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5月, 2016の投稿を表示しています

展示のタイトルに関して

PARTYという響きの軽さが嬉しい。いくつか意味があることばに化けて、その意味との距離が少し離れるのが心地よかった。 手の届く範囲よりも外側になにかを求めている。会話に詰まり、ドトールの喫煙席をぐるり見渡すと窓の向こうに地上30メートルで孤高に光るボーリングのピンが見えた。よく見ればニ本だったのだが、どちらもまあ変わらないことなのかもしれない。建物の上で目下の人々には見えずに、どこか遠くの何かに向けてここにボーリングあり、とサインを送る。わたしはそのサインのやり取りの外にいるように感じたが、そこにボーリングあり、とたしかにわたしも認識していた。

好意

「うらさんのことだいすきです」と年下の女の子がさらりといってきた。これが喜びなのかと、ことばを身体で感じる。ああ嬉しい。嬉しいと伝えるには嬉しいと発音するしかないのだろうか。言葉は遅い。 さらりとした「好き」という言葉の響きは興味深い。 「好き」ということばには、 自分から発する鋭さや重さのある、伝えるための「好き」と、暑いとか眠いとかみたいなのと同じような「好き」があって、わたしが使う「好き」は大抵の場合後者だ。 人に対して使う「 好き」ということばに悩みや欲求の混じったような情熱がそう乗らず、黄色とか入江とかが「好き」なのとおんなじ「好き」の発音をしている。昔からそうで、それでも昔はちょっとそれらしく「好き…」とか言っていたけれど、最近は発音と意味に詰まって、丘の上で両手を広げて一緒にぽけーっとしたい ですね 、とか言っている。 喋ったり触ったりしないでいいという気持ちを込めて言うのだ。これが好意でなくて、なんであるか。しかしなぜか「好き」ということばにはその気持ちを込められないのだ。二文字では短すぎるのだろうか。「好き」ということばの持つ質量がうまくつかめない。 年下の女の子の使った「好き」は、黄色や入江に使う「好き」と同じであった。恋愛感情のない「好き」ということばは、なんて気持ちいいんだろう。

両手放しのチャリで飛んだ日

このブログのタイトル「両手放しのチャリで飛ぶ」とは高校生のころに両手放しをしたがための自転車事故で吹っ飛んだときにみた鮮明なスローモーションの景色と言語体験から持ってきている。そのとき私はそれ以前のことと、それ以降のこと、つまり"今"の外のことを考えていた。 舌の奥で音にならずに消えることばがある。あれは夜に見る夢に似ている。思い出そうとすると感情や記憶が混線して曖昧に滲み、時として突然、普段の考え事とは別の回路で、思考はボーッとして止まっているのにそれがさらさらとことばになって口からこぼれてくるのだ。 咽頭に溜まって腐った言葉と、往来へばら撒くまんなかをずらすための言葉の、両方が交わる「形式的なフィクション」へ逃げ込む。閉じた別々の個体をつなぐカテーテルだ。 一緒に寝てもおなじ夢を見ることはできない。