基本半開きにしている。 加えて窓も問題がある。二面採光の部屋の二面はそれぞれ、住み始めてからすぐにヒビが入った東北東の出窓と、大寒波の時に寒暖差でヒビが入ってしまった南東のベランダ(このベランダの大きい窓はもう5年くらいずっと開け閉めがスムーズにいかず、いつも綱引きみたいに力をこめて窓を左に滑らせ右に滑らせしている)である。ワイヤー入りのガラスなので飛び散ることもないのでそのままにしているが、とはいえこれはきっとまずいよなと思ってから3年が経ち、しかしもうすぐ引越すだろうし、と先延ばしにして結果いまだにこの部屋に暮らしている。別にいいけど…。歯医者に通うのをやめてからももうすぐ1年が経つ。そんなふうに遅延していることを暦のように使うのはそれだけで疲れる。 反故にされた約束を私だけがずっと覚えている。同時に私は私が破った約束をほとんど覚えていられないのだが。そうしてそれぞれの元には嫌な蓄積だけが溜まっていく、と世界はそういう仕組みになっている気がする。スルースキルはあれば便利なのだろうが、それがどこでいつどうやったら身につくものなのかというのを教えてこようとするのは詐欺師しかいない。※この段落は「違国日記」を一気読みしたノリのままに書いている。朝の顔が好きだ。 夜、沖啓介さんとオートボーイ氏のライブを見に阿佐ヶ谷のライブハウスmogmogへ。シンセサイザーとデスクトップミュージック(というのかよくわからないが)とエレキ化したいくつかの楽器によるインプロのデュオ。演奏は展開が身体的とはほど遠く、沖さんと話していても会話の展開に対してそう感じることも多いのだけど、急に、ものすごく速いスピードで、あるいはカットが切り替わるような感じで、それでいて隣り合う音のままに展開がなされる。全く違う話をしても、全く関係ないわけではない。語彙や知識の連打というだけでもなく。しかし何かの連打ではある。音楽面白い。みんながオタクな話をしてるのに入れないので(別にそれでも構わない)店に置いてあった雑誌をめくる。中国のインディバンドが色々と紹介されているので、気になるものをApp

2023/09/16

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入賞展で 制作費が30万もらえる(VOCA展みたいな色々と狭苦しい構成の…)コンペティション展示のために作品を考える。あと20日ほどで搬入だけど作品がまだない。急にひらめいて、2人でやるダンスの作品をやるしかない。となった。パフォーマー2人に10万円ずつ、カメラマンに5万円、デザイナーに5万円のどんぶり勘定だがなんとかなりそう。タイトルは「異なるものが同じ風に吹かれる」。20時から24時まで昼寝したらそんな夢を見た。夢の中でのプレッシャーがすごかった。ほぼ悪夢みたいな感じ(金沢の作品は、この夢に見た作品の練習にしようか)。プロットを書いてそれが本になる。これはおそらく戯曲というものだ。夢の端にそういう部分もあった。 金沢芸術村の個展の時は、制度とその仲立をした宮崎竜成さんに相当救われてあの作品を作ることができた。本当に感謝…と2年経ってもずっと思ってる。宮崎さんはキュレーターと名乗っているわけではないが、だからこそ働きが浮かび上がる。キュレーターの働きは本来、作品がその場所にインストールされるまでの補助をすることを指すはずであって、人選はそんなに重要ではないのかもしれない。人はコンテンツじゃないし、過去作は自由の効く挿絵ではないから。アーティストにとってはキャリアが云々だしそりゃ展示したいからその機会をどうにか作るべきだけど、それはキュレーターの仕事の範囲外かもしれない。インディペンデントキュレーターって言ったもん勝ちな謎の肩書きであり、それはアーティストもそう。そのかわり自分がやっていることがアートであることだけは保証するというか。肩書きはそれだけのものだ。働きが先立つ。 スーパーに新しく設置された応募ハガキのコーナー。防火扉の前にタイヤ付きのハンガーラックとワイヤーの網みたいなのを組み合わせて作られている。無駄がなくて素晴らしい。

2023/09/15

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中学とか高校とか、あの男子とか女子とかに過敏になっていく過程をどうにかできるマルチバースはあったのかな、と考えていたら、幼馴染のM君のお母さんのお通夜で、母たちが死に方を人格と合わせて物語的に解釈(あの人らしい最期だった等)して泣きながら話していたのを思い出した。 つなちが誘ってくれたのもあって、ソー・ソウエンさんの個展をみにいってきた。なにかが違ったらかなり無理な身体の捉え方だと感じた。でも会場がすっきりしていたからか大丈夫だった。臍の緒が関係する作品の延長コードを飛び出させて電源を分けているのを見せてるのが気持ち悪く(作品としていい悪いという話ではなく)、そういった現実の処理にこそ個人の思想が滲み出るなと思って面白く見た。

2023/09/14

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 site sensitive という言葉を知った。場所によって変化する知覚を言い表すのにこれまでcondition とか差異の束とか知性の集まりなどと言ってた領域のニューカマー。全ての場所で共通して気にかけるべきこと、あらかじめ確認し合うべきこと、何かが起きてから対処すればいいこと、言わなくてもいいこと。

2023/09/13

 じゃがいもと玉ねぎのコンソメポタージュ作って食った。アーモンドミルクを塩っぱい系スープの割りものにすると全部美味しくなる。 白だしでといた卵焼きも神がかっていた。おいしいというフィードバックがあるので料理はめちゃ楽しいな。毎日するわけではないけど…。 草は水やると元気だし、掃除はすれば綺麗になって気持ちいい。というか誇らしい。ものは加工の分変化が返ってくるので付き合いが正常なうちは健やかに付き合っていける。ぶら下げたり、畳んだり、仕分けしたり、分解したり、できることが見えるししたらしたで留まる。嬉しい。筋トレは身体がものだということがよくわかる(めんどくさがる私が邪魔だ)。随分前に、催眠術で禁煙した話を聞いたがあれって本当なのだろうか。

2023/09/10

  晴れ。遅く寝たにもかかわらず早起きしたので嬉しい。昨日沖さん、もっちゃんと夕飯を食べに行って、かなり食べ過ぎてしまったので胃の調子とか全体的になんだか朝から満身創痍だったが、薬を飲んでなんとか復活。粉末の(錠剤があるのかは知らない)太田胃散を大信用しているので飲んだ瞬間から安心してしまう。ドトールへ。ドトールのコーヒーには下剤でも入ってるのか、いつもいつもトイレに行ける。太田胃散を飲んでドトールへ行く、というのは食べ過ぎて胃腸がつっぱっているときの解消手順だ。ドトールのトイレには「○○しね(名前は秘密)」とボールペンでドアにまあまあ大きめに掘られている。そんなところもご愛嬌である。 駅に向かいエスカレーターに乗る直前の壁駅に「獅子舞」「本日」が貼ってあるのを見つけて登ったその足で小山君とおっおっおっと見に戻る。近くでこれからまさにちょうど始まるらしいので、踵を返して見に行くために一駅だけバスに乗った。 おじいさんたちが笛を吹き、なにやら紙をみながら歌い、三人の獅子舞と一人の合図を出す踊り手がそれに乗せて舞っている。屋外の土俵の屋根を支える4本の柱にはそれぞれ、小鹿の毛皮が縄でくくりつけられている。よくわからないけど謎の説得力があった。暑いのでデカビタを買おうと自販機のボタンを押すと、瓶の絵が缶に描いてある缶ジュースのデカビタが出てきた。それは話が違うよ!!!戻り道はジュースを飲みながら歩いた。 世田谷美術館へ。のためにバスに乗るも、どんどん田舎っぽい景色がバスの車窓に。多分違うなと思いGoogleマップを確認するとやはり間違っている。申し訳ない。終点まで行ってまたバスに乗った。展示を見る。花森安治はすごいな。いいコレクションだった。さすがに足が疲れた。帰りもバスに乗り、今日は四回バスに乗った。 最近やっとわかったことだが、わたしはどうやら地図を読むのが苦手みたい。Google mapの青い点々を辿るのも難しい。バスも間違えるし電車もだめ。だけど移動の足取りに力強さがあり目の前に停まったバスに飛び乗る。行き先さえなければそれでもいいのだが。散歩はほんとうに得意だと思っているけど、それも怪しい。 ちっちゃなアカネズミ?がいた、

2023/09/07

上司に対してそれやめてほしいとか言うべきだよなーとか、そこから勇気を出してハラスメント被害をひとりきりで訴えたりとか、そういう孤独があちこちにある。そんなめんどくさいことはしないでもいい。 理解するふりをする人。「なんで怒ってるのか説明して?」って言われた時(遅れてきて)(議題は事前にシェアしてあったにも関わらず)(読めよ)(なんで怒ってるの?って聞かれることはストレスなので文を読んでおいてってことも言ってあった)(読めよ)、「あ、このひとわたしが幼稚な考えだから怒ってるって思ってるんだ、説得して気分をなだめてあげようとしてるんだ」ってなったことある。ため息でた。 自分がハラスメントを受けている状況にあったときはふつうに震えて喋れなくなったし、そんな相談とかもできなかったし。今思えばあれはハラスメントだけど、その日の夜は「あいつガチで病んどるわ」と思ってどうしてあげたらいいのか考えたりしていた。わたしだって花屋さんを続けたかったけど店長がハラッサーだったのだから私が辞めるしかない。上下関係があるっていうのは、そういった時であっても円滑にことを運ばせるためなのだ。 言えないつらさと表に出てない被害がそこらじゅうにある。そういう世界だと思う。 俎上に上がった問題について正しさの選択に引き裂かれる野次馬のリテラシー、お気持ち、まじでどうでもいいっていうか、複雑さに耐えられない者たちに、その代表者として助言を与える動きがあるのが信じがたい。それって端的に鑑賞者や周囲を舐めてるよな。みんな考えてるし、悩んでる。悪いことが起きてほしくない。だから考えてる。その戸惑いを共感に導いて無効化するのは、詩の悪用だ。強くそう思います。 評価をする側のひとって、野次馬ポジorハラッサーがほとんどなのだろう。だからそういう評価する側の立場をエンパワメントしてくれる(その立場にある人も悩める個人でもあるからあえてエンパワメントという言葉を使う)そういったもの、活動、人が評価される。これが特権的立場といわずなんだと言うのだろう。 表に出てない被害を、全く関係ないひとが、どうにかサポートする。その結びつかなさ。権威もないから実効する動きを取ることができない。権威を持つ人は立場守るためにうごかないし。その仕方を議論しないと意味ない。そのために「私たち」という単位を持ち出すのだ。 ふいに「正しくて優し

2023/09/06

展示見てないのに展示のこと批判することについてのメモ(それと鑑賞ー者について) まず前提として作品制作や発表は市民活動。そこに、美術という学問や美術館という制度が接続する。制度ありきの活動ではない。順番が逆。美術という制度の中でステータスアップするゲーム=アートではない。 展覧会=いくつかの作品を並べている空間、ではない。無鑑賞者空間は通常の意味で展覧会とは呼び難い。開催する場所があり、日時があり、それを広報し、そこにひとが出入りする環境を設えることが、作品を並べるよりも先立って展覧会を作る。日時と場所とタイトルと出展作家という情報は展覧会を下支えする。下支えの情報を得た上で、鑑賞における美学的な判断はその下支えを回避するか?しない。 展覧会自体、鑑賞者を必要とするパフォーマティブなもの。鑑賞者を募らない内向きなものを、広報するなんていうのは共存しえない。 広報の結果、会場にひとが出入りする。作品を作り展示している者、そのギャラリーを運営する者、友人たち、迷い込んだ者、生徒たち、観にきたキュレーターやアーティストたち、コレクターたち、家族たち、アーツカウンシル東京たち、アートウォッチャーたち(他にも書けていない立場の人がいるな)。ドアから出入りし、それぞれがそれぞれの生活と知を引きずって入ってくる。それをいくらか解消したりしなかったりして出てゆく。そういう各固有の眼が作品を見る。それは鑑賞のベースにある。ギャラリーの中であれ外であれ、関係なく抱えている各固有の考えごとがある。そしてそれは鑑賞者の内で作品とくっついて内的に表現される。それが鑑賞(それを言語化して再表象したものが感想)。 展覧会をみる=フィジカルに訪れて作品を見ることだけでない。作品は作品。広報で受け取った情報、下支えとなる構造。そういうものも合わさって展覧会はできている。構造的な問題に言及することは、構造を見ているからいえることだ。アーキテクチャーは展覧会のうち。構造と構成。

2023/09/05

希少性(数)と欲望の掛け合わせの経済性のメモ 希少性:○ 欲望:○ →経済性あり>売買の価値が安定している。広報が行われる(それによって儲けを得る者がいる)。 ※欲望=中毒性、他人が自ずと動くような力 希少性:○ 欲望:×(これ以外もういらない、去勢的、本当に少ないし、もう増えない) →経済性なし>個人が思うだけでなく、みんなが希少だからこそ大事にしようと理解し合っている状態。ex)有限なもの、資源とか →マニアが個人で買う。関係するひとの数が少ないので経済への影響少ない。分配不可能、有るor無いに近い。 希少性:×(たくさんある) 欲望:○(けど欲しい) →経済性ありの場合>希少性の扱い方にバリエーションをつけて欲望をコントロールすることができる。ex)一揃いで売る。長々と売る。消耗品。 →経済性なしの場合>人によって価値判断が変わるもの。趣味的なもの。押し花。石拾い。下着泥棒。蝉の抜け殻。どんぐり。転売を含めると=コミュニティの中で価値が安定している=希少性○に変化する。欲しい理由がより明確になる。 希少性:×(たくさんある) 欲望:×(いらない) →経済性ありの場合>砂利、アクリルパーテーション、チラシ、ごみ、病原菌:リサイクル、資源、たくさん有るということは産業的or軍事的価値がある。 →経済性なしの場合>たくさん有るから配る。腐る。おすそわけ。廃棄野菜=経済を安定させるために作る余剰、そもそも捨てないといけない部分。経済にカウントされていない切れ端。売れ残り商品。大量にあれば捨てるにもお金がかかる、お荷物的なもの。生ゴミはコンポストで堆肥にする道も。 「お裾分け」のようでも、関係資本を獲得するなど普及目的の資材は当たらない。政治家がティッシュ配るとか。 ラーニングは? == ものを測る基準 希少性、耐久性、原材料、純度、品質、親しみ、珍しさ、重ければ重いほど高いものと軽ければ軽いほど高いものがある、限定されたもの=力や時間や空間をチートすることができるか(結果にコミット関係はサービス資本と入れ替え可能) == エクスペリエンス 達成感関係 自己満足→外との関係(依頼書/領収書の取り交わし、など)の程度一往復未満。評価。 高揚感、罪悪感、お得感、「感動」は何?、共感 == 学びはエクスペリエンスでは無さそう。物に近い。不定形な物。エク

2023/09/02

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 スーパーのレジに並ぶ。前のちっちゃいおばあちゃんのカゴには猫用の缶詰やらちゅーるやらが大量に入っている。人間用のご飯は豆腐とiPhoneくらいのちっちゃな挽肉のパックとぐんまちゃんの絵のついたカップラーメンがひとつ。 RedStockingの新しい号のための原稿ができた。結局徹夜で。なかなかいいのが作れた気がする。やるまでが長く、やり始めると6時間くらい続けてやる。やる気が出るのは大体23時ごろ。短いものなら一晩で完成する。書き上がる内容に波があるのでしんどいけども、他人からしたらあんま気にならないのかもしれないとはいつも思っている。日記を公開してから文章書くのに全く困らなくなった。気ままじゃない文は全然書けない。 新潮の9月号の交換日記?号、すごい面白い。日記やばい。仕事のことを書いていても全然構わない。読み飛ばすし。私の日記もそういうのばかりだから毎日webで読んでもらうより紙の方がいいんだろうな。 セロリを買ってみた。きゅうりと豚こまと一緒に炒めて、コチュジャンを白味噌で伸ばしたソースで和えた。 育ってきた環境が違うから♪ と、歌いながら料理。 誰かが何時に寝た、とか、そういう日記が書いてみたい。育児記録を取らせて貰いたい。

2023/08/31

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 とあるチャットグループに送ってないメッセージ: ラーニング〜の件ですが、ディスカッションのイベントか、ただ普通に話したいです。たとえば「遊ぶこととその効果について話す」とか。 前に煙草吸いつつ話した「ただ一緒に遊ぶだけ」というのに関して、これって、火を使っていい場所を知るとか、熱中症に気をつけながら外にいるためのコースとか、遊んでるうちにちっちゃなコンテンツ?知識?がぽこぽこ制作され、制作することで身について、結果的に参加者個々人のオルタナティブな活動をするポテンシャルを引き上げるようなイメージでしょうか。そういうことを一個ずつ吟味して遊び?過ごす時間を設計するというか、それは楽しそうだなって思っています。 「遊び 目的」でググってみたら、マッチングアプリの遊び目的の男・女を見分けるコツというのがたくさん出てきつつ、 こういうのが出てきました 。とりあえず所感として、これ子どもだけじゃないわねーと思いました。3間、というのは企画=日常的なものではないということで保証されるかなと思いました。なんかそこをうまく組み合わせてプレゼンしたら協力してくれる教育機関とかあるんでは?と見積もりの甘いことを言ってみます。 こんな思いつきを元に軽いレジュメ切って議題を設け、3人でぺちゃくちゃやる勉強会の時間を作れたらと思うのですが。(録画しておいて、文字起こしとか編集とか入ってもらって本にできたらかなり最高では) あ、こないだ話途中になってしまった、「ユニークなワークショップ」の参加者募るPRの戦略のアイデアで、生活へ何を持ち帰るのかをワークショップ実践者にしつこくヒアリングするというのも進めたいです。ヒアリングによるメソッド化狙いつつ。とりあえずフィードバックとして内部向けにテキストとか書こうかな? 雑談みたいな感じで送っていますが、適当に読み飛ばしていただきつつ。普通に話したいです。どうでしょうか。

2023/08/29

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PARADISE AIRのことをみんながインタビューされるのをきき、わたしも少し話した。ここはどういう場所なんだ、私はどうしたらいいんだ、パラダイスで何をするのがいいのかと参加するようになってから思っていた(つまり特に何もやっていない)けど、ここではむしろ特にやるべきことというのはなくて、逆に、外でやってることを持ち寄ることで多様で面白い場所になっている、そういう感じなのかな?と思った。昨年から引き続いて走っている活動に加わっているとよくわからないことだが。 インタビューの中で話しながら見つけたこととして(採用されるかはわからないが)「足りないものはない」「やるべき仕事はない」「自分がここ以外でやってることを持ち込む」というのがある。自分の口からその理解が出てくることが重要だし、なんか嬉しくなった。ここのためにやるべきことは無く、活用したらそれが日々積み重なってアウトラインになるということだ。プロジェクトではなくコレクティブであるというのはそういうことなのかもな。なるほどなあ。コレクティブであれば有機的にインソーシングできるようになる。とかね。みんなからしたら、「だから前からそう言ってんじゃん!」ということかもしれない。CSLABでは私だって持ち込んでいた(それは、ソフトとして走ってることがなかったし、大学の中におけるオルタナティブな学びの場というのを実行するには、CSLABが学生に求める/学生がCSLABに求める場の機能を、先んじて示す必要があったからだ)。今走ってることは全部もうみんなに任せて、それとは関係なく、自分がやることを作るのがいいのだと思う。それの合間に、レジデンス事業のサポートをする。いまのところは、それしかない、それしかないのだと言い聞かせている。 固い桃、最高〜