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夜のアイディア

[夜のアイディア] 中学生の頃に吸った、寒い田舎の夜をずっと覚えている。あの子もそうだろうか。静かで、ありえないくらい星が散らかっている。わたしは目が良すぎるくらい良くて、あの子はどうだったかな。あの背の低い男の子は。私たちは(おそらく、)好き合っていた。好きとかもよく分からなかったような気がするけれど、あれは、わたしが覚えている美しい時間のうちのひとつだ。色々な人の話だと、中学生の男の子は好きな女の子と一緒にいる時には他のことを考えられないようなことを言っているし、もしかしたらあの感じを覚えているのはわたしだけかも知れない。わたしはあの夜、 ポケットに入れたまま洗濯をしてしまってくちゃくちゃに丸まった紙みたいにどうしようもない気持ちだった。 若いわたしにとって、夜はいつだって特別だった。秘密にあふれていた。静かだったし音楽が流れていた。親や弟たちが眠った後、ストーブを消したり電気を消したりして、ひとつひとつ音を減らしながら寝床へ着く。一番最後に寝るのは、唯一の大人っ ぽい嗜みだった。ひとりきりの時間を愛でていた。人といるときはいつも子どもだ。静かな時間にだけ大人、と思っていた。大人っぽいというのは大人へのよく分からない憧れではなく、「ひと」である時間を持つことだった。子どもはいつも子どもじゃない。集中した美しい時間の中にいるとき、ひとになるのだ。ひとりきりでいない時にはなんてことない子どもで、そうでない部分は潜んでいる。 眠る時だけは自分が動物や植物みたいな別の存在と重なっている部分を思うことができる。その他の時間は面倒なことが多すぎる。眠る瞬間だけ同じだ。だれかが眠りにつく瞬間を想像すると、よく眠れそうなので、あなたもいつかの夜に誰かが眠りに落ちる瞬間を想像しながら眠ってください。 一つずつ音を消して、静かに、表情や手足の力をスイッチを切るように一つずつ抜いて、だれかが眠る瞬間を想像しながら眠りに落ちるその瞬間は、あのくちゃくちゃに丸まった紙みたいにどうしようもない、美しい時間を人から借りるようなことかも知れない。 そういう本を作るのはどうだろう。たくさんは作らなくていいから、手軽な本を作りたい。

散らかしのメソッド(for ongoing collective diary)

綺麗な部屋を散らかすためには、紙、もしくは衣類を置けるところに置いていくことだ。ゴミは見つけ次第そのままにすることを心がけなさい。手に取ったのなら、あなたはそれをゴミ箱へ入れなくてはならないのだから。 大切なものは大切ではない紙の上に、どうでもいいものを中途半端に開いて、できるだけ無駄なスペースを作るように絶妙な角度で机の半分を割いて積み重ねなさい。そして少しずつ、もう机の領土の全てを侵すことを心掛けなさい。家を建てるようにゴミを重ねなさい。脚となるゴミ、天板となるゴミ。ものはゴミを経て素材となり、第二の役割を与えられる紙を想像しなさい。届いた手紙やチラシ。領収書の類。 今日買った本も例に漏れず紙である。つまり、積み重ね対象なのだ。ただ、ゴミとは別で、どこにでも置いていいというわけではない。この部屋は、他者から見れば混沌としているが、あなたにはそれぞれの紙の保つ役割が違うことがわかっているはずだ。本を手に入れたらまず数ページ読んで、先週買った本の上に置く。それが散らかしの所作というものだ。その下には先々週の本。先月の本。本本本本。タイトルが目に入ることが大事なのだ。面白い本が手元にあることで勇気が湧いてくる。本を持つ喜びとは、読む可能性を持っていることだ。本を読むことと本を持つことは同じことではない。 大きい本は、反らないようにハードカバーの本の積み重なりの高さを揃えてその上に置くことを心がけなさい。家を建てるように。 お気付きか。この部屋で、本の栞に困ることはないことに。そこへ転がっているインドカレー屋の割引券を半分に折って挟むといい。私はよくそれをする。 あの白い紙の下に何があるんだろう、と思ってめくっても、水道料金のお知らせとインドカレー屋のB6のチラシしかないのだから心配はいらない。倒れないように注意して、コップを置いてみるといい。紙束が机を水滴から守ってくれる。 この部屋を片付けるよりも引越しをする方が楽なのではないか。そう思うことも少なくない。ただゴミを捨てればいいのはわかるのだけど。それに、ゴミは意外とそんなにないこともわかってる。友達から「エクストリーム」と評されたこともある私たちの作業部屋。 9月には大きな荷物と作品がこの部屋に運び込まれる。展示が3つ始まっているだろう。火を放ちたい。緑色の顔をしたジム・キャリーがやって

時間を爪弾くことができたらいいのに ( for ongoing collective diary)

時間を爪弾くことができたらいいのに この人と会うのは、これが最後じゃないという感じがちゃんとする。外国で友人ができるとそう思う。だからこそ、なんとかさよならできる。(また会おう!でも、 Instagram であなたが山を登ったりイカを釣ったり服を作ったりした写真を見ることができるなら一生会えなくてもいいような気もする。)とにかくお元気でね。 赤ちゃんは、後でとか明日とかがあるってことを知らないから、全部のことが最後みたいに感じているらしい。(そして赤ちゃんが明日を獲得すると、約束を交わしあう言語的、社会的な存在に変身する。) 赤ちゃんじゃないけどそういう感じ方をしているらしい友人がいて、カレンダーや新幹線が苦手な彼は、どんな風に時間や場所を捉えていたんだろうな。 わたしは遅刻癖がある。なんでかわからないけど、飛行機にすら乗り遅れてしまう。もーやだ。約束事が近づくと、楽しみにしていたことでも途端に崖っぷちみたいな気持ちになってしまう。間に合わないといけない、と思って、緊張してしまう。ていうか、これを書いてる今も遅刻してる。さらに、加筆している今すらも。 走る新幹線の掴まれるところを見つけて、なんとかつかまってるけど振り落とされそう〜でも捕まってるうちは安心、みたいな感じがする。 短い時間のことを考えるとほんとーに息がつまる!ほんとうに、遅刻ばかりしてすみません。わざとじゃないんだよ。。 明日に頼りきって時間を引き延ばして生きている感じも持っている。今のこの時間は今なんかではなく、昨日と 10 年前で構成されている。ずっと追いつけずに、昔の日記をまだ思い出しながらたまに手を入れたりしてる。そんなの日記ではないだろ!しかし楽しい。(続く) …… 練りゴムを伸ばすと、朧な感じの細かいゴムがふんわりと机に静かにほろほろと並んだり、一本に細長く粘りを持って伸びて柔らかく細くなった臨界点が自重に耐えきれずに横たわったり、バチンと一瞬強いねばりの「薄い間」をつくりそこから力強く千切れて「薄い間」はそれぞれの切れ口に律儀に丸まる、とか、まあこんな風にちぎれたりするんじゃないかな、とにかく、私の言葉で書き起こしてみるとそうだな。 これを例に、引き延ばされている時間の姿を想像する。例えば、この延び延びの時間の 3 つのイメージを分割したり、リニ