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おどる墓石2

動くものを見るときには止まらなければならず、止まるものを見るときには動かなければならないと感じながらも、見ている時のわたしのこの体に焦点を当ててみれば鼻の下が熱く湿りお腹が上下している人の身体を見るとき自分のお腹や呼吸もなぜか同期していた。 癖や趣味や型ではない、身体を動かす方法やその動機を探していた。 呼吸や唾液が起こることで身体の形が変わること自体が踊りであり、外から見てわかるくらいにダイナミックに体を動かす動機でもあるのかもしれないと思った。(もう随分前から言語化されていることだ、不勉強だ、と叱らないで欲しい、、こういうどうでもいい恐怖から解放されたいです。)とにかく、身体の内側を見るということがなんなのか感じられるようになった。 「身体が動いてしまう」のを止められない=ダンスと置くことがかなりしっくりきている。わたしにはどうしようもなく、身体が動いてしまうのを止められない。呼吸や唾液を止められない。できないことを分解してみることで、肯定できるということは、素晴らしいことだと思う。わたしの生を肯定することは、嫌な"力"に対して最も有効な手段だ。 身体が動いてしまうことを止めようとすることに抗いたい。止まったのではなくものすごくゆっくり動くことができるようになったと石を愛したダンサーの、おどる墓石のことを考えている。この身体にかかる重力に gravity /pressure /power と変換した言葉を置きながら考えて身体が無くなってしまったダンサーがいまどのように踊っているのか。 自分ともう一人を実際に並置することを続けながらどのようにできるかを考えて、発表しようといます。

踊る墓石

踊る墓石 どうなるかわからないなにかのステップになるかもわからない、そこで足踏みを続けるだけかもしれないようなことに対してかなり臆病になっている気がする。 人生は毎日の過ごし方でしかないはずと思いつつも、妙な欲にぐるぐる巻きになっている。大好きな友人よ、幸福になることを恐れなくていいよ。すべては瞬間だから、過ぎてゆくものだから、何かを誓ったりしないでも大丈夫だよ。 と、思いながら、わたしのほうは瞬間を蔑ろにしようとしているのかもしれない。今を肯定できなければ生きている意味がないなんて言い出す始末で、出口の無さがきつい。 動いていないものを見るにはわたし自身が動かなければならない。動いているものを見るにはわたしが止まらなければならない。動くためには動機が必要で、その反面、動かないでいることは難しい。爬虫類や虫の多くは、じっとすることにかけては猫や犬や鳥よりも上位にある。 単純な行為を続けることに対して、閉じられた物語や、墓石のような時間の感覚を持ちたいのだけど、いつも焦ってやめてしまう。動かないでいるもののようには動けないのだろうか。時間の持ち方がわからなくて、肩にかけたり股の間に挟んでみたりしてみてもどうも収まり悪いのでいいデザインのものを探している。文字通りに半分は冗談でした。 正確な時計というものは、ほとんど役に立たないことがだんだんわかってきた。というよりも、わたしのほうが時間に対して正確に動くことができないことを把握したのだ。みんなは私がそういう人だととっくに知っていたんだろうな。時計をあてにしないでいるようにしたら遅刻が前よりもましになった。朝になり昼が過ぎて夜が来るのもついていけない時、風呂に入ったりして眠るための準備をしないでいたり、実際に眠らないでいるなどして対抗してみるけど全く意味ないので今日からはもうやめたほうがいいな。でも、昨日の続きのような朝は結構好きなんだよー。 風が灰を転がす。冷却と加熱によって硝子が割れる。見えていない力が見えるようになると、みんなが気付く。身体がその状態にあるのがダンスだと思った。動かないものを注意深く観察していると鼻の下のところがほのかに暖かくて、対象よりも自分の方が活発に動いていたのだと鏡でない方法で観察できた。見ることは動くことだと思った。 身体はどうしようもなく具体的な(