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2022/08/01

 CSLABはオープンな学びの広場として起きそうな可能性含めたできごとの観測、掬い上げ、振り返りを常にやる、そのためのスタッフ。それが主な仕事なのかもしれない。やることに特化した人と、記録することに特化した人の二人体制が理想的なのかもしれない。使う人にとってはそこでいろいろやることが目的であって、それを記録しアーカイブすること自体副次的だけど、ラボにとってはアーカイブも財産だし、アーカイブがCSLABの輪郭を作っている。「何をしたか」の蓄積。その記録技術は人が入れ替わりながら歴代の管理人によって研鑽されている。ムードは管理人ごとに違うし、できることもばらつきがあるけど記録だけはなんとかやってきた。でもすごく普通な、まとめ上げると無理があるような部分について誰も扱えない。手を入れ難い不可処分な領域。たとえば、目に見えるものだと机に書かれたアイデアのメモとか、誰が書いたのかわからないドローイングとか。普通なところで普通に起こってることが面白いんだけど、それはまあ想像だけで補完するような形でいいのだろうか。70年代のNYとか、色んな記録がバッチリ残ってるわけではないけどわかることもある。

2022/07/21

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作品なのかよくわからない中途半端な領域を作る中に、ラボや金沢や愛知のプロジェクトで周りの人が教えてくれた(教えようとして教えるんじゃなくて、雑談の中で言っていたりする)ことを作品の中に取り込んでいく。わざわざそれを取り込むために、それまでと異なるディテールを差し込む用のスペースを作って。変調のリズムを叩いて既存の流れに間を割る。少しずつ反映させる。自分の考えに絡まってきたたくさんの要素。異種と絡まることで考えがどう変わるか?(あるいは変わらないのか?) アートや展覧会っていうのが、予算の取り合いでしかないみたいに感じる。そうじゃないのはわかるけど、でももうほとんどそうなんじゃないの。公の金が入っている。それを何万とかいって、予算費目がどうとかいくら使えるとかそういう話じゃあないんだよ。税金とか学費とかから割り当てられている「予算」を、数字だけで扱い出したらもう終わりだ!予算って言葉大嫌い。でも使わざるをえない言葉だ。展覧会が終われば大量のゴミが出て、保存や恒常的にパブリックなアーカイブとする分の準備はなく。終わり終わり!芸術祭は民族資料館みたいなところにアーカイブできるような尺度で考えたい。教科書とか。市民の営み。 高度に政治的な表現ばかりを見てみたい。そういうキュレーションの中で、自分の作品が眼差しを向けられたい。小さなクラスや、集まりを作品やプロジェクトごとに組んでやっていることは、本当は高度に政治的態度で内容のはずなんだけどなかなかそうは見られない。わかりやすくプレゼンテーションをするってどうやってやるの。

2022/07/14

構って欲しそうな人に、どう接してあげたらいいのかよくわからない。執着されているというのではないけれど、なんか「ついて来てしまう」ので少しだけ困っている。ずっとではなくてたまになんだけど。だからそんなに大きな悩みではないけど、その他人との付き合い方って不健全なんじゃない?となんとなく心配になる。今のところ、何か自分から言ってくるまでは無視している。 「ついて来てしまう」じゃなくて、「一緒にいる」になりたいのだけど。私は面白いなって思ったり好きだな(恋愛関係って意味でなく)って思う人を見つけると、すぐ一緒に居たくなってしまうので、ついていくというしかたで来られるのはあまりよくわからない。相手のことを知りたいというのが私にとっての「一緒に居る」って感じ。ついて来てしまう人に感じるのは、自分のことを知ってほしいとかっていう感じ。でも背中を見て学んでいるのかもしれない。私があらゆる場面において何を言ってるのかを、傍で聞いていてくれているということなのかもしれない。それって楽しいのかな? 例えば、デートで服屋へ行って、バラバラにみていいのがあったら呼びに行くのは気楽で好きだ。あるいは一緒に見ながら、執拗にこれは?これは?これは?これは?これは?と無駄打ちしたり試着したりしてケラケラするのも好きだ。「一緒にいる」の感覚が合う人とでないと、私の方は他の人に対して一緒にいようと思って関わるのでしんどい。普通に話したい。その感覚をすり合わせるのはそんなに難しいことだとは思って来なかったけれど、最近友人たちと共に、その少し外側にいる人に対して悩んでいることは「一緒にいる」の感覚が合わないことが主な原因だと感じる。

2022/07/13

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 ジョナサンで夜ご飯を食べた。テーブルに土用の丑の日に合わせて鰻のボードが出ていて、そこに「ふっくらやわらかなジョナサンのうなぎをお持ち帰りいただけます」と書いてあった。動物の身体は食材になり、もうその動物自身のものではなくて店のものになり、持ち帰りまでできるってことになっている。 ストレンジャーシングス4を観ていて、囚われた人が檻の中から手首を出して休んでいるシーンがあった。その姿はなんとなく涼んでいる風に見える。水に手を浸して涼むと、浸されていない他の部分もなぜか涼み癒されるみたいな。。癒されるというイメージが部分的な体を駆け巡って一つの感覚に収まる。疲れが取れたとか。 意外と持っていなかった「ヒューマンボディショップ」を買った。

2022/07/12

 寺平さんの企画した、作品のプレゼンの練習をするイベントで自分の作品の話をした。ポートフォリオがちゃんと纏まりつつあって、使いやすい。載せていない作品も追加したい。制作年順に並べているわけではないけど、もう少し編集をして、左下あたりにパラパラ漫画みたいに共通したフォーマットでタグとかをつけてみようかな。googleのスライドは便利だけど、ページリンクとかできるのだろうか。できるようならカルヴィーノの小説のようにリニアに読んでもいいし行き来しても観れる仕掛けを入れたい。

2022/07/10

選挙。住民票を移してないので選挙のたびに毎回帰省する。同じ県内にそのままある(渋谷へ行くより近い)。家族と政治の話をする、言葉の選び方がわかってきた。政治の話をするのに自分のイデオロギー全開にしなくても、政治家ができてることできてないことの意見交換をすればよかったのだ。どちらにつくとかそういう話でなく…なんでこれまでそのアイデアがなかったのか。第五の物心がついた気がする。女性の候補者が増えて、普通に選んたのが両方とも女性になった。お母さんに女性が増えてなんか不思議な感じがするし嬉しい、という言い方で、つまりフェミニズムの視点をイデオロギーは隠して素直に話したら、本当にそうだねと言ってくれて、伝え方じゃんって思った。弟には身近に起こった嫌なことを話して、そういうことが起こっている現場に遭遇したらやっちゃってるなと思ってほしい、と言ったりした。親しくて、前提が食い違う相手と、その親しさや相手に頼りながら話すやり方を開発したい。それがわたしに必要なアクティビズムなのかも。 BlanClassへ。眞島さんの「踊ります」をカメラの外で踊りながら応援、鑑賞。一票を一分にして踊る。踊ってくれるというのがわかりやすいと思って他の人に伝えるときにそう言ったり書いたりしてしまうけど、「踊ってくれる」ってなんか違う。「踊らせる」もなんか違う。「踊らせさすことができる」?投票の権利って、そもそも元々選挙制度があり、その制度に則って国民の代表になりたい人に投票をすることになっていて、それに迫られて、投票したり棄権したりして、代表になりたい人が当選したりする(投票率が0%だったらどうなるんだろう)。「投票しさせられる」?この国に暮らすのをそもそも積極的に選んでいるわけでもなく。でもここに住んで、投票の権利があって、無い人もすぐ近くにいて。参加型社会。むしろエンゲージド・ソーシャル?人混みをつくるのも巻き込まれるのもどちらもこの私…  -作品成立条件を引き受けた(engaged)参加者は、自分の立場=投票”権利”の土台がある -参加者の生と権利である「一票」を、参加者自身から引き裂かないまま、「踊らせさす」ことで一人の身体に集約する。 -そのとき「一票」は、〈個人の生と権利〉/〈集約先としての眞島さんの超個人的な踊る身体〉との両方に、党派的なイデオロギーを超越し(あるいは、保留してという方がいい

2022/07/09

 何か嫌なことが多少あってもそれでやる気が全部無くなっちゃうことはなくて、いつも通りに戻ろうとするときはその嫌なことから抜け出す術を身につけている。 もうあんなやつ死んでしまえと何度も思ったしあんなことしてどうして暗殺されていないんだろうって思ってもいたから、安倍さんのことだけど、だからこそ死んで最悪な気持ちになる。嫌いなやつが死ぬことの悲しさったらない。 でも瞬間的な悲しさだったのかもしれない。もうすっかり元気になって、いつも通りに作品のこととかにシフトしている。晋三の銃殺があって、選挙のすぐあとに始まる「あいトリ」のことを学生とかと話す。 「勝手に測る挟まる抜け出す」のWSはついつい一個一個に時間かけすぎてしまうけどそんなに悪くない。過程は「そんなに悪くない」けど、結局評価がされるのは展示物でのアーカイブ技術だから、それがうまく行くかはわからない。自信がない。身につけたい。わたしははっきりいって、ビジュアルで見せるのが得意じゃない。写真撮るのも文章を書くのもそれなりに好きだけど得意だとは言えないと思う。絵もあまり上手くない。というかそう言う一個一個の技術の話じゃなく、この活動を残すっていうときにどういう術を取るのがいいのか知りたい。他のアーティストたちはうまくやってるとつい思ってしまうけど、それはわたしがまた想像して語ることが好きで得意だからそう思うだけで、別にうまく行ってないのかもしれない。どこで学べるんだろうか。

2022/07/08

テロがあって気が重い。喫煙所では知らない人にまでその話で話しかけられる。知らない人といっても学生だから、向こうはわたしのことを知ってるんだけど。 夕方、ラボにいる男の子たち(あえてそう言わせてもらおう)が芝生で即興演奏をして遊んでいた。学校の中央にある芝生は開けた遊び場で、こういうところがあればそれでいい。CSLABってやっぱり場所の名前じゃあない。あの丸い建物は単に9号館だ。ラボラトリー:研究所は、ひとや知の集合場所で、たとえば引っ越ししても研究はできる。いつかCSLABが引っ越すとして、なにを持っていくといいんだろう。機材、ソファ、企画書、アーカイブ。それくらいなのかもしれない。勝手にやろうとしている自分のCSLABでの任期終了展(卒制)では、「CSLABが引っ越すとき」に使えるチェックシート2022うらverみたいな展覧会にしようかなあ。

2022/07/07

駅で生花の先生みたいな人が、浴衣を着てお花をたくさん紙袋に入れて歩いていた。複雑なカーブがたくさんついた雲龍の枝とか、名前を忘れてしまったアフリカの巨大な花とかが覗いていた。花がエスカレーターで降っていく。花束みたいに雑貨化されていない状態の切花。生花はアートだから、雑貨ともいえないような、しかし言えるような。ディスプレイされるもの。

2022/07/06

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進めなくちゃいけない仕事が同時に積み重なりすぎてて全部自分のところで止まっちゃってて頭重たい。詰まっちゃって落ち込んでいたら、小山くんがメロンのショートケーキを買ってきてくれた。ローズマリーが丘の上で風に吹かれているみたいに飾られていた。口の中がフワッと涼しい。

2022/07/05

名古屋でやってるプロジェクトの参加メンバーに短歌をよむ人がいるのと、ラボでNさんの企画した短歌会が私の休日である月曜に行われたのが羨ましくて、ひっそり独習しようと思って2冊歌集を買った。山階基、雪舟えま。同僚Iさんも同じく雪舟えまの歌集を買ったらしい。 短歌を見ることは(読むというのはなんか違う感じがする)ひとのスナップ写真とか見る感じに似ている。群像劇の読後感だけがあるような。圧縮された文章の形式。音の中に言葉を選んで詰める引っ張り合い。たくさん書けばいいというものでもないのかもしれない。見るのも10個くらいで満足する。回転寿司は7皿も食べたらお腹いっぱいになる。それと同じような量に思える。読んでみたから明日テプラに印刷してラボのどこかにひっそりと貼り付けよう。 八時間歩く身体くたくた輪郭ってどんなものなの

2022/07/04

 社会正義や倫理、かつての失敗をどう反省するかの話の流れで、投票は個人的な意見を見つめ直す作業にもなると話せたのはよかった気がする。情報を得てリテラシーを構築する場がTwitterに集約されているこの状況(異常なことだ)で、個人はどう個人なのかを学ぶ必要がある。できればフィジカルに。政治を考えたり関わることが、分断された社会の中のどこに身を置くか的なポジションの話になるのは順序がおかしいと思う。政治参加って誰かを応援するとか、どっち派とか、そもそもそういう話じゃない。個人の考えとバラバラの実践が生活の中にあって、それがポリティクスであって、その中に選挙もあるというだけのことだ。投票では選ぶことをとおして自分の考えを誰かに寄り添わせることになる。そういうのが、ツイッターの機能の何かによって、考える方法が高度に政治的になっているということなのかもしれない。個人はどう個人なのか。

2022/07/03

ある作品を10年の節目で引き継ぎ二代目をやることになったかもしれない。とりあえずここにひっそりと記録しておく…(2022/07/02 名古屋ALAにて) ミロ展に行き、体の動きのバリエーションを得る。ミロの絵を引き受け解釈しながら密かに踊ることを鑑賞としてやる。高校生の頃にとても励まされていた「夜の中の女たち」が観れて嬉しい。自分の部屋の壁にポストカードを貼り付けていたけどどうして本物を見に行こうと思わなかったんだろう。軽井沢に行けばいつでも見れるとはおもいもよらなかったし、あのポストカードとの関係の仕方を今日まですっかり忘れていた。ポストカードの印象のせいなのか(いろんなところで見てきたはずなのに)、図像のアーティストなのかと思ったら、回顧展で見ると物質的な反応の方がむしろ際立つ。絵の中に重さや浮遊を作る図像的な操作だけでなくて、馴染ませるとかそういうのも試していることがわかった。ティッシュみたいな和紙に、書のように書いた連作があってそれは私の身体にかなり来る(平倉さんがいうところの身体に来る、とか、私の生に関係する作品みたいな言い回しが直に入ってきた)ものだった。ある作品を引き継ぐ話が身体に響きまくってて、その状態でいろんな作品を今日は見る。私の中に見方がもう一つ備わるのを感じた。。踊りのヒントをいたるところから得ようという気持ち。 コレクション展がとにかく良くて、 ライオネル・ファイニンガーの海の絵やマレーヴィチ(世界中の埼玉みたいなところでバラバラに集合しましょうというかんじ)もたのしかった。絵描きたち結構色々やってるのがわかる。現代の絵描きたちは大変だね。 ハンスアルプとかジムダインとかもみれて楽しかった。ファングッズ作りたい。ヴォルスのあのしょぼしょぼ全開でやる銅版画も大好き。木村定三コレクションの部屋があって小山くんいわく「ハイクラスなフライングタイガー」。タピエス。 自分の制作の合間に名作みたいなのを見れるのはいい影響を得られていいな。そういうふうに誰かの展示と関わっていこう。自分のために見る…!

2022/06/28

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 これは…木を植えて日陰をたくさん作ることが未来への投資だと真っ直ぐ思える暑さ。透明やツルツルの素材が涼しげみたいな演出に一個も現実味がない。CSLABの空調がぶっ壊れて体育館に置くみたいな冷風機を借りてきたら、すごい轟音を出して冷たい空気を排出するそのすぐ横の穴からあっつい汚い空気が出て、足元にきったない水が垂れている。もう最悪…

2022/06/12

 自分の同級生の卒制思い出すと、ダンスとか音楽とかがそのまま作品として提示されるのが多かった。やってきたことをそのまま私の表現として責任持てるところまでやるひとがたくさんいた。片手間に趣味としてやってますみたいな態度でないし、作品のことも課題と呼ばない。とにかく幅があって面白かった。変な学年だったんだと思う。みんな踊ってたし歌ってた…。先生の評価とかは、まあ置き去りにして、同級生同士でちゃんと友達の作品を見て話すしかないという空気があった。先生が見れる作品のやり方じゃないとやっちゃいけない見てもらえない、とかそういう感じがしすぎるのか(そんなことはないはずなのに、)最近はやってきたことをそのままそれしかやりたくないですみたいな表現するには。学生が面白い作品を作ってしまうには、どうしたらいいのか?たとえば課題が簡単すぎるのかもしれない。色々取り込んでぐちゃぐちゃやらないと思考的技術的にクリアできないとか。想像力の話かもしれない。へんなアーティストをCSLABで呼ぶしかないか…アーティストの時点でもう変だからあまり効かないかもしれない…同級生に変なやつらがいないとやってやろうという空気はできないような気もする。変なことする枠組み作るか。それをそのまま講評にだすような。

2022/05/30

久しぶりにfacebookを開いたら、昔展示された作品を見ても正直ピンとこなかった友人の作品の記録写真がフィードにあった。当時見えていなかった作品の要素が何故かかなり見えたので驚いた。最近写真から読み取るしかない過去の展覧会の記録写真を見まくっていて、サムネ鑑賞のリテラシーが向上したのもあるだろうが、画像になったインスタレーションの方がむしろ作品構造を認識しやすく感じられるということなのかもしれないなと思った。作品の実物はその場に居合わせる充実感で見逃すことも多いのかもしれず、写真はよく見ないとみる事ができないから注意深くなるのかもしれない。いいのか悪いのかわからないけど、いいとか悪いとかの話ではないんだろう。単にそう感じられたのだというだけで。。

2022/05/06

 ツイッターの違うアカウントを作った。漫画のこととか、パブリックイメージから私を解放されたところで考えたこととかを書くためのアカウント。 崎山蒼志の13さいの頃のLIVEを見た。声変わりをする前の人が自分の曲をアーティストとして歌うのを初めて見た。「素晴らしき日々の途中」というフレーズがいいなあと思った。 午前中に予約していた歯医者は寝過ごしてしまってキャンセルしてしまった。次行くのが憚られる。やたら抜歯しますと言われる歯医者。以前言っていた歯医者はもうちょい粘っていた気がする。私は虫歯ができやすい。セカンドオピニオン制度はどう使えばいいのだろう。言い出しにくい。予約を取り直す前に他の歯医者で一度診察を受けたい。

2022/05/05

実家。妹がほとんど味ひとつで引っ越しをしたと聞いた。え?帰ろうとしている時に妹が荷物を整理しはじめたので励ましながら手伝う。弟に駅まで車で送ってもらうためには、妹のことを待たないといけない。母が階段に座る。レトロが好きと言い出すので、レトロって言い方ちょっと嫌だなと思ったけどどうして好きなのかとか、何がきっかけなのかとか聞く中でレトロなる語が指すところを聞けないかとやってみる。あまり会話にモチベーションなかったが、今回は聞いてみたいとか喋らせたいとかのモチベが湧いてきた。道路はどんな感じだったの?

2022/05/03

広告が速報を語ることの時制の置き方よくわかんないな。今週っていつのことだ?未来と過去はわかるが。揺らいだ表現をする紙。上から手書きやステンシルで 本日、延期、中止、千秋楽とかあるいは号外とかあるけど。ひとの姿あってこそ現在が語られるのかな。

2022/04/19

日記を書いてない間、ほとんど毎日ヤクルトを飲んでいた。流行っているヤクルト1000の市販品Y1000は一本150円もする高級品で、(日数で掛けると身体を作るのにかかったお金が計算される)最初の日は衝撃的な腸内環境の変化を感じたけれどそのあとは特別何かが変わったような気もしない。安定しているのでいいということなんだと思う。心なしか頭もさっぱりしているような気がする。コンビニを見つけたらヨーグルトの棚に直行して確認するのが日課だが、Y1000はだいたい売り切れていて、並んでいた場所は暗い隙間になっている。Y1000の1000とはその中にある何かしらの成分が1000億個で、普通のヤクルトは200億個(同じ成分の増減なのかはよくわからない)と買いてあるので、では5本飲んだら1000億個かということで1000の代わりに200のボトルが8本入ったパックを買った。と思ったのだけれど、それはヤクルトではなくピルクルで、まあなんだかよくわからないがとにかく5本飲む。甘すぎて唾液がキシキシする。その後またY1000が売ってないので今度は間違えないように気をつけてヤクルトの200のパックを買った。ピルクルの開け口はただ丸いギザギザのアルミが貼り付いているだけでどこから開けてもうまくいかなかったがヤクルトの開け口は一箇所つまみやすくなっているので方向があって開けやすい。使いやすい物は使い方が当然しめされていて、されてない物は怠慢かコスト削減の目的によるもの(適当に言ってるけれど)だ。でも自由な感じもする。それらはよく外国製品のパッケージに感じる。勝手に使うしそんなもんでいいなと思う。 ラボのこと。どこまで並走して、付き合っていくのがいいのか、やっぱりわからない。まだ動き出したばかりのプロジェクトも、どうしたら密度のあるものになるのか。作法などは時々だし、もはや学生の自主的な取り組みに関わろうとすること自体が間違っているのかもしれない。システムをデザインするのが、状況を作り、現象になりたいという作品の目標であるところのわたしの仕事なのかもしれない。政治家になろうか?読まずに参加した読書会「民主主義の源流」が大変面白かった。すぐ買った。

2022/04/05

 俳優って、役を演じることを通してできることが増えるのか。その技術、経験にまた絡まるように他の次の役に身体ごと成り代わる。格闘技とか。(キムタクのインスタストーリーズを見て思ったこと)

2022/04/01

 多摩美と藝大にはアピチャッポン来るのに相原に呼ぶために動くことをし損ねたのしばらく引きずりそう。山の向こうにアピチャッポン。はやくも1年前の悔しさ。 やりたいことの書き出しmiro共有している。これら全部全部やりたいが、それはプロダクション化しないと無理だし、とはいえチームとして動こうとして学生を誘うのはプレッシャーになるのではという怖さも。もっと色々普通に対等に話して、プロジェクトやりきった頃にはムキムキになってるみたいな。そういう感じの半ばナードな魁!…プロジェクトを考えたりやったりするよりも、学生を巻き込むのが一番難しい。マンパワー必要な現場はハラスメントが横行しやすく、自分がいつそうなってしまわないか恐ろしい。アイデアをもっとたくさん話す/話すためには身の回りにいてもらう必要がある/とりあえずお菓子を買ったり充電器を設置したりしてwelcomeする……そういう小さな積み重ねで面白がりあえるひとを呼び寄せるのや。。イベント。そのためのマメな広報。そのために分担。そのための準備。のためのミーティング。そのためのブレスト。ながーい時間かけてやる準備、たった数十分の美しさ。美しさは持続するはずという期待だけを頼りに… なんか広がりと連なりのある展開を考えつけたらいいんだけど。言われたことをしっかりやれるひとと、きっかけがあればどんどん動き出す人の違いと見極め。それぞれが集中したり面白がったりするタイミングや持続する時間のムラ。たくさんのリズムが同時に鳴っていて、その重なりが形式的に調和しないままに、美しい旋律に気付いて、音が止んだ後、なんかすごかった、と惚けるみたいな時間をデザインできるだろうか。

2022/03/30

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blenderを学生に教えてもらって、わては何を教えられるのか…何か交換したいけど、作品を見て何かを言うときにすこしでもためになるようなこととか言えるだろうか。blenderやった後、ラボの中のものの多さに驚いて、外へ出たら桜が咲きまくっててこれをCGでやるってなったらどんだけ…とか思って世の中のものの情報量の多さにびっくりしながら家に帰ってきた。 ブロッコリーを食べていたら、少し離れたiPadにふいに嫌な人の顔が大きく映し出されてオエー!となった。どんなときでもカメラもマイクもONなひとのデリカシーのなさ、、とか思ってしまう。今まで思ったことのないデリカシーの種類。嫌いな人はいつでも他人のことを気にかけずに話しかけてきて、その態度がオンラインでも健在なのだから驚く。喋ってないひとの顔ってグロいなとおもった。

2022/03/29

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石鹸が小さくなってくるとポロポロと欠けるので、それらを握りなおす。寿司の握り方で――YouTubeでみたのではなく、手で最小の形を目指す過程で寿司の握り方をを自力で開発することとなった――欠けの出ないなめらかな形を日々目指している。 勉強とフリック入力しようとすると勉強と便器が隣り合い、そんなに勉強ってたくさん打ち込んでいるつもりも無いのだけどここ数日3回に1度くらいの頻度で4度ほど便器と誤入力しており危うい感じになる(前に勉強の勉という字をふいに忘れて書けなくなった時、終わってんなと思った。)

2022/03/27

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初めて漫画を描いた。あいちの仕事の一環で描いたものだけど、漫画で全部できちゃうっていうのは本当のことだなと感じた。漫画は誤魔化しが効かない。自分の読者としてのリテラシーの高さに驚き、目指すべきひとつのクオリティがはっきりしている。恐ろしいことだ。 ムキムキとした人物と、背景が描けるようになりたい。わたしの描く絵は全部お餅みたい。

2022/03/22

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 雪。(日記書き始めたとき天気を記録していたのにいつからかやめていたな。なんでやめたんだっけ。やめたときには何か理由をつけていた気がするけど、どうでもいいような判断だったのかもしれない) 関さんからラボに作品が届いた。小さな小包に私と関さんの名前が書いてあって、その周りにいろんなシールとかスタンプとかがおされている。開けると一筆の手紙が入っていて、その下にもう一層黄色い薄い紙で包まれたスカーフが入っていて持ち上げるとパッと畳まれていたのが解けて広がった。尖った角をつまんで持ち、書かれた文字や絵を観る。家について、身を隠したり生活したりする場所であることとかがさまざまなやり方で書かれている。たとえばこの布で何かを包むとか、そういうことが予感されるような感じなのだけど、しかしながらそれ自体が別の袋に入って移動してきたことが不思議だ。すごく軽い素材で、ひょうひょうとした姿でさらりと突然現れ(目の前にありながら、触りながら、尚、突然現れた)た。それでいて、いろんなところを渡って、制度をシールやスタンプとして集めてやってきたことが不思議だと思った。

2022/03/21

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 長野へ行って松澤宥展を観た。パフォーマンスグループでやった展覧会の再現の部屋があり、とにかく爆笑した。励まされる。10代を戦中に過ごした戦後のアーティストたちが集まって、消滅す!とか言って字を書いたりとにかく裸になったり、めちゃめちゃ面白い。男が集まっていたのは軍隊に由来することで、仕方なかったのだなとか、汚いアトリエの独居老人の介護が行き届いていない、重要な表現者としては感じていても、友人として会いに行くのはめんどくさい…というのが感じられ、笑ってもいられない部分もある。作品で使ってる日用品とか時代の感性が剥き出しすぎて、コンテクストが細かにわかるコンセプチュアルアートは少ないので嬉しいしキモいところもたくさんわかる。母国語の同じ人にとってある種コンセプチュアルアーティストたちは、もしかしたらソル・ルウィットとかもわたしが感じるのとは違うところでニヤニヤと鑑賞されてるんだろうな。奥村さんの作品観たいな。 夜はつがちゃんと宮川君が引っ越すので、2人が所有してる作品を空になったおうちに展示するコレクション展に行った。みんなで床に座ってケーキとか食べたりして、その様子の写真を見た川又さんから「ニューカマーアーティストの避難所やんか」と言われ、絶妙な悪口を躊躇なくたれるやつだなと思った。「いやL'Arc〜en〜Cielと現代美術が並んでいたとして、ラルクを見たい人にとっては現代美術なんて障害物だよ」とか励ましあう。たしかにニューカマーアーティストの避難所だったのかもしれない。

2022/03/20

 昨日(3/19)のパフォーマンスのせいで全身筋肉痛になった。転んだりしたが、普通の動き方を原田さんの身体を目指してやっただけなのに不思議。武蔵美のころの友人たちがきてくれて、元気とか今どこに住んでるとか名前以外の自己紹介をしなおした。初めて会った人と、久しぶりに会う人のように話すというゲームみたいな感じで授業の導入の時にアイスブレイクさせるのいいかもと思った。

2022/03/19

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原田さんとパフォーマンスをやった。 初めて自分の振り付けを自分でやるのを人前でやった(振り付けって言わないできたけど、3/19は昼に敷地さんのパフォーマンスに参加してから自分の作品をやりにいったので、振り付けって言ってみる)。言葉を自分の身体の中から汲んでくるような感じ。参加型として参加者にインストラクションするときは言うこと大体決めて、なんなら台本作るくらい(その上でアドリブが入る)だけど、自分がやるのは気楽でいい。身体が世界と思考を繋ぎとめる。プログレスに考えながら動き、身体が言葉と思考のキャパシティを広げる。フィードバックがあるのでどんどん作れる。とにかくパフォーマンスはとても良かった気がする。人前でなにかするモチベが戻ってきた。原田さんありがとう。  

2022/03/18

 バレンタインが男が女にアプローチするチャンスイベントとして一般化していたらと思うとゾッとする。いろんな人がいるのは折り込み済みだが、それにしても、恋心を食べ物に込めて渡される(その可能性がある)なんて耐えられない。気色悪すぎる。そういうイベントは大体の場合微笑ましいことより禍々しい機会の創出を手助けするものだ。 日々マイクロアグレッションに晒されて普通に病みそう。、

2022/03/17

 3/16の夜のこと書いておく。 地震があった。また3.11みたいなことになることを想像してどうしたらいいのかわからなくなり、不安になってなぜかスリッパを脱いでしゃがみ込んだ。タランティーノ『デスプルーフ』を見ていて、序盤の恋バナパートでワシもケーキ食べちゃお^_^と冷蔵庫を開け閉めして左手にババロアでコーティングされたツルツルのケーキを持っていた。

2022/03/16

 CSLABの管理人というフレームに身を置いていろいろなことを考えられるようになり、作品制作の内容も態度も、ラボで日々学んだことがこだわりのように反映されている。ラボに関して描いたドローイングとかを色々とっておかないといけない。数々のmiroとか。 ところでどうして国家間の権力に量的な差があるのかいまいち理解できない。金石油ガス土壌作物etc..の資源の量でスタート位置が決まって、その勾配を崩す下剋上策としての兵器? 自分がもし大統領とかのフレームワークで考え学び、それを活かして作品を作ったらどうなるんだろう。

2022/03/15

 CSLAB 10th anniversary PARTYだった…うきゃー自主的に何かやるとかっていうのをサポートするときのわたしの役割ってなんなんやろと悩みつつ、身体動かしてからしゃべることを馴染ませてからやるみたいに、今のラボに特化したやつの開発が必要だな…やらされるということ、やらせることについてかなり繊細になるのはいいけど、内容に入っていけるようにしたいなー。真面目さを回避したい欲望。真面目なひとをキャンセルするやり方。話してもいいし違うこと話してもいい(それはまじで生きている上での基本、普通のことだから、そんなことを気にする必要はない)ということを考えるときに【話すことを最優位化しない】とディスカッションのルール作りをするミーティングでは何度も出てそれでどんなことが出たら成功なのかと問いを立ててこなかったけど、次の段階に入ってもいいかもしれない。成功とか失敗とかないとしても、何が起きたら失敗かはわかって、それが起きなければ成功なわけではないというか。成功がなくても成功について考えてみる(それを話すのが何かに直接役立つわけではないし、不毛でもある。苦しい感じになる。でも成功や正解が無いというときに仮想敵となっている成功や正解をいくつでも考えることこそが、成功や正解がないという態度なわけで、失敗のイメージだけがついているのでは消極的になっていく一方だ) それにしてもDJが流行りすぎてDJ集団になっていく恐れが………それもいいのか…………?じっくり話したいときにBGMがあるのは、わたしにはやっぱり難しい。 沖さんから、私がきてからラボが元気ということで最強兵器と言ってもらって嬉しいが、自分では何もうまくいってる気がしないので喜んでいいのかわからない…教育において沖さんから評価される誉れ。CVに書こうかな。2022年沖啓介から「最強兵器」受賞。

2022/03/14

 パーティーの準備。てんやわんや(便利な形容)。全て景色を作る時間。文化祭前夜というのも違って、ただこの場所を活用しているという状態。 話したい人と話す機会を【自分のために】しつらえることがしたいという欲望に従って全てのひとが駆け巡っている。双方向的に中間を求めた欲望がない状態の対話に未来はなく(それはたとえば侵略みたいなものだ)政治や制度の在り方、切り分けで棲み分けて、現実を作っていくしかないのだと思う。違う意見を持つものが、話して妥協点を取って許し合うなんていうのはその時点では絶対にわかりあうことはできない。「私の」から出発するのではなくて、「私たちの」と単位を変えて考える欲望を持てない限りは、いかに相手を削って自分の領土を広げるかということにしかならない。そんなことばかりだね。

2022/03/13

ニュースでやってるようなことはニュースが記録するし、みんなが気にしているようなことはみんながやるから、この世界にこれ以上なくていい。他の人が深めたのを見て、自分が突っ込めそうなタイミングで参入したければすればいい。流行ってきたら身を引いて、大勢が手を入れた潤沢な先行研究をみて、つまり本を読んだり作品を見たりできたらそれでいい。。スキップして漁夫れたら万々歳かも。制作に活かせるかは不明だけど。。流行りっていうのはたとえば「シェア」は10年くらい言われてる。「ケア」も5年くらい流行ってる。ガチでやらざるを得ない状況になって、流行を疎んでいる。「アイデンティティ」も流行ってる。ガチで制作で取り組んでると思える人は少ない(アイデンティティがそれぞれ違うのは当たり前のことで、均され一般化された「アイデンティティ」という言葉にどう付き合えばいいかわからない)。それにみんな身体がどうの他者がどうのこうの言ってる。最近、もう身体を拡張するとかあまり興味なくなってきた。面白いは面白いけど。ヒーリングに向かって行くのが難しくなってきて、攻撃したり敵対したりを無視しないで取り込んでいかないともう無理かも。ざっくり言って、〈私が誰か〉ということよりも、この私がこの身体を使って何をするかのほうが気になるのだと思う。自分のことだけどよくわからない。この身体が挟まったこの世界、とか。自分が今この体で、できることというふうに考えた方がいまはいろいろ考えていける。それと、変わらず自殺とか、鬱病とか、思い込みとか、そういう個人の内側で巻き起こっていることにも関心があるかもしれない。あと動物も大好き。分かるとか、分からないとか、泣いちゃうとか怒るとか、感情と認知と外への表れ。心が顔を境に表情を超えて、内から外へ移動する一連の経過。不安とか怖さとか。 金沢の個展で過去作のパフォーマンスについてはあらかたできることはやり尽くしたって気もする。もういい加減新作を作りたい。27歳くらいまで新作をずっと作って、27-29歳はその検討をちらかしながら行なってきた感じだった。来月30歳になるなんて信じられないなー。

2022/03/12

「イーブンな関係性」って精神的な介助をお互い様をやりあえるかというところに要があると考えてきたけど、本当はそうではないのかもしれない。イーブンさを考える時に、相手の特性や病気とか環境や状況などの状態のことを全部勘定にいれた上で自分が担う部分をいつもいつも増やすのは難しい。わたしだって頭おかしいのだから、わたしの頭のおかしさにだって、わたしが相手にやってあげるのと同じように付き合って欲しい。と、どうしても思ってしまうけど、引いて考えて、イーブンのマインドセットを考え直したほうがいいのかもしれない。ケアラー役ではない私のことを知って欲しいとかは思っても言わないでおいて、ロールを完遂する必要があるのかもしれない。ロールプレイを含んだ友人関係も認めないといけないのかもしれない。私がそうしたいかどうかとかは関係なくて、もう逼迫した状況で、相手にはどうしてもそういう関係が必要なんだと思う。まあそれなら仕方ない。とも言ってられないくらいこっちにも良くないことが起きる。 シェアとかケアとか流行語みたいなかんじだから、ラディカルなひとからは嫌がられたりするけど、わたしのシェアやケアはガチのやつだから…もう優しそうに見える(?!)とか、女だからとか、そういうことも言ってられないというか、言い出したらキリがないっていうか、とにかくどうしようも無い。わたしもSOUDANでみんさんにめっちゃ相談したい。半ば終わった関係も、再開した関係についても、みんながそういうのにどう折り合いをつけているのか知りたい。

2022/03/11

3.11から11年。予備校のピロティで、合格祝いのパーティーの準備をしていたら急に景色が軋み地鳴りがして(どこから鳴っていたのか?映画のBGMみたいに視界の全体から鳴っているようだった。私自身も地鳴りになっているような感じだ)、いろんなものが倒れたりスウィングしたりしていた。近所の家の玄関じゃないところから地震だー!と言いながらおじさんが出てきて、それでやっとこれは地震なのかと自分が立ってる場所の状況が言葉になった。忽滑谷さんに磯谷が泣きながら頼っていて、わたしはなんでかわからないけど笑いが止まらなくなり、磯谷と忽滑谷さんの背中を触っていた。しばらくして地震が止み、デザイン科のひとたちが降りてきて、女性講師の活躍を話してくれた(石膏像が落ちて危なくないように声かけをしたり階段からゆっくり降りてと指示したりしたらしい)。電車が動かなくなって帰れなくなったのでそのままみんなで予備校に泊まり、パーティーのために買ってあったケーキやポテチを食べ、トランプやビンゴをした。もう何にも面白くない空回りしたパーティーだった。どこからか毛布が運び込まれてきた。先生が食パンとカップ麺をたくさん買ってきた。次の日から状況把握とか計画停電とか。それと原発がめちゃめちゃになって、それまで原発のリスクとか環境負荷とか、身近に考えるきっかけもなく気にしたことなかったが、急にドン引きした。親がおもちゃとか服とかバッグとかいろいろ寄付するために集めていた。親が選挙以外で社会的な活動に参加してるのを初めて見たので驚いた。とりあえずここまで。また気が向いたら続きを書く。

2022/03/10

作者が作品を明らかに騙るということが常態化していて、その騙りと語りが作品を超えて作品化する。

2022/03/09

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 昨日の日記に書いた自分の意見を自分で捏造するみたいなこと、ディープフェイクの動画で演説してもいいかも あさはかでジャストアイデアの作品をたくさん作ろう。とにかくアイデアを頭から吐き出していくんや。。物にするとそれが勝手に語り始めて、わたしは何も言わなくてもいいからめっちゃ楽だ。人と話すのが日々キツくなってく。なぜ。鬱なのかもしれない。帰る頃には眠すぎて言わなくていいこととかを無理矢理口から出まかせで話したりしている。 最近また映画が見れるようになってきて嬉しい。少しずつ時間を取れるようになってきた。新しいコメディ映画は、サムネに調教され済みのジャンキーな感性にも緩急や色味をビシッと当てこんできて、だらだらした鑑賞を許してくれる。しかもつぶやきたくなるインタラクティブがある。韓国のドラマとかは本当にエンタメ研究がすごいんだなとなんだか胃の辺りで感覚している。アリアナグランデがアリアナグランデ役のような雰囲気でドントルックアップにでてきて、意地悪な気持ちが湧き出そうになった。普通に映画に煽られる。ツイッターと同じレイヤーの感情に訴求してくる。 パーティーの準備のためにたくさん連絡したりするとそれに伴って学生たちが新しい機材見にきている。機材の練習やるよと言うのいいんだな。基本は技術の取得でいいんだな。しかもべつに、作らなくていい。わたしが好む系の役立ちそうなことや、意識の高いことはたまにでいい。練習とかだけでいい。練習しながら仲良くなって、話して、真面目なことも話して、作品とかは各自でつくって、それを持ち寄って話して次のことを考える。そのサイクル。もう一つの大学って感じだ!なんか最近の学生たちの感じみてるとがんばるぞという気が湧いてくる。半期に一度はでかい祭りをやったらいいのかもしれない。学事日程とずらして、学期の初め頃にやるとか。3月と9月、やりたくなったら12月とか。日記というかメモやな。メモやなグランデ

2022/03/08

 3/7は連絡をしたり過去のデータを整理したり告知をしたりしてほとんど何も起きない感じだったのと多忙すぎて何も思い出せないので飛ばし・・・ 会議で、人の話したことを自分がわかりやすくするために言い換えたりすることがあるけど、そういう時別に自分が良いと思ってるわけではないアイデアを自分の口から出して、自分のハンドリングの中にあるみたいな形に整えて自分の意見でそのアイデアに賛成という感じになってしまうように錯覚して焦る。今日はそんなことばかりで引き裂かれる思いだった。立場をoffしたりonしたりしながら色々考えるのは無理。明日からは普通にそれってどういうこと?といっぱい聞くようにしよう。自分で解釈する前に人に喋ってもらえるように努力しよう・・・

2022/03/06

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展示にいろんな人が来てくれた。祐子さん(今日の日記は心の中で呼んでる名前をできるだけ出していく)と初めて話し、彼女にとって、勾配の付け方や偏りが美しさって感じなんだなと感じた。ポスターのエディトリアルを褒められて、日々イケガミちゃんに学べるチャンスがある環境のありがたさが身に沁みる。情報の整理をするとき、内面化した明津式とイケガミ式のどちらかをいつも選択している。もっと他のグラフィックデザイナーの仕事もじっくり見て知りたい。明津設計が関わったものが日々発表されまくってて千手観音み。 アーティストたちもたくさん来てくれた。全員は書ききれないけど、印象的だった人のことをメモしておく…岩ちゃんとクラリスさんが「ごつい内容の驚くほど可愛いドローイング」と言いながらいろいろ細かく見てくれた!武蔵美もいいところだったよね。。3年生の時に岩ちゃんたちみたいな先輩に会えてなかったらと思うと恐ろしいわ。たしかに、昔のドローイング面白いけど、内容あからさまにゴツくて、今はもう少し違う言葉で考えているなと思った。自分で見ても昔の考えは他人のものみたいで(まさにいろんな本から引いてきたコラージュなのかもしれない、20代はそういう時期だった)面白い。祐子さんからドローイングを絵にしたり発展させたものは無いの?と聞かれたので今のところは作ってないでござるよ!と答える。絵画にコンプレックスあるからな。。スタジオを持ったら描いてみようかな。。スタジオ契約するど、、 川名さんが同期が0.5秒くらいずれてしまっている2chモニターの間に座って首を振りながら交互に見ていて、それは?と聞くと、その動きの中にラグや視点のズレを取り込みながら見ていた(しかもそれを語るときに「たましい」という言葉まで入れ込んで話してくれた…)とのこと。やっぱ川名さんはすごいな、、、!!!! 豊嶋さんには形容詞みたいなかんじのたましいかな…?と言ってもらって、嬉しい(悲しい、楽しい、たましい…)ラグジュアリーだー。ほんと、しばらくは安眠できるって感じ。つくる活力得た… 阪中くんとえみちゃんとS太とMさんがきて、S太は走り回り電車の話をしていた。S太はずっとニコニコしてて展示会場がオレンジ色になるみたいな感じがした。マスクしてる顔がえみちゃんとまじで同じでびっくり。Mさんは犬のぬいぐるみを持っていてた。パパと言うのが先か、ワンワン

2022/03/05

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 ひわさんと粘土した。片手ずつで粘土を触って器を作った。何喋ったか忘れたけど、ボディコンタクト。明日もやりたいな。あー疲れたし眠い。戦争に反対するという態度はどうするのがいいのか。いいとかないのか?ありそうだけど。とにかく収まりがわるい。収まりの悪さを引き受けていくとか言うコンテンポラリーな身のこなしをすることを我慢しないといけない気がする。SNSで色々言うだの言わないだの、言わないのはノンポリだとかなんとか、言うのはポーザーだとかなんとか、そういう葛藤は無意味だと思う。何か言うべきという風潮が分断を呼んで、それはそれ自体が👍やviewとして数に還元されるシステムの上でなされることが原因にある。と、思いつつ、SNSで何か書いておきたいし、とはいえ、これは議論するようなことなのか?何かできるのか?それと並行して、個人として豊かな時間を過ごして、そこに自分のできることを注いでいるということに後ろめたい気持ちが混ざってくるのが嫌すぎるんじゃ〜

2022/03/04

 美術手帖webの私物化が止まらない。。もうなんの機能もない感じ。美術手帖に載ったから嬉しいみたいなのも無くなってしまったね。ドメスティックであれ、現代美術を扱う雑誌が季刊になって、web版に力を入れて動かそうってことならこの私物化された暴走web媒体をどうにかしてほしい。 今日は久しぶりに午後まで寝ていて、怒ったりミーティングをしたりして過ごしただけなので、なにも書くことがない。。えーと。靴が欲しい(核兵器はいらない)。。。

2022/03/03

指入湯でフェジョアーダとか鶏ハムとか食べてメスカルを飲みつつ大木さんに絡まれた。つがちとみのさん、小山さんと遊びに行った。 大木さんは、隣の席に偶然居合わせた渡邊庸平さんへ私からパンするショットをハンディカムで撮りながら「クマ!」と言っていて、なんのこっちゃわからなかったけど、わからなくてもいいことはたくさんある(それに乗り気で無くても協力することはできる)。大木さんの言葉の出し方と結び方は、わたしのやりかたと全然違うので、真面目な話をするのが難しい。真面目のあり方が違う感じ。それでもパッションは交換できる。話し合いじゃなくて、2人がそれぞれ宣言しあうのがちょうどいいくらいの感じ。大木さんとはそれで十分。かつ半年に一度くらいでokay. 大木さんのこと大好きで、同時にめんどくさい。

2022/03/02

いろんな人から選ばれていても手抜きでしかない作品作る人はいる…時間とかお金とかかけてでかいインスタレーションしてそれらしいステイトメントつけておけばみんなのこと騙せるって思ってる人いっぱいいる……ユージーンスタジオが微妙で、この作品は良いねっていうのはどう考えてもおかしい…………友達だったり、教え子だったり、あるいは社会的なイシューを扱ってさえいればそれでいいってことなのか?だれかワシのもやりをきいて。日記みたいなプライベートなところでも卑近すぎて書くのが憚られるなんてやばいよね。だれかワシの今やってる展示(駒込倉庫で3/20まで13-19時月火休)見た上でわたしのモヤモヤを聞いてよ。つらいです。信用できないっていうのはしんどい。矛盾について考えたりする時間を放棄するなら何が美術だっていうんだろう。急激に腹が立ちすぎて朝からこれ打ってたら出発遅れちゃって大学に遅刻。

2022/03/01

パーティーの話し合い。三回目。一週間がとにかく早い。鉄心が走って入ってくるとか流れ解散がラボらしいとか、みんなが言うアイデアは他に足ついてる。パッケージングを考えるときの軸がラボだと変な方へ行けていいのかもしれない。ラボらしさを面白いものにするために日々面白さを積み重ねるんや…「のんびり」とかダサい言葉で誰からも語られたくない… フィッシュマンズのライブへ急に行けることになって、ユニちゃんと踊った。スペース十分にとって十全に踊りたい。踊り疲れたのでここまで

2022/02/28

 最近の個展やグループ展、もう2-3年ほどほとんど純粋な新作を出していなくて、それまでやってきたことを解釈しアップデートして発表している。だんだんと作品になってきた。毎回未完成とは思ってない。それぞれの展示のタイミングでのトライって感じ。そういうのもあり(個展の記録集どうしよう)。 長期間同じテーマでほとんど同じような絵を描いてる人(「シリーズ」的展開ではなく)とその展開を互いに適宜取り出して並べてみたい。いつかのタイミングで全部のパターンを並べて一望する個展もしてみたい。死後かな?

2022/02/27

 展覧会2日目。 いつも、大体、作品がどんどん変わってくとか、日毎に自分自身も作者としてアイデアを見つけていけるように展示計画を組むことが多いから3週間同じ映像とアイデアが物質性を伴って空間を占有している状況のことをどう考えたらいいのかあまりわからない。でもまあ、在廊して居合わせた人と話をすることで自分にフィードバックして行くことから考える機会として今回の展覧会を捉えていこうと思う。 今日はささやかなレセプションパーティーをやり、そのためにドレスを買った(!)。店員さんが服やコーディネートに対する言語化を細かめに入れてくれて楽しかった。服楽しい。漫画と同じくらい、批評をみんなができる。批評がマインドセットも含めたこの身体に個別にフィードバックされる。鑑賞は自身のうちにて密やかに行われる(それは例えば感性が柔らかな粘土みたいなものだとしたなら、鑑賞によってその粘土の形が指で触られて少し変わったり、あるいは裏返しにして床面に接していた平な面が露わになったりするような)。はあ美しいことだな(今日はワインをたくさん飲みました)。言葉を選んだり別のものと比較していることが、自身に対しても秘匿されることがある。それにいかにして付き合うか。 フィードバックなしに鑑賞をしているひとがいる気がして、そういう状況はわたしのおもういい状況ではない。それはここに書き出すまでわたしの内に収めていたことだ。内に収めていても、自分のところで言語化されてさえいれば豊かさがあると思うけど、試しにほんのり人目に触れさせてみる。

2022/02/26

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 展示1日目。ヒワさんの作品をじっくり見てこなかったから(派手な照明とかが端的に苦手意識ある)、作品の面白さに改めて驚いている。ヒワさんがいなかったら、私の今回の展覧会における作品とかアーティストとしての振る舞いと立ち位置危うかったと思う。まあまあいいじゃん、という作品は多いけど、ちゃんといいなと責任持って思える作品は少ない。ヒワさんの振る舞いとか作品はわたしにとってそういうものだな。

2022/02/25

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搬入最終日。まじでウクライナ🇺🇦のことが気にかかって作品はこれでいいのかとか判断がつかなくなる。 強い意見を持つとか、いい意味/悪い意味どちらにしても、のらりくらり場当たり的にやることについて思うところがあり、「せめてこれではない」という位置取りではなくて、「とはいえこれをやる」という感じ。「せめてこれではない」っていう位置取りからの考えと実践は動きにくいよなと思っていたところだった。そういうふうに考える人は多い気がして、特に学生に多い気がしていて、そういう発言があるたびに気になっていたんだ。「ではない」に立脚させるのは共感を得やすいサバイブ能力なのかもしれないけど。ユージーンスタジオの展覧会ステートメントもそんな感じだったけど。強めに意見を持つということのリスクを取らないってことなのかもしれないが、ポピュリズムの怖さを考えてみると、そういう感性で生きてしまうとポピュリストをぬるぬると受け入れてしまい得るから気をつけていきたいよねーと思った。 それにしてもいろんなアーティストがいるんだなあ。一緒に展示する人たちと話してると、それぞればらばらに好きでやってるって感じでいい。展覧会準備ってちょっとなんか祭りっぽい。展示期間中は建物が熱を出している。高熱は一年に一度くらい出してもいいかも。

2022/02/24

ラボの記録冊子の制作が佳境。テキストをめちゃくちゃたくさん書いたり写真を編集しまくったり予算を立てたり自分の展示の必要なものを密かに手配したり していたらLINEで戦争のニュースが入って、後でみようと思っていたら齊藤くんが「ニュース見ました?」と言いながらリュックをソファに下ろした。

2022/02/23

搬入1日目。ここのところほんとずっっと自信なかったが、自分の作品見たらなかなかよくてほっとした。私の好きそうな作品がいっぱいあった(自分のだから当たり前なんだけど、それが嬉しいよね)。 しかし展示室にあるあーやさんの作品との温度差がやばい。BADな気がする。なんか砂利でもどっさり置くとか、あるいは壺みたいなのを置くとか、そういう呪術系(シャケ…)の繋ぎ目があるとちょうどいい感じがするんだけどなー。あーやさんどう調整してくるだろうか。あ、前に見た石に詩を書いて墓に遺骨と一緒に埋めるやつの試作(呪術みやべ〜)を作って持って行ってみようか。それならまた多摩川へ石を拾いに行かないと。最近寒くてずっと行ってない。いっそ体の形にならべてみよかな。面白そう。でも書きたい言葉がぱっと浮かばないなあ。もしできたなら最高。そんな作品を見てみたいね。まあ次回かな…。てか展示で試作って出すべきでは無いか。あるいはなんか金属を扱った作品。ハイヒールの型の彫刻持ってってもいいかも?それか、たくさん作った紙粘土のタコ?むかしは作品にフックをいくつか仕込んで鑑賞者の関心を引こうとかしてたが最近の作品はまっったくそういうこと考えてないな。わたしあまり他人の作品って面白いなー!とならない。いつからかあまりなんでもかんでも面白がらないようにセーブしてるかも。つかれるし、ていうかできないだけかも。技術的にホエー!とはなること多いけど(和風総本家かよ!)。

2022/02/22

 ラボのパーティーのことを色々話した。フォーカスを絞りすぎずに起こしたいことを起こそうとする方法。居合わせる人たちの参加のハードルを下げつつ、いかに意見を聞いていくか。すぐに内容に入るのはあまりよくないっていう傾向。なるほどな〜。議題を明確にしすぎると話せる範囲が狭まるから、議論に至るルートは設計しつつ、議題は司会者ではなく会場にいるひとたちがその場で広げていく。ひとりがするファシリテーションでは不可能な設計の仕方。みんなで作るけど、ばらばらに思考する。ラボでパーティーの設計するときがいちばん面白い。実際にどうなるかわからないけど、そこも含めて楽しめる感じ。昔がどうだったのかわからないけど、結構すごいのでは?やりやすそう、とかここらへんに自分は居場所がありそうというのをみんな考えながらあの丸い空間を考えている。えらすぎ。

2022/02/21

共有せずにいろんなことを進めるのはよくない。という前提がプロジェクトの中にはあるけれど、私にはチームワーク式はしんどいかもしれない。やりたいことをやりたいままに自分だけの責任のもとにやっていいのはもしかしたら本当にアートだけなのかもしれない。クリエイターという仕事が流行っているけれど、あれは実際どういう仕事なのか? 孤独に勝手に作る部分がなくなってしまったら、お仕事から戻ってこれなくなってしまうんだろう。恐ろしい。いろんな作品が全てプロジェクトベースになった方が面白いって思ってるような人もいそう。プロジェクトベースな作品は面白いものもあるけど、なんというか、作品から欲望を漂白してしまう流れもある。危険。やりたいことをやりたいようにやるには超個人である必要がある。打ち合わせをどこまでやるのかという話かもしれない。そこまで話しておくべきなのか?と思うこともよくある。それは放っておいた方が面白くなるのでは?と。面白いって何… 今日はラボにデータを取りに行ったあと現美へ行った。久保田成子が抜群に良く、憎しみとリスペクトが同じものとしてあった。

2022/02/20

 数人と喋る。昨日と今日は相談室で座っている日だった。相談に来る人は何かしらやっている人でなんかチカチカする。キャリアに関わることばかりがなにかをやっているカウントではないとしているけど、相談ってなるとそういう感じになる。これどうしよう?っていうのよりもかなりエッセンシャルな問題。括弧の外れたケアの必要な領域。遊びに行くねと言って遊びに行けていない友達のところ。 私も何かをやっているという自負があり、確かにやっているけど、何をやってる人なんですかと聞かれてわかりやすく説明するために見せるのは過去作の画像やラボのことだったりする。近作もあるし色んなプロジェクトもやっている。でもすぐに説明できるかっていうとそんなことない。その支えになるような記録物をつくりたい。無かったことになる恐怖。自分の中から無くなったら、他人の記憶にあったって、もうないも同然だよ。その消えもの感が気持ちいいとかいう人の顔が浮かぶが、うそだろって思ってしまう。展覧会や作品という単位や制度。ひとの話真面目に聞くと病むな。

2022/02/19

土曜日でラボにいないのに(相原山から離れ、有楽町にいるのに!)ラボのことばっかしずっと話している。ここ数年ずっとCSLABと接続状態であらゆることを考えているし作っている。なんか面白いことあればこの経験ラボで使えそうだなとかばっか考えてる。ラボの任期が終わる時、絶対に卒制展やるぞ。ネクストキャリアはあるのだろうか・・・陸さんもこの間そんなようなこと言っていたな。裏方極めし者のネクストキャリアってなんだ? YAUからのRAU(RAU試)。坂・・・というか、しばらく顔を出さないうちにzoomがめっちゃ静かな感じになっていた。地鳴りっぽくもある。みんなバラバラの場所にいつつ、同じ時間を共有する。あのやり方に至るにはどういう経緯があったのだろう。ヨーイドンで考えるやり方。あのやり方自体が坂っぽいっていう感じもする。斜めのところにコロコロ転がる議題を置いて、みんなで追いかけるみたい。内側にいるとわからないかも。夢中で追いかける。議論の仕方VRっぽい。攻殻機動隊で久世のカリスマとキャパのデカさで移民の思考がどんどん久世のところへ集合してくる(普通の人はそんな受け入れられない、容量がやばいらしい)描写があるけど、なんかああいう感じかも。スタンドアローンコンプレックス。ブワーーーと多くの人がせ〜ので同じことに向かって考え言葉と思考を無方向に巡らせる。 カムバ歓迎とのことでありがたい。急な坂を登ってくる人を上から撮ってみよかな。私の知る一番急な坂って通っていた小学校の通学路最後の坂。あれは崖に立っているっていうのを誤魔化すために坂道を敷いたものだと思う。あの傾斜はおかしい。ほとんどボルダリングみたいな傾斜だった気がする。腹を短くしてよじ登り、つんのめりながら下る。そういう体に擬似的になっちゃうみたいな「VR坂」はできるなら面白そう。微妙でもとにかくとれるいいな。アイデアの片鱗でも見えるといい。ちっさい三脚かジンバルを買ってもいいなあ。RAUに全然行けなかったの悔やまれるなー。

2022/02/18

 日にちを間違える日だった。曜日で動いていて、近日中の重要な用事を忘れないように毎日リマインドし続けていたら用事が全部今日起こると勘違いしていてびっくりした。「今日何日?」と聞かれれば18だよと答えることができるし、その用事が何日の何時にあるのかと聞かれればその日を答えることができるのに、なぜかその二つの情報が今日に結びついてしまっていたのだ。なぜ? Vtuberの人が、ふたつのアバターが画面上に現れて片方が数秒前の映像であるバグが起きた時に、触感のあるほうが今の自分の身体だとツイッターで言っているのをみて、面白そうだった。自分に手を振るような感じだ。自分を呼ぶ。別々の情報が私の上で結びついているときに、どちらもに触感はある。 呼び戻す。複数のプロジェクトを走らせることができるのは、もちろん他の人と一緒に仕事をするから。一緒にやる人に会えばその仕事のことを思い出して切り替えることができる。一人だったら全部混ざりそう。まあそれでもいいけど、私はほんと止めどなく続けてしまうので区切りがあったほうがいい。先週くらいまでなぜか会う人みんな全て忘れ去っていって、私の方もボケているし、とにかくアイデアもフレームも解けていってとても辛かったが、最近はリズムを取り戻した感じ。忘れたり思い出したり、いくつかの考えておきたいことの間にそれぞれが挟まりあってどれのことがどれだっけ?と混雑しているとき、他の人がいると整理される。誰かが相槌打ってくれることがとにかく助けになる。めっちゃ普通のことだけどとにかくそうなんだから仕方がない。これを全部言っておかないと次の言葉がつっかえてしまう。そういえばこの間、話が横滑りしているのに気付きつつドライブかかって大事な要素が話しながら見つけ現れてきていたときに途中でセーブしたほうがいいのか?もし置き去りだったら全部話しなおしたほうがいいかも?と思って「あ、」と言ったら、つがちが「続けて」と言ってくれて、大変救われた。天国って感じだった。つがち引っ越してしまうのとても寂しい。

2022/02/17

 CSLABのことを書いていると、学びっていうのは他の人には別になんの関係もなくてただ自分のことをやるっていうのがはっきりと感じられる。それはただ孤独にひとりきりでやるっていう意味じゃないけど。狭いとストレスかかる。物理的な空間も、時間もそう(あまり一緒に居すぎるのは良くないのかもしれない)。それぞれがバラバラに自分のことをやってると同じようなひとが居合わせたりしてオ!何それ!と便乗したり、誘ったり、そうやって集まる場所から集まりが発生してゆく拠点。色々試す日々。試してみよう!というやる気は静かにさせておき、なんかやってるひとがいると場所が元気みたいな感じ。広いとそれが何個も共存できる。広いから共存している。場所が熱を出してるみたい。コロナによる三密的制約はまじでファックですね。 授業としてスチューデントセンタードラーニングをやる「知の漂流教室」。先生がいない状況で学生が自分たちで学ぶ時間を作る授業。全13回2コマ続き(三時間)。最近は授業を学生がグループで考えて実際に授業をやるというのをしているけど、なんかやらされてる感があるような感じ。カリキュラムの中で、時間が決まってる中で、好きにやってというのはごっこ感あって燃えないし萌えないかもしれない。たしかに。作戦を立てる時間をかなり多くとって、なんか…なんのためにここにいるんだろ…と感じてからそれを越えてこれをやろうと自分でセットできるように設計できるといいけど。

2022/02/16

 初めてヴァイオリンを触った。歯磨きみたいにして弦を弾くと音がする。ヴァイオリンの音ってプロの弾くオーケストラなんかの音しかしらない。ただただ擦ると、(顎で挟んで、弦を真横から見つめて、毛で擦って、)こんな音が(耳の近くで、)するのね。フレットもないのね。ピアノとかギターみたいに階調が楽器からはっきりと示されてないと、音階というよりも音距離?音坂?そんな風な気がした。 追記 弓で弦を引いて切るように動かした。繊維がバサバサしていたのをみると、弓の方が切れやすいのかもしれない。距離を切るように演奏する。

2022/02/15

 ラボのミーティング。今日から本格的に始動。CSLABは4月から数えないで12月終わりで2月初めって感じがする。1月は卒制でなぜか奔走していた。朝から夜まで、このひとつの空間についていろんな話をしたが、気がついたり思いついたらすぐ手を動かして形を与えていかないとできることがありすぎて、空回りしてしまう。考えてるだけだと、迫り来る慌ただしさにアイデアが解けてしまう。理念と具体的な行動の差を埋める話の中で、「こいつなんでここにいんのってならない」というとっちーの発言があった。①「こいつ」にならないということ。矢印が人に向いていない状態?②「なんで」がないということ。共通の目的が設定されていない状態?集団ではなく、個人が集まってバラバラに同じ椅子に座ってる。なんか面白かったら乗ればいい、そういう場所だといい。「こいつなんでここにいんのってならない」。名言だと思った。 食べ物が残ってるのを見つけて全部食べようとするみたいな感じで、現前する問題にすぐ取り掛かろうとする。特性と言えなくもない気がする。でも食べないものもあるし、やらないこともある。取り組むことは選んでいる。目の前の気になる物をクリアーしたいという欲望。物はあるだけでそういう欲望を与えてくる。そのクリアー欲と、物自体への興味の複合的な判断をする。  昨日のかかしを片付けないでそのままにしておいたが帰る頃にいけがみちゃんが忘れていたのかびっくりしていて嬉しかった。嬉しいと声に出したしニヤッと笑った。物にしておくと急激に現れる瞬間がこうやって訪れたりする。忘れたあとの時間によって心が違う形になっている。懐かしいっていうのは違う形になった心で昔の形の心をなでるときに起きる熱なのかもしれない。

2022/01/23-01/25

  1 月 23 日 ( 日 ) 今日からまた日記書く。福尾さんが 1 年書き切ったとのこと。日記を書き終えるってなんだかよくわからないけど。実験。 ひとの顔をみたくない。どこへ行っても可愛いとかの価値観が広げられている。家にいても。うんざりする。学生にエンパワメントされ自撮りに励んだ時もあったけど、別にわたしにはなんの関係もなかった。自分の姿をみて嬉しいときの喜びは何にも変え難いけれど、パチンコ(やったことないが)みたいなもので、小さな幸せを得るために継続するだけでなくそれが過剰になってゆく。やり始めたらやめられない。飽きる前の段階で、もうやらなくていいやと思った。わたくしの記録。エゴドキュメントというらしい。日記も。 嫌な状態のままでも生活が続く。目標を持って日々を過ごすようにしないと、例えば日々のリサーチとして日々を過ごすような過ごすこと自体にメタな視点を入れないとしんどい。今日の気分。自分のままで、自撮りとかをして自分の姿や存在がそのままこうやってあり続けることがなんだか無理だ。泣くほど無理だ。目になりたい。口になり、脳になりたい、手になり、足になりたい。 1 月 24 日 ( 月 ) 最近寝るのが遅い。毎日 3:30 くらい。 9 時くらいに帰宅し、餃子を作った。あのフライパンはもうだめだ。 1 月 25 日 ( 火 ) 今年こそは力の入れ方をコントロールしないと詰む。 Dr. マリオの偽物アプリ「 Dr. マリ・オカモト」で日々詰みと積みを体験しているからわかる。脳のキャパも解放される気がして安らぐ。

2022/02/15

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 昨日は「死の予感」にて案山子の試作。あるものの寄せ集め。 配置する侘び寂びは気恥ずかしい。感覚に沿って物を組み合わせたり並べたりする(しかも美術で学んだお手前の出現を拒否しながら!)。剥き出しすぎる。初めからそこにあったものが美しく見えた瞬間に立ち合わせるみたいな在り方を取れたらいいのにな。それとも、さっき世界が明るくなったみたいな。。それはまあ、ただの理想だけども。 頭か顔をつけたほうがいい気がする。なにかしら、そう見える形で、、もっと試しまくりたい。 怖さのなかのグラデーションの話もした。きっかけは起きていない危険の予感でパニックになったことだが、この取り組みはそうでなくてもいいかも。そこから転がしてゆく(何を頼りにするのか?)「不気味」のエレガントさ、「怖い」の切なさ。怖いというピークは持続しないで通過する。だから切ない。不気味さは生理的感覚。鳥目線で案山子を見るとどうか?ずっと立ってる。案山子を作るときの子どもを可愛がることに近い楽しさ。なのに、出来たらすぐに哀愁漂うお爺さんみたい(なんとなくお婆さんではない)。