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7月, 2021の投稿を表示しています

2021/07/30

 家族旅行二日目。千葉はすごいぼこぼこしている。山があって海がある。滝も見た。妹が靴擦れであまり歩けないのになかなかワイルドな道を母がゆこうとするのでかなり強めに引き止める。家族といると10代みたいな感じになってしまうので、それが恥ずかしくて、だから長い時間いるのを避けるようなところがある気がする。お父さんが色々調べてくれた中に磯があった。行くことにした。小さい魚がいるねとか、カニがいるとか話しながらズンズン歩く。私とお父さん以外は展望台の方へ行ったみたいだった。こういうのがいいと思った。どこでもいいから家族で旅行をするっていうのはやっぱり意味がわからなくて、家族のことを知りたいならその話が聞けそうな場所へ言って、場所とセットで話をするのがいい。私のノリが悪くて、旅行にでも連れ出さないとということになったのかもしれないけれど。次どこ行きたい?と聞かれて、その時は答えられなかったけど、次旅行の話になったらそれぞれが案内できるような場所に少しずつ行ってみることを提案してみようと思う。父の実家が漁師をやっていて、あまりお父さんの話をされた記憶がないけど、今日は磯が父の知っていることとかを引き出していた。それぞれの持つポテンシャルが印刷されるようだった。 帰り道に住んでるところのすぐそばの道を通ってもらって、この河原をよく散歩しているんだと教えたりする。川が氾濫しても川向こう(東京側)へは流れないようにこっち(神奈川側)へ流れるように高低差がついているんだよと話す。税金の話とかをする。母も昔川崎に住んでいたことがあって、この道がここにつながっているとか色々言っていて、旅行で知らないところでなんか美味しいものを食べたりするよりもやっぱりそういう方がずっといいと思ったりした。

2021/07/29

家族旅行へ。千葉。前日にめちゃくちゃ歯が痛くなってしまったので、前もってあまり積極的に参加できないかもしれないと予告した。正直家族旅行は好きじゃない。遠くでわざわざ家族をやるのって変な感じがする(両親がこの日記を読んだら悲しむかもしれない)。一緒にいることの落ち着かなさの回避もあって、後から合流することにした。みんなでやったら楽しいかもと思ってちょっと高いフェイスパックを買っていく。アクアラインを通りたいので川崎から高速バスに乗る。バスの内側には水族館みたいな、カラオケ館の壁みたいな模様が描かれている。ここで降りたいと思うような場所がたまにあって、車の単位で散歩は難しいし、バイクの免許でも取ろうかと考えたりした。本当になんの免許も持っていない。乗馬の免許とかあるならそれがいいな。 千葉につき、詰め込まれるように車に乗り込む。ぎりぎり5人乗れるけれど、この車で快適に過ごすには4人が限界だろうとか思った。移動の間にルールを決めて音楽を流し合うことにした。間に何かがあると落ち着く。ガイドを設けると居心地を確保できる気がする。壁際に座りたいみたいな野生の本能が介在している。宿では弟が持ってきたswitchで桃鉄をやった。複数人で長時間居合わせることのやりづらさを、それでも一緒にいるという選択をとるとき、それぞれの持つ緩衝材やら回避やらのパターンを出し合うことで場がなんとか成り立つのかもしれない。企画者である父の場合は場所を変えて連れ出すことで、私は音楽とフェイスパックで、弟は桃鉄だったんだろう。妹と母はそれに乗ったり反ったりした。小さなパーティーの形。そういうふうにして、つぎはぎのイベントみたいになるから最近どうだとかそういう話をする隙間がなくなるので、だから家族旅行は好きじゃない。家で写真を見せたりして時間をとり近況報告をするのでいいじゃないと思うのに、あまりわかってもらえない。「最近どう?」という問いかけによって、何者かでなければならないようなプレッシャーを感じられてしまうのかもしれないけれど、そうではないという話し方を、作品を作る時のように家族にインストールする、とか思うとやっぱり嫌だなあなんだか。仕事みたいで。家族ってなんだよって話だ。大人になったり、政治的立場が同じでないということをどうやって受け入れ合えばいいわけ。「クレヨンしんちゃん」的な家族観の刷り込み。

2021/07/28

 ラボの模様替えをした。スタッフ3人の固定の机がやたらデカくていやなので全部捨てて、広い机をシェアすることにした。捨てるというかどかしただけなのだけど、それでも捨てるという感じがする。自分の場所を固定で持つというのがラボの仕事には合わないのかもしれない。他の人が何かしているところに居合わせて自分も何かやる。そういうとき集中できないという問題はあるけど、何かしているときは大体の場合みんな「今大丈夫ですか?」とノックしている(だから大丈夫です)。ドアがないところでノックするという仕草。むしろ、個人のところ以外で何かやっていると、何かやっているにもかかわらず「今大丈夫です」を示すことになってしまっていたので、この模様替えによってエクスキューズの仕方が変わるかもしれない。楽しみ。占有と共有の程度調整つまみとしての家具の配置。

2021/07/27

 きた、何もない日。やらないといけないことをやらないで後回しにしたということだけがある日。何を思って何をしたっけ。例によって二日経っているからあやふやではあるけれど。 アイスを食べていたら大澤君がふいに、サルトルの「嘔吐」の最初の方に、サルトルが通る公園に靴が両方違うおじいさん(元小学校の教頭先生だったらしい)が毎日座っていて、サルトルの友人に向けて手を差し伸べてにっこりし、サルトルは恐ろしくなり、しかしその理由は狂った老人の風体であるからではなく、エビやカニのようなことを考えているようだったから恐ろしくなったと書いてあったんですけど、急すぎて意味わからなくないですか?と言ってきた。わたしはにっこりと右手を何か別の生き物に向けてちょっと伸ばしながら微笑みかけるこの動作をしてみて、いや、結構わかるな、いやわかるというより、引きつけるならば、このにっこりの感じはザリガニの挨拶みたいかもたしかにと言った。大澤君はうわあそっちか〜と言っていた。からだの印象が言葉にジャンプを与えて、そのジャンプを体が引き受ける。 トライアスロンの選手たちが汚染された(写真は黄色く編集されてるが)海で泳いでいる写真とゲボゲボになって倒れている写真を見て、普通に吐き気がする。同情ではなく、毒みたいなものが体に捏造されるようなここち。

2021/07/26

擬似ラジオ「社会と抽象」で労働やハラスメントについて話す。ゲストは田中さん、吉澤さん。このログはYouTubeにあるから日記には書かないでおこう。 http://cs-lab.zokei.ac.jp/news/%e3%82%b2%e3%82%b9%e3%83%88%e3%83%ac%e3%82%af%e3%83%81%e3%83%a3%e3%83%bc%ef%bc%8f%e3%82%b2%e3%82%b9%e3%83%88%ef%bc%9a%e7%94%b0%e4%b8%ad%e5%8a%9f%e8%b5%b7/ 夕方には瓢箪で学生たちと展覧会をしているので、相互的な講評をする。焚き火を囲んでするみたいな話の雰囲気だった。詳細が抜けているところを聞いていく。素材から受ける印象。印象と効果。感性を言葉にしていく作業。わたしはそれがしたい。日記を書いていると、したいこととしたくないことがはっきりとしてくる。したいことをできる(した上で対価を得ることができる)ように助けられたい。日記を公開することはSOSとか誰かへのメッセージみたいな感じもする。なんで公開するんだろ。締め切りがないと何もできなくなっちゃうからってだけの気もする。

2021/07/25

 始発で公園に遊びに行く予定だったのに、しっかり9時に起きてしまった。結局昼ごろ集まり(さらに遅刻を重ねる)誰かが手入れしているんだかしてないんだかわからないような植え込みを見物する。良さげな部分にはなんとなく共通するものがあるような気がする。一度に入ってくる情報が多いとか、草の生える(矢印的な意味での)方向が見えたりとか、かき分けがいのある姿の草だったりとか。オリヅルランをかき分ける浅田さんの手が、作り途中の本のゲラなんかの紙束をザッザッとめくって見せてくれるのと同じ手の感じがあって、よいものを見たと思った。見ても意味わからないけど読むと逆立ちしちゃうようなのを作りたいねー。 そしてやっと「アナザー・エナジー」展を見た。あのショーケースさが気にならないのは満足できるボリュームでの展覧会を実現できるあの財力によるものって感じ。スザンヌ・レイシーの作品を初めて見れて、ほんと感動した。泣いちゃったね普通に。あの手紙の展示のされ方。普通の資料の展示の仕方のようなんだけど、なんであんなによく見えたんだろう。手紙を覗き込む私の背後で人々が語らう映像が流れていて、いろんな疑問が書かれたベンチが配置されていて、そこに座って何人もの人がじっくりとフェミニズムの語りを聞いているこの状況。このプロジェクトがきちんと取り上げられていて、権威化していて、まず何よりも、それぞれの視点によるフェミニズムの話が交わされている映像が流れる部屋。手紙がパーティの証明として機能すること。いろんなやり方のパーティー。フェミニズムをやるモチベーションの共鳴。嬉しい。本当に素敵だったな。

2021/7/24

2021/07/26に書いてます いろんな約束をして、その準備をしたり 本当にどうでもいいinstagramの広告で出てきた「なろう系」崩れみたいな(人が作ったものに「どうでもいい」とかいうと、自分の何かがめっちゃ傷つくが)web漫画を読んだり。今すぐにやらないといけないこと/一生やらなくていいことの交差点となる。糖質制限をうっすら意識しながら生活しているのにスニッカーズのファミリーパックを買って何かから隠れて食べたり。そしてついに全部忘れた。7/24はありません。毎日日記を書かないと、そういうゴミっぽい日にしか書けないようなことが取り返せなくなってしまうのか。Twitterには「焚き火したいです」とあった。取りつく島のなさよ。乾燥機のフィルターが埃で塞がれているのを爪でガリガリやって剥がす。そうやって掃除するべきではないんだろうなとは思う。

2021/07/23

 オがはじまってしまった…オの開会式もろもろの辞任後任で、クレジットへの関心のなさにすごい不安になる。昔やった良くないことを引っ張り出して重役から退かせることを膿出しといっているけど、まあある程度はそうなのかもしれないけど、民主主義ってなんだよ…欧米の監督者がいるから膿を出せるってなんかほんとにいやなんですが…悪役的悪役まるでシスの暗黒卿みたいじゃないかほんとにパルパティーン議員だあんなバッハというひとはまじで(この日記は7/25に書かれました)

2021/07/22

「もう一つの」という言い方。オルタナティブとか。メインストリームありきのオルタナティブ?何に対してそこから抜け出る道なんだろう。トップダウンとか消費速度とかマーケットとか、何かしら色々あるんだろうが。 (言葉遊びだけど、、)「アナザーエナジー」展の「アナザー」はどういう意味で使われtれいるんだろう。まだ観てないんだけど。基本的に「別の方」という言い方は好意的なことが多いけれど、そこにジェンダーが入ってくると待って、と思う。パッと「アナザー(もう一方の)/エナジー(力)」と聞いた時、メインエナジー(主動力)的なものを想起していやーな気持ちになるのは、それがジェンダーに関わる話だからで、何かの均衡を取るみたいにしてメインが全体に対してどちらかによっていた時に「もう一方の」というのが発生するのだろうけど、ジェンダーってそういうものじゃない。中性とかいっちゃうそういう考え方にもみて取れることだけど、ジェンダーは程度の話ではなくて個別の話のはずで、で、さらにフェミニズムが男女同権のための社会運動なら尚のことアナザーではない。でもあの展覧会はステイトメントとかでフェミニズムの展覧会であることを否定している(?)らしいし、じゃあ何に対してのアナザーなんだというのは、見に行ったうえで考えるべきことだね・・・。書いてあるのかもしれないけど好意的な解釈するなら、例えば・・「別の方へと動かす力」としてのアナザーエナジー・・?

2021/07/21

 7/21 暑すぎる。心臓が溶け出しそう。人の形を保っていられない。血液になっちゃう。臓器になっちゃう。義体化して脳とか脇とかにファンをつけたい。7/19の日記を朝書く。二日遅れ。7/20の日記を夜中に書く(7/22の朝も書いてる)。一日半遅れ。 今日7月21日は、ジェンダーゼミ「ラボメロ」の日。RAUはおやすみした。前期最後。後期の打ち合わせをみんなとしたかったけど、参加者が少なかった。講評とかあるし仕方ない。フェミニズムやクィアセオリーの考え方を使って、裸婦像を起点に環境に変化をさせるとしたらどうする?と言う話を少しず〜つやってきた。意外と手応えがない。自分の口から言葉をヒりだすトレーニングにはとてもなっていて、今日見つけられた言い方はフェミニズムのアクションをすることは、「身を置く場所や社会と言う環境に対してフェミニズムをサーフィンさせる感じ」というもの。 「アイデンティティ読書会」の本を決めた。竹村和子さんの『愛について:アイデンティティと欲望の政治学』。つなちの作品を見て話す様子をみてまろんさんから占い寄りの批評みたいな言い方で褒められる。「書き起こせば読者つく!」…まじで? つがちと久しぶりに2amまで遊ぶ。公園でだべる。誰にも言えないできたいろんなこと(望まないされ方で過剰にその関係するひとが非難されそうだったり、話すタイミングのないようなこと…)を話せるひとがいて嬉しい。 日記に個人名をあまり書かないようにしてきたけど、面白いひとでもそれがあまり前面に出ないひとたちのことは書いておくべきかと思った。信用できるひとたちはすごく慎重で、個人的なさまざまに複合的なやり方で場を設けて動いていて、身近だとわたしは居合わせることができるから、それならばその記録みたいにもこの日記を機能させることができればなにか身の回りに何度でもいいことがあるような気がする。

2021/07/20

7/20 はれ もうめっちゃあつい。正直昼間暑すぎて座り込んだ。代謝悪くて汗がかけない。足がめちゃくちゃ浮腫んで痛い。水は相変わらずがぶ飲み。  7/19に引き続いてレイシズムまわりの話。パーティの組み立て。自分たちをどうやって振り返るかとか。嫌がらせのトピックスではなく、あらゆる嫌な経験を持つ人に共通のレイヤーを作ろうというアイデア。次齋藤君に会ったら、オープンにしたい「程度ごと」に集まる提案をしてみようかな。それか英語で話すようにするとか… 先生やら各所に事情を聞いたり話したりして、理解を得ていく手続き。

2021/07/19

 おととい(7/19)。今日(7/21)。 おとととい7/18にざわつきはじめた身近なレイシズム。加害者にスクールカウンセラーの部屋へ行ってもらうの含め、対応策を考える。 例えば「ハラスメントを考える」みたいなタイトルで行われる権力あるひとが主催の「ハラスメントを考える会」は大体の場合信用できない。その人自身がハラッサーやんけという人がソーシャルグッド系プロジェクトに関わっていることの多さがエグい。ただ流行に乗ってやってる感じ。それに、「考える」なんて、安全なところから語る特権意識のあらわれやんとも考えていたけど、これは再発防止とか、攻撃的な態度によってではなく牽制の態度(ハラッサーがまず第一に守られる不可解さ)とかで、結局アカデミアのひとたちは所属に縛られてることもあって色々はできなくなってしまうってことなんだろう。だからこそ自身の持つ立場を有効に使い協力するひとは本当に助かるなーと思う。 こういうときに、名前があって便利だなと思うのですね。 しかし住友さんの件はどうなったんやろね。

2021/07/18

 晴れ スケジュール管理がきちんとできればなぁ。スケジュール管理に割いてるメモリをクリアして、別のデバイスで動かすことができたらめっちゃ楽なのに。LINEの「リマインさん」というリマインド機能のある公式アカウントがあって、日々それに話しかけてスケジュールを管理しているけど、LINEの来るストレスが強化されてあまりよくない。前はあんなに活用していたGカレンダーも使い勝手の悪さでほとんど辞めてしまったし。時間をいつでもきっちり、というか早めに行動できるひととは考える何かの部分がまるっきり違って、わかりあうことは出来なくて、許し合う(遅れる方に問題があることがほとんどだけれど)ことだけが共存の方法かもしれない。時間に交差点を設けることで生まれるこの「問題」は、何次元なら解消されるのかな……

2021/07/17

 ど晴れ あっつい いろいろと日々積み重ねてきた、ばらばらに過ごすことができつつやんわりとしたルールをインストールし合うための設えをがらりと、がらがらと、権力によって破壊される。「催しにご協力」なんて嫌だ!権力といっても、イベント期間なのでこうして!ああして!後で戻すんで!という感じで、今ここにいる私たちの存在が完全に無視されていることに気付いてくれない。全部が面倒になってしまって、「省エネでいきましょう!」という提案をしてみると、案外受け入れてもらえて、パワーワードごり押ししてみるもんだなと思った。相手は権力を代表してきているので、こちらはしつこさの一点突破で対応しないといけない。恣意的な決定の連続の現場にはしつこくそこに居合わせないと気付いた頃にはおかしなことになっている。もう諦めて放っておいてもいいけれど、身体ごと巻き込まれて、オのつく国際運動会のグッズが運び込まれたりしてもう嫌〜。

2021/07/16

日記も続けられないくらいに忙しいかといえばそんなことないのだけど、昨日(7/16)はわりと無理なスケジュールだったので、書かずにいままで忘れ・続けてしまった。もう仕方ないから1日ずつずれて書くというかんじにしてみよう。 アーカイブをみると、2021.6のところが(30)←というふうになっていて、6月に毎日日記を書いていたから当たり前なんだけど、日記を毎日30日間書いたら6月が完了したって感じだった。日にちを徒歩で行くような(歩いて地図を描くみたいに)。7月には最終的に、31の日記が日付付きでおさまっていなければ。いまはそんな気分。 昨日7/16は、人の手伝いをたくさんして、年長者からタメ口にてなめられ、いつもテンション低いひとが大声でうらさーんと呼んできたりしてもう祭りみたいなやつのときだけ元気になる場面に関わらないで生きていくにはどうしたらいいわけ?と思ったりする。メリハリがあるようなのが苦手だ。ずっと同じ、小さな機微に満ちている感じの場所にいたい。大きく何かが動かなくていい。花火とか、戦闘機の飛行ショーとか、でっかい人の顔の気球とか、そういうわざわざ系興行を見上げるようなものと距離とって生きていきたいな、

2021/07/15

 大雨 晴れ 傘に知らない人を招き入れる。 「瓢箪」での展覧会の搬入。公園で遊ぶみたいで楽しい。変な場所での展覧会は公園の遊具のデザイナーになる夢を叶えてくれる(いつかつくるぞ!) 電流の流れでインスタレーションを関連づける考え方が思い浮かび、人の作品のインストールで試してみたら結構いい感じ。会場にあるものを引き受けていく。

2021/07/14

 雨と晴れ 天気のない世界だったら物語という考え方や、時間の捉え方が違うんだろうな。ここからそこへ移動するという考え方。 洗濯をするのを忘れていて、ものがするアピールに気付けずに、Kが洗濯をしてるのをみて気づく。ひとが何かをすると、それを介してものの状態を知ることができる、とか言ってないで洗濯は自分で気づいてやったほうがいいね。 (学生たちに授業を作ってもらう授業のファシリテーションとか、大勢のプロジェクトとかみたいに、コレクティブに複数の人に何かしてもらいたいときには、さきに運営で枠組みを設けて転びにくいよう跳ねやすいように足場をつくり、中身に集中してもらう必要があるけど、フェアな仕組み作りは。。)・・・とかそんなことばかり考えているな毎日毎日。昨日(7/14)は特にそうだった。足場をつくり、居合わせその足場を伸ばしながらみんなで移動するみたいな方法をしばらくやっていて、もっとこれがやりたいんだけど、いったいどうやってプレゼンしたらいいんだろう。というかこの仕事はなんて名前の仕事なんだろう。とにかく足場をつくる仕事は今後も続けたいな。 この間Oにどういう流れで今こんな感じで活動しているのかというようなことを聞かれてあまり答えられなかったけど、ここで答え直すならば、大学出たばかりの頃、なんか妙に格好つけたっていうか権力者っぽいっていうか椹木さんっぽいタイトル(「地域とアート・イデオロギー」とか)をつけトークイベントと銘打った、友人宅で酒飲んであーだこーだいう感じの回を何度となく行って遊んでいて、結局そういう小さく喋る場をいっぱい持つことと、いろんな場所に行くことなんじゃないか。作品力と作家力は違うと千葉さんが昔言っていたが、これは作家力の話。最近は、そういう若者ムーブもしなくなり、気の合う友達と散歩とか犬古表とか電音活動とかするのが遊び。年下の人たちの若者ムーブに絶妙なタイミングでゲストとして呼ばれたりする。その時の勤めは司会のアシストだなといつも思う。。そういうことをやってきた人で集まって遊んでみたい。作品制作の中盤で訪れる、いかに自分自身を作品に配置するかによって作品の質が大きく変化するのを考える過程が楽しい(分裂している大きな身体の血管)。

2021/07/13

 大雨と晴れ。風呂場にちいさなバッタみたいな虫がいて、調べたらミドリヒメヨコバイというらしく、ヒョと跳ねたりして危ないのでコップで捕まえる。体の毛を剃り、手で化粧水をからだに塗る。からだが広い。 大雨で外が水浸しになり、施設管理のひとが葉を避けて水捌けのコントロールをしていた。大雨はおもしろい。何もしなくていいという感じがする。大きな音。閉じ込められたような気持ち。糸のような白い線となった雨粒。景色が大きい。山の向こうのほうまで全部に雨が降っている。なんとなくリチャードセラのようなかんじ。 もう今日はクジラから頭が離れなくて、ホエールウォッチングのこと調べると高知で見れそう。いけるかな?クジラの心臓がどんなふうに動いているのか知りたい、ちょうど通り抜けられそうな太さの大動脈(どこかに標本がある。めちゃみたい)。生きているクジラをみたい。みたことがない。みたことがある人の話を聞きたい。どんな感じなんだろう?部分しか見たことないだろうけど。しっぽとか。しっぽてなに??? 小山さんが箱に身体を向かわせる話をしてくれて(もっと聞きたいが、)すごそう。マッピングして動いていく。見たい。見たいものばかりだ。(眞島さんの個展もめっちゃみたいとここのところ毎日思っている)クジラをからだにマッピング試みたとして、みたこともないクジラの身体を想像できるんだろうか。大きさだけを短く置き直す。ほんの1mでもできるか?(どこの1mだ?)その身体のまま、ミドリヒメヨコバイを捕まえて、風呂に入り、毛を剃ったらどんなふうだろう。化粧水をぬったら。クジラになって寝ることができたら、クジラとして夢がみれるだろうか。

2021/07/12

 曇り、雨 雨粒が大きい 「 シーソーゲーム 〜勇敢な恋の歌〜」がずっと頭から離れない。ミスチルのひとの歌い方って抑揚を細かく入れていて「こぶし」がきいてるどころじゃない。そういえばB'zとかつんく♂とかけっこうみんなそういう感じだ。シャギーいれた髪の毛。アンニュイさを出すような歌い方。若さみたいな感じもする。不安定さ。曲の運びの高低が激しいとか。こういう曲をみんなが聴いているなんてちょっとどうかしてる。カラオケでひとが歌うのを聴くという体験。カラオケは歌いに行くところ(なんつう娯楽だ)だけど、歌いに行ったら人が歌っているのが観れるというのは案外(?)わたしには思いつけないアイデアかもしれない。歌う時間と空間を売るなんてすごい。

2021/07/11

 晴れ たまにめっちゃ雨 天気雨。天気雨は空から水が降っているという感じがする。雨という天気として観測するのではなく。メロンを食べた。明日ももう半分あるし、あたらしい別のメロンがまだ机の上に控えているからしばらくはメロンが続く。メロンに心さらわれる。胡蝶蘭が死にそうでつらい。やらないといけないことを前にするとどうしてもルミネ行ったりゾゾタウンを見たりと雑多なものに身を浸して逃げたくなってしまう(そして実際に逃げてしまう)。中学の時オフィスに並べられたしょぼい机としょぼいベンチで黙々と過去問を解きまくる塾に通っていた。他の生徒達は向上心があり、何より先生が怖くて(みんないい先生だと慕っていたが、いい成績だと何故か1000円くらいのご褒美があるのが本当に怖かった)、どう考えても精神衛生的に良くなかったのだけど、結局そういうふうにせっつかれやるしかない状況になった方がわたしはタスクを進められる。でもそうしない、早死にしそう。好きでやるには時間が足りなさすぎる。アーティストは仕事の意識がないと続けにくいのかもしれない。手を止めているのは仕事の部分だ。まじでやばい。 なーんかもうコロナだからコラボしましたみたいなのももう嫌だな〜。というかコロナを理由にしたいろんなことが嫌だ。全部別の理由があってほしい。タイミング誰とでも内輪ノリみたいな感じになってしまうこの共通の話題。気味が悪い。いろんなことの変化する原因が、全部同じなのが本当に嫌だ。タイミングスペシフィック・・・

2021/07/10

 晴れ 雷 どんなに暑くても、頭まで布団をかぶって寝てしまう。汗だくで息止まりそうになりながら起きる。 ルポールのドラァグレースのシーズン1を見終え、総集編でクイーンたちが参考にしている年代や映画やカルチャーが紹介される。アーティストたちのそんなインタビューがあれば見てみたい。 それにしても、週休2日じゃ全然足りない。数え方を変えたらいいのだろうか。私の時間はほとんど日記を書くための時間くらいしかない。完全に好きで勝手にやってることは、他人との協働のなかでクリエイティビティを突っつきあうようにして(それも好きでやってるんだけど)でない、ほんとにいつやめてもいいけどやってることは日記くらいだ。生活を見直さないとな。

2021/07/09

 雨 ベタベタになった Red Stockingの編集会議。今回の編集は私がやることになっているが、それはあくまで作業と最終的なビジュアルの判断を任されているという意味であって、表紙や紙面の流れはみんなで相談しながら決める。今回の自分の原稿はイラレの技術が少し進歩したような感じがしてうれしい。 服服交換で誰かが中学の時に着ていたらしい「男子が母に買ってもらった」っぽい品のいいシャツを貰い、着て過ごした。髪型と相まって女ともまたクィアぽくもなく、レズビアンぽくもなく、若者ぽくなく年長者ぽくないように思える。小学生のころ男の子が急にめっちゃ背が伸びて「誰?」となるかんじを思い出す。背が伸びるのは夏休みで、ミニトマトの成長と重ね合わさって「(ぐーん)」という印象がついてくる。 表現することに消極的で(それでも表象がついてまわる)、受動的に生き自分が存在することに驚くような。そもそも生まれるということは受動にはじまるもので、生きることは能動ではない(興味あるところを語る時、これ中動態のケースではとおもうときがよくある)。自死だけが自分の生にたいして能動性を試せる手段なのだろうか、というところから始まる作品が「おどる墓石」でもある。自分に対して誰でもなさを感じることができるのは自身だけだ。最近はそんなアイデンティティクライシス的なものが面白くて、それを積極的に引き起こすために動いているような気がする。居ながらにして居ないひとになりたい。でも消して群衆に消えたいってことではない。相対的にではなくて、絶対的に「居ない」が欲しい。幽霊的な存在の逆位置を取りたい。

2021/07/08

 雨 雨に腕を濡らしながら帰ってきた。幸福。あの幸福さを文章の中につかまえておけたらいいのに。やわらかくて、腕を濡らすのがとても気持ちがいい雨だった。帽子をかぶっていたから頭が濡れなかったし、日除けのツバで顔も濡れない。頭と顔は違う。頭は四角いし顔は崖みたいに切り立っている。目と鼻先との正三角形になるくらいの位置にある部分で物を見ている(私自身は基本的にそのあたりにいるような気がする)。腕が濡れて気持ちがいいとは、草に水をあげたときと同じように外にあるような感じで、私がそれを見て共鳴しているというほうがあっている気がする。気持ちいいことは共有する必要が全く感じられない。痛覚を通したものではない気持ちよさ。しかし足元が濡れる心地悪さは私の範疇にあるように思える。理由のあることだからかもしれない。服が濡れるとか共感できるようなこと。身に起こる「非―快」の現れにあわせて私なるものが部分的に発生している。私なるものが介在しない時の方が生に没頭できているということなのだろうか。生は快も不快も指さない。私という存在に向かうことは、生という現象から離れていくことのように思う。aliveではない(生とは死を対置している言葉を意味していない)。いまのところはもう魂としか言えないかも。  ファシリテーションのような複数人を扱うということは、水面に石を投げてどんな模様ができるかみたいな感じでありつつ模様を作るみたいなものであって、その石の投げ込みかたを試していくことがファシリテーションなんじゃないかと思う。集まりがどんなものかということは模様よりもむしろその石の投げ込み方に表れていて、ひとびとの集まりと模様の布置は石の投げ手によってではなくひとびとの集まりによって決まる(この石の投げ方を試すたびに私なるものが呼び出されているように思えて仕方ない)。私なるものの発生という点において、身に起きた非―快と結びつけるのならば、ファシリテーションはケアであり、何かの世話をするということで身体を拡張しているようでもある。わたしにとって他者を巻き込み参加させてまで自分だけでなく複数人で身体のことを考えて実験する参加型作品をつくるということはつまり、こういうことなのかもしれない。

2021/07/07

 晴れ 無風 湿気 ベタベタ 昨日の日記さ…「うっせぇわ」みたいになってるよね………寝そうになりながら書いて読み返さずに昼に慌ててアップしたから心の中のあのひとが個人主義無関心を撒き散らしてしまった……つらい。今日の日記は個人主義無関心的なことを書こうと思ったのに自分がそのミスをおかしてしもたな…あかんあかん。 さて今日の日記。 ジェンダーに関する話をして、(7/17発行のRed Stockingにも書こうとしてることだけれど、)アイデンティティとセクシャリティの変化についてをやんわりと話してみた。個人的なもやもやの導入から、そのもやもやと線引きできないというところから、共感ではないあり方でジェンダーのことを話すのを期待していたのに、その導入はスッと抜けてしまって、個人主義的な語られ方による装いの話や、あるある話みたいなもの、さらには友人関係の話になってしまって、つまりは緊張感の無い雰囲気をもう止められないくらいに、ていうかや、それはさ、と止めても「まあそれはそれとして→てか私は→わかるー→それなーetc」という感じで共感と速度感のある個別のはなしの流れを全く止められなくなってしまって、たいへん反省。もうこういうことは起こらないようにしようと思った。イベントって感じでは無い休み時間のおしゃべりだったけど、わたしはおしゃべりには案外興味はなく、砕けた話し方の議論がしたい。 ささやしせずとして明日は生きてみよう。

2021/07/06

 曇り時々雨 この天気を言う時の言い方(曇りのち晴れ、雨時々曇りetc)をするとき、大正くらいの人に口が乗っ取られているような感じがするな。 元気よく書かれた日記をよんだ。日記をやってる人があると聞くと覗きに行ってしまう。でも書かれているのは、日記ではないような感じがするものだった。タイトルがついていたり、SNSベースだったり、なにより読んでいて色気付いてるのうな読ませようとしているようなテキストは日記ではないような気がする。だから何だというわけでもない。

2021/07/05

曇り時々雨 古着を集めて交換するフリマみたいなイベント、服服交換の初日。ワークショップスペースでリメイクもできる。ベロアのような生地のシャツとワイドパンツの袖と裾を交換して縫い合わせてみたら結構いい感じだ。「モードなくまさん(忍者)」というか。昨日の日記ではわたしには服を作るスキルが無いのだと書いたけど、案外あるかも知れない。 展覧会に誘われる。企画書は正直あまりピンとくるものではなかったんだけど、まあでも書き方の問題であって「わたしならこうはしない」とはもちろん思うのだけど、それが悪い方へ行ってるようなものではないからいいかな。でも最終的に受け入れがたい展覧会のテキストが出てきたら、それは無理かも。フェチは作品とか態度で表現するもので、企画書は企画書として書いたほうがいいのではとやっぱ思う。企画書で全部説明したつもりになっちゃいそう。ここに書いてあるように、といいつつ書いてあることがアイデアだけならば、それは概要が書けていないということなんじゃないのかと遠回しに伝えたつもりだが、つたわってるんだろうか。

2021/07/04

 小雨 今日は東京都議選だったらしく、わたしは神奈川に住まいし者なのでみんながvoteなinstagramなどを更新するのをチラ見しつつ新宿の本屋「i.r.a」へ。バトラーの新しい本『問題=物質となる身体』、五所純子『薬を食う女たち』、the feminist press発行の革命と抵抗の歴史のポスタープロジェクトの本『 celebrate people’s history』を買う。他にもポロポロとzineとかバッヂとかを爆買い。面白い本屋へ行くとどうしても「大人なのでOK」という気になって、(自身が低所得者層真っ只中なのに、)いいものを作っている人に直接行き渡りそうな場所で爆買いしてミクロな経済を回すべしという使命感のようなものに突っつかれついつい買いまくってしまうが、後で欲しくなった時自分で作れないものはすぐ買った方がいい。服は手に入れることができなくても自分でほしい形のものをこしらえれば良い、と技術もないのにそんなことを思っている。形への興味は刻々と移り変わっていくものだし。見て触っていれば気の済むところまではできるというだけのDIYだけれど(yourselfって誰視点なんだろ、英語には単語の段階から変な視点が入っていることがある)  Anna Poletti『intimate ephemera』に、ベンヤミンの短いエッセイ『Experience』からの引用で「Young people are lauded,and hated,for their lack of experience, that they are denied any serious political or cultural respect because experience is seen (by the dominant,adult culture) as the necessary condition for such respect.(若者はあらゆる真剣な政治的、文化的側面において、支配的な大人たちの文化から拒絶されており、経験不足を理由に「新参者」として褒めそやされたり、また「素人」であることを理由に尊敬されなかったりする。(私訳))」とあり、や、まじそう(ていうか21歳のベンヤミンキレ散らかしてて最高…)と思ったりするけれど、学生がやることに対してそれやるならこれも見るといいか

2021/07/03

 晴れ 平塚の川が氾濫しているというニュースを朝起きてすぐ目にする。テクノロード。平塚らHやNの実家があるのでぼんやりと心配だ。七夕祭りの大きな花火大会があり、高校生の頃年に一度は連れ立って行った。道路の両脇に商店街のある京都駅のまわりに似ている駅の周辺。新潟に行った時に平塚みたいだなと思い、岡山に行った時に名古屋みたいだと、しかし名古屋に行った時は高円寺と横浜と藤沢のハイブリッドだと思った。平塚は京都みたいだ。京都に行った時には、意外と普通だなーと思った。 久しぶりにドトールへ。お腹が空きすぎて判断力と手元がおぼつかない。コーヒーを頼んでお金を払うというだけの簡単な作業が全くできなくなってしまって、オーダー途中にもう諦めて帰りたいよという気持ちになる。後ろに何人か待たせている(もうだめだ)。なんとかオーダーしてテラス席に座るも、タバコを持ってくるのを忘れて泣きそうになり、今日はずっとこんな感じなのかもしれないと恐怖する。こういう状態になってしまうことは稀なので本当に慌てたし、その慌てが身体全部飲み込んで全てを崩してゆくようだった。熱海がめちゃくちゃになっているニュース。土砂崩れの映像。津波のことが頭をやはりどうしてもよぎって、頭がじっとする。これがトラウマってものなのかと水害の映像を見るたびにまざまざと実感する。遅れて幸田文の『崩れ』を思いだすが、水害の映像が怖いというかなんというか、とにかく頭をじっとさせるので、もうなんだか仕方なくなってしまって、座っていられなく、タバコを買いに行き少し歩いて気を落ち着かせてからまたドトールに入り直すことにした。カフェで落ち着かなく歩いて気を落ち着かせてまた同じカフェに行くなんて初めてやった。近所に川があり歩いて向かう(氾濫が怖いので早く引っ越さないとなんだけど、山も地層もあって散歩が最高に捗るから引越すのはさびしいなー。RAUに出す映像は地層のところで撮ることにしよう、明日は朝起きて地層を撮りに行こうかな…)。歩いていると気が紛れた先のことを考えられるだけの勘が帰ってくる。 提出先が自分の原稿を少しだけ進める。もう提出期限は超えているのだけど、全体の調整をしながら足りない要素を作るような感じで取り組んだ方がうまく行くだろう。今日はほんとうは高円寺に行く予定だったんだけど、同行者が濃厚接触者になってしまったのでゆっくりしていたの

2021/07/02

 大雨 流石に梅雨  イケガミちゃんにモードメイクを施してもらった。寝転んで一人で泣いた涙の跡のような、真っ直ぐの水色の水平線が目尻に引かれたメイク。顔のことを色々教えてくれる。頰の稜線が――ジョジョでここになぜ真っ直ぐのたて線が?という線が顔に引かれていることがあるが、これは光によって現れる頰の稜線を線表現で処理したものだ――くっきりと現れている。シェーディングで顔の側面を「倒し」て、ハイライターで眼球周りの窪みの下の部分から小鼻の横あたりの三角の面に光を入れてその差で顔を起こす。グラフィックデザインの効果を拡声器に例えたミニレクチャーをイケガミちゃんに帰りの電車でしてもらったことがあるが、メイクの考え方も拡声器のようなものなのだなと思ったりした。「この」顔を「その」顔に変容させるような、ありありとさせる技術と活用、その思考法。

2021/07/01

 大雨  電車で新作のプランドローイングを無理やり描くために日記の中から手掛かりになりそうなテキストを抜き出して写真と配置する。毎日やってることがあると、それを並び替えるだけで新作のガイドが引ける。すごい。  また人に日記に書いたことと同じ内容を話すときがたまにあり、そのたび妙な心地でこれは日記にも書いたことなんだけどとごにょごにょ言いながら書いていないことを自分の口から出すぞとピッチを上げるようにしてディテールをつけながら、日記をアレンジするようなかんじで喋ったりする。卒制で賞をもらって大学の美術館で展覧会とパフォーマンスの機会を得たとき、卒制をそのままやるのは当時難しく感じていたのと参加型の作品だったりギャラリー運営の過程などを含めた作品であったことから自分だけが選ばれるというのはおかしい気がして、広報物のアーカイブを展示し、3ヶ月間の日記についてをはなすパフォーマンスをしたのだった(「アイデアはいいが長すぎるからニコ生でやったら」的なツイートが知らない人によってされていた)。日記はアーカイブという感じではない。たまに読み返すし。話が途中のままにおわったあとにはその話を整理するのを日記の中でやったりもする。昨日なんかはそうだった。  朝の電車でプランドローイングをつくったのはもしかしたら初めてだったかも。写真を撮ったりテキストを書いたりは良くしているけど。意外と短い時間で作れるものだなと思った。これからもやってみようかな。朝はドローイングで夜は日記。日記みたいにフッテージとしてつかえたりするのだろう。アーティストたちは、毎日一体何をしているんだろう。みんな日記書いねほしー。

2021/06/30

 小雨 寒い 存在がパーツにわけれるか/身体をパーツにわけるかどうか/存在や身体を千切るとき、存在は(あるいは魂は)どこにあるのか。 知覚できないところも身体かどうか(身体なら他者が触れば知覚が起きる)/認識していない要素もアイデンティティなのかどうか/(現前しないものも含めて、)一枚のアイデンティティとするか否か、アイデンティティはパーツだとするか/取り出して語れるもの。語れないものはアイデンティティじゃないのか→それが他者から指し示された場面で、たしかに自身であると自身の認識が及べばアイデンティティであるのか。その深くにインストールされている振り付けをアイデンティティと言うのはあまりに生きることとアイデンティティを同一視しすぎではないか。アイデンティティが見出せなくて困ってるひとが生きていられるということは、アイデンティティはなくてもいいものだからだということなんじゃないか。なくても生きていけるが、無いといけないような「何者かであらねばならぬ」という刷り込みがあるということなんじゃないのか。アイデンティティは基本的に外からやってきて、「わたしらしさ」の存在を求めてくるような押し付けがましいものだと感じる。社会や他者がなければ必要のないことであるように思う。 またアイデンティティ複数あることが認められないのであればわたしは生きていられないし、「さまざまな要素があれど、あなたはあなた」だとしても、「わたしの中のさまざまなわたし」が存在する主語の違いによる指し示す対象への向かい方とその深度がまたその中でも違和感があることを受け入れろというのは酷なことであって、(ボディポジティブに賛同できないのはそういうところだが)違和感を感じることが必ずしも悪しきことというふうにもわたしは思えない。ありのままを引き受けて、「この存在が〈わたし〉という現象なのだ」いうことはあまりにも現実に起きている違和感と乖離しているように思えて、たとえば〈わたし〉が〈わたし〉を嫌うことを拒まれるようであったり、たとえば太っていることを指して他者からなんと言われようがポジティブでもニュートラルでもなにかしら受け入れ喜ぶという意見に理念としては賛同しみんながそうなれたらたしかにいいよねーと思いつつも、他人事の域を出ることができないのは、マインドセットによって変化できるようなものでもなく、それが取り替え不