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しらないひととしらないひとのまましりあいになる

‪ぬるっと既存の箱に寄生するために: ・お茶、コーヒー ・すごーい長いベンチ … なかったところに名前がつくまでいること。一度きりだと警戒されるがずっといると顔見知りになったりする。そして愛着のようなものがうまれたりもする。 骨だけ作って導線を描くことができれば、肉がつき、泡のような?膜のような?可変的な境界、はたまた目や口や耳が現れる実感がある。線を引いて、ボールを転がしておく。サッカーは何人でも出来るからいいね。森のような建築がどうとか言ったのは、藤本壮介だったか。あー、壁よりも屋根よりもピロティかも。室内のいくつかの部屋の下に空いている空間を設ける的な。今日のミーティングでコルビジェの話が出てよかった。パリの自宅が透明だ、という話。そういえば武蔵美の図書館はパンチラ建築です。内であり外である、なんて、は〜。デザインて難しいんだなあ、箱物増やすのやめたいね、公園をうまく使おう。 漂泊?: クラウドサービス、ノマドワーカー、雲(なりたち)、寄生、占拠、貸し借り(なにかが移動しあっている状態) 戦法の選択肢: ゲリラ的に行う(すぐに逃げれる)、交渉して認可される、グレーゾーンをキワまで攻めて名称を得る(実行してから契約を結ぶ) ‪仮設/場所を動かすイメージ: 2013-2015年あたり。タイヤをつけるとか、紐でくくってみるとか、看板をつけてみるとか、弱い結界みたいなものを張ってみたけれど実はそこまでうまく回らなくてそれでもたまに知らないひとがはいってきたりした。こんどはもっともっと見えないデザインを与えてみたい。音とか背を向けるとか温度とか話し方とか。 T大学の中にZ大学をつくる(隙間にすわりこむ): トビ地を作るデザインはそこで行われることがコンテンツになるわけだから、まずはひとが集まったほうがいい。今ならストーブがいいかなあ。やってる風に見えるというのは(校章ボムるとか、旗を立てるとか)は素直すぎるかもしれない、しかしキャッチーであることは短い時間の中での実験として取り入れてみてもいい。/シンプルな問いから思考し立ち上げる起点のようなものをやってみるほうが、次につながるし学びとして濃い印象があるかも、大学一、二年生ならともかく四年生や大学院生が行うわけだから、あ、でもだからこそやっちゃえるのかもしれない。どうかなー。

今元気だからスパークリングメモ

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一人称視点と複数の身体だ。そとからもうちからも全て見通せない/把握したコースを脳内で操作する。プレーヤーのエンゲージメントの制限が強い。リージュの選手のVR、また操作の視点の持ち方。捉えきれない自分の身体の乗りこなし、俯瞰と内在化、認識のスイッチの切り替え すごくざっくりと、でもだれかに教えるのが嫌だなと思うくらいボブスレーに魅了されている。 わたしはボブスレーに出会うために美術を始めたのかもしれないと思っちゃうくらい。 ボブスレーが面白すぎて、美術作品が霞む。というよりも、ボブスレーを論じるほうが美術的だよなあ。 彼氏の影響で教えあうことに興味があるんだけど(過去の記事、「公開し合ってみたい」もそういえばそうですね)、なかなか作品未満の興味の部分を教えあうのってこの面白さを盗まれやしないだろうかとヒヤヒヤしてしまうよ、わたはいまだに。しかしながら、シンクタンク的アプローチ、著作権死後50年、自分の財産。何も持たなくてもいいと思うことや、防災のリュックにクレヨンを入れておく選択。好きな人たちに持ち物をあげちゃいたくなる衝動、本を読み切るのが苦手であること、、、。 いつ使えるかわからないからとりあえずここへ書き記しておいて、いつか作品ができたら構想はこの時から始めたんだと思ってください。

2017/11/8

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いろいろ無駄なことをした方が気が楽で、音読をしたり、しょーもない読み物を読んだり髪型を変えようと考えたりとか、ゲームしてみたりとかして、思考を止めている。考え事をする気に全くならない。そうやってぐずぐずしていたいけど、次のパフォーマンスがほんとうに数日後へ迫ってきているから考えないではいられない。とうとう詰めて考えることにしようと思い考え始めると、友達のことと接続してしまって、彼のことを考えているのか作品のことを考えているのかよくわからなくなってくる。うまくバランスをつけて、そしてあらわすことができたらきっといいんだけど、どうにもバランスをとるのが難しい。 田村さんのグローリアをみて、少し回復したような感じがしていたのに。また無駄なことをして熱の冷めるのをじっと待ってしまう。そんな状態にもういたたまれなくなってしまったから、こうして文章をぽちぽち打っている。 少し前に親しい友人が亡くなって、葬式で彼の顔を見れると思ったら紙粘土だった。さまざまな道具が少し怖い。でも、楽しいことは相変わらず楽しいから大切にしたい。 なにかを否定したり、なにかに抗う形で作ってきたけれど、そういうのもなんとなくもういいかなという気持ちになっている。 ナイーブな作品だ、と呆れられるかもしれないね。でも、そういうふうにこき下ろされたりすることも、もうなんだかどうでもいいや。 

おそらく具体的なのだろう

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薄く平たい一枚の岩の東側が欠けた。一枚の岩と思えたそれは、青や、黄色や茶色の岩が重なってできたミルフィーユのような、陸の端、海との境、柔らかな泥になろうとしている砕けやすい、岸辺、空き地、或いは閉じられた本の小口に過ぎないものだった。 あの日私と彼らは背と背を合わせて手をだらりと落として歩き、座り、寝転び、それをおどりと呼んであれはもう四年も前のことだ。 毛糸の、端を、鋏で切るように、もういいか、などと、想像すればおかしくて、なぜか笑いそうになる。前に何かで読んだり見たりしたようなふうだとは到底思えないから、わたしはそう思ったんだけど、それで、どうかんじたの、と、言えたらどんなにいいだろう。 それでも、彼は毛糸はおろか布もほとんど切らないで服を仕立てていた。わたしはね、裁縫をするたびに糸を針の穴へ通すとき、あなたたちとおどったときの背中や割ってしまった電球と暗くなった青い床の部屋、右腕を耳の後ろの方へ伸ばしてはじめてみた目の内側を、鮮烈に思い出すんだよ。 何かを選ぶ基準が変わっていくようだった。わたしは小さな動物で、だから鼓動が早いんだと思う。色々なものが通り抜けていってその度に彫刻されている。例えるとしたら筒のような感覚だとわたしが言うと続くようにして、ああ、そうだ、筒だね、透明で、筒だ、と言いました。 ススキはじっとしていた。弱い風に吹かれ、気にならない程度に肌寒い。空気は置かれた石のように暗く、団地の光は緑色だった。 時間 耳の奥に入り込んだ海水が鼻へ抜けるのに似ている気がする。ぬるくなった黒いお茶を少し口に含むと、なんて柔らかい液体だろう。気持ちが悪かった。喉の暗いところへ落ちていって、音も香りもやわらかさも忘れてしまった。とはいえ、気持ち悪さややわらかさを雑な文章にしてこうして記述することで喉の奥へ再び呼び戻すことができることは確かだ。今は、またすっかり冷めてしまったコーヒーを飲んでいる。 眠ろう。身体を布団へ落とそう。腹をへこませばわたしは匙のようだろう。へそが窪んでいることなどなかったことのようだった。そんなことをしたからか、今朝からお腹の調子が悪いよ。 あるひとは、いけないことだといったけど、わたしはそうあって欲しくないだけだと思う。制度とは無関係な懇願だ。その方が聞き入れてくれそうだから、そういう言葉を使ったのかもしれない。 裸足で踏んだ砂利の痛さ

幻の絵と建築

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・腕、髪、目、いつまでも水を吸い込む海で拾ってきた石みたいな色をしていたんだね。薄く開かれた指を縁取る線が太く黒くて、そこに突如現れた色面が本当に美しい灰色だから、絵の中に指が出てきてよかったなーと、わたしは思ったよ。しかし、これは 見たことがない絵の話です。ちょっとピカソみたいなかんじもする。 ・テニスコートのような家がよく夢に出てくる。窓の形が個性的で、白く冷たい壁をしていて、玄関先は深緑の色のペンキで塗られたコンクリートが敷いてあるのだ。そこは登場するわたしは黒人の少女で、細い足をしていて、品のいい革靴を履いている。テニスコートも夢の中のわたしも、白がほんとうによく似合うんだ。 前に見た夢のことを寝る前にこうして書くのは初めてだと思う。夢のことを思い出して書き留めるのは、いつも昼間か、不眠で明かした朝方だ。

(まぼろしのイメージ)

わかるというのがそもそも間違っていた。 ジャブの練習、卵巣から怒りをくみ上げる。 みんなが大きな音のする方を向く 鳥が飛んで行くのとは群れの種類が違う。 砂漠へ行ってみたい(まぼろしのイメージ)。 映画を見てから眠る。 広さを思い浮かべるのが苦手。

公開しあってみたい

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対象が広がるように抽象的にするほど具体的なものが引きこもる。/後退してみたりいちど否定してカットを加える。また自分に命令する(じぶんと他人になるように?):言葉(ツール、技術、方法)による分断⇔接続。ブックマークを分類するetc..《公開する》

滞在記その2

滞在記その2 5 ちょうど六四天安門事件のプロテストのイベントが毎年あるのでそれに参加した。キャンドルナイト!火をリレーするとか、供養とか、キャンドルに複数の意味を乗せている感じ。景色は精霊流しみたいだっ 路上には小さなパーティーがそれぞれのブースを展開してTシャツを売ったり演説をしていたり白い薔薇の造花を売ったり。会報紙やビラやステッカーもものすごい数渡されて、なんというかイメージしていたものよりもだいぶイベント感があった。 それぞれのパーティーはやっぱり少しずつ違うっぽい。また他の抗議団体からだいぶ外れているようなパーティもあって、それは学生による「プロテストイベント会場に行かないでください!」という内容のものだった。というのも、イベント的に消費するんじゃなくてそれぞれが考えることが大事だ!という主張。カウンター魂感じる。やっぱ何につけても抗うような。そういう主張も自由にできることが重要だ。 6/3には、六四のプロテストイベント(キャンドルナイト)に少し気の乗らない人によって催された座るだけの活動に参加した。実行委員会の進行に沿って歌ったり演説を聞いたりするキャンドルナイトの構造が、中国政府のやっていることと同じなんだよなー、とか、みんなでキャンドル持つとかしてプログラムに従うなど少し拘束されるような感じとか、ってことにちょっとだけ疑問を持っている人によって20:00から明け方までダラダラ屋外に座って喋るという、1989年の座り込みの再現、と言ったら言い過ぎ!ってくらい(でもその実そういう活動)のゆるーい雰囲気だった。 6 言語への順応?というか周りの人の私のブロークンイングリッシュへの順応かもしれないけれど、六月の中旬頃からの私の言語の成長はおそらく眼を見張るものがあった。上達を感じる!!しかし、桜木花道がメキメキと成長して山王戦で怪我をした時アヤコの「失うのもまた早い、この4ヶ月がまるで夢だったかのように・・・」というシーンを思い出したりして、続けなければ。と思うなど。ストゥーピッドだ。やー本当に、来たばかりの時は喋りたいことも喋れず緊張しっぱなしで辛くて仕方なかったけれど今はだいぶ良くなったなあ。親が喜びそう。「彩佳が英語喋ってる!!!!!!」とか言って。 7 私は高校生の頃バスケ部だったのですが、

香港その1

1 飛行機の窓から見下ろすと、山がまるでタオル生地のようにゆるく波打っていた。青く靄がかかったシルキーな山脈の影、ゆっくりと濃くなっているような気もする。普段の わたしの俯瞰的観測可能高度は、せいぜい地上10メートル程度の低い視点からかもしれない。それもあくまで想像上の話だし、高ければよく、低かったら悪いというようなことは決してないけれど。 なめらかな山脈を目で撫でるように見下ろしてスケッチを試みたが、オーバーオールで、フラットな山(!?)の風景とその大小を理解し手元のメモに描こうとする際のスケール感の調整にぐらぐらした。一時間の時差や為替のレート計算なども、理解を追いつかせるのに子供の算数みたいに図をかいたり。ポンチ絵が好きだから、いつかポンチ絵のポスターでも作ろうかな。 視点を遠くへ置くときはすごく遠くのよくわからないけど 消失点のような、強い光をイメージしている。片方しか端のない紐や1000角形(999角形とは違う)を瞑想がわりによく想像している。なんだかぼんやりとした出だしで申し訳ないっすわー。 2 山に囲まれた島の端っこが見えてだいぶ高度も落ちていた。発つときは川崎の工場が立ち並んでいる、インダストリアルの極みみたいな景色だったけど香港の空港の周りはすごく緑が豊かだ。水の上にぽっこりしているものは可愛いから好きです。船が何艘も浮かんでいたりして、杉戸洋さんの絵みたいな感じのビュー。こういう景色を見るといつも杉戸さんの絵を思い出している気がする。 山と山の間に高速道路が走っているような風景から、急にドーンと縦長の集合住宅が生えてきたようにして現れる。細長いビルがどんどん増えて、市街地へ着く頃にはすっかり香港の集合住宅の壁に囲まれていた。ビルは 香港の土地にあっても、中国の富豪が買うために実質的には中国の土地みたいになっている場所もたくさんある。だから、ビルを建てれば建てるほど簡単に売買できる土地が増えてしまう。モノポリーみたいだ。 アーティストランスペースもいくつかあるけれど、レントフィーが高くてみんなスペースを移動しながら続けているみたい。 街はといえば、 汚れていて、カラフルで、何か甘いような臭いような香りがしている。家で飲んでて、ビールを放置して寝た次の日の朝みたいな感じ。夜の11時でも昼間みたいにスイーツを食べてるカップルが

ウサギについてのシーケンス

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1: (映像、インスタレーション、絵画、テキストによる埼玉近代美術館での斎藤春佳さんの個展<飲めないジュースが現実ではないのだとしたら私たちはこの形でこの世界にいないだろう>に寄せて。) 秤のような装置にシーグラスなどの拾い物を乗せる。他人のエピソードを語る自身の声にリバーブをかける、また二重音声に加工する。そのエピソードを聞いたままではなく独自の詩的な翻訳を施す 。一貫してナイーブな語り口で、作家自身の執着に重力を与えた走馬灯のような映像作品である。しかし、拾い上げた他人のエピソードのひとつひとつに対する執着ではない。 絵画のなかに流れる時間について、モチーフを細かに描き留めスローモーションに再生しようとするのではなく、簡易に拡散するような手付きでとめどなく描くことで過去を過去として扱い、キャンバスの外の時間に追いつこうとしているように見える。過去が去ってしまえば、それらは"現実的にいえば"永久に現在へ追いつかないということを、超新星爆発の観測になぞらえ彼女は語った。例えば50年前の光を今観測したということは、光が知覚されるまでの50年間、その出来事はあり続けたということができるのではないかと。 友人や食器、植物などの日常の断片的な風景をモチーフにパステル調で描いた 牧歌的な作品だが、齋藤さんが見せているのは彼女の眼前に現れ消えていった美しくて愛おしい世界ではなくて、 むしろ拾わずに排除した"それ以外"なのかもしれない。彼女が描いているのは紛れもなく愛おしく眩しい世界なのだけれど、他者には知り得ないナラティブとのギャップから、観客へその影が投影されるのである。過ぎたことがらについて、愛おしいものもそれ以外も今は目の前になく、記憶は褪せてゆくに任せる一途である。齋藤さんが出来事に形を与えるその時に、光が当たり色彩が取り戻され、観客として見る私には光の当たらなかったものの影が投影される。他者が何かを 選び役割を与えたのを目撃するというのは、そういうことであると感じた。 クオリアの話をする時、比喩に比喩を重ねて言う以外の方法がない。 2: 周囲の全て網膜に映し続けるウサギの目のことを思いだす。ウサギの視野は360度だが視力は0.05程度で近眼である。またウサギが寂しいと死ぬと

速度のない鏡像(覚え書き)

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受動のモードが常で、できる限り全部見たい、という気持ちがある。わたしはいつも受け取るところから始める、というよりは始めたいと思っている、か。 行動(を選択すること)とは反動だと感じていて(能動がなんであるかはいまいち捉えられずにいて、今の所は放っておこうと思う。。)それは速度のない鏡像のようなイメージである。自分が若者代表みたいな勘違いを産んだりしているんじゃないかと自分を疑いまくるが、しかし若者が私ではないけれど私は若者である。。。辞書を買おう、と電車の広告のフローを眺めてぼんやり思った。

スパイ映画に出て来る女の人のように

少しきつかった服がちょうどよくなったりして、体のサイズが変わったことに気づいた。いちどはかってもらおうと、下着屋へ行くことにした。それまでユニクロなどの安価で雑な下着を愛用していたが、下着屋の店員が言うところによれば「サイズのあっていない下着のせいで胸の形が崩れている」とのことであった。彼女が見繕ってくれた「私の身体に合うブラジャー」は、それまで手にしたことのないサイズ表記で、それにボディメイクされた私の身体はスパイ映画に出て来る女の人のようなかっこいい身体の形をしていた。