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ユーリー・ミラー・ファジー・ファンタジー

名古屋であったこと。取り急ぎ。 1 考えてみれば、最寄駅からの夜行バスへ行くのもかなりぎりぎりだった。出発前にやっぱり先週分のジョジョ見とこう、と気を変えたのが始まりだったかもしれない。クーッ吉良吉影かっこいいな!!!と高まりつつ風呂を上がり、気付けば出発30分前で慌てて荷物を詰め込み家を文字通り飛び出した。ら、わ、靴がめちゃくちゃ汚い。本当に、電車へ乗るのも憚られるような、ど汚い靴を履いてパフォーマンスしに名古屋へ向かっていた。おまけに汗だくで髪も生乾きだし、恥ずかしいという気持ちでいっぱい。しかしまあそんなことはよくあることだから、恥レベルは3程度(10がMax)である。うらあやかは静かに暮らしたい。 2 下見でも泊まった原人ハウスに着き、寝直して起きたら昼でした。やっちまったーと思いつつ、iPhoneで電車を調べて出かけ、豊橋へトリエンナーレを見に行った。鳥のモチーフばかりで、おや?と思った。水上ビルは水路沿いに低い商店街が続いていた。大きな道が通っていて、路面電車が走っている町だ。むむ、この大きな道、むかしは水路だったな、海も近いし。ブラタモリを観ていて良かったと思った。健やかなるお散歩を終えて宿へ戻りそのままぐっすりねむろうと思っていたのだが、初めて会った人々と朝まで踊り明かした。意味のわからない類の面白い夜だった。酒が回り世界も回り、わたしたちは大きなテーブルの周りを輪になって踊った。ゆるいサイファーも覚えて、ことばにリズムがつくようになった。これはまたこの翌日の夜の話だが、本名の浦彩佳は漢字だと少し不恰好でしかし響きがいいのでひらがな名義のうらあやかとして活動しているのだとマジラッパーに教えたらうらあやか、うらあやか、いい名前じゃん、うらあやか・・・といってマジラッパーは眠った。 3 この日も昼に起きた。うわまたやっちまった、と思ってみまわすと昨日あんなに踊っていた奇妙な同宿の人々は誰もいなくて、しっかりと昼まで眠る自分の怠け者具合に心底情けなくなった。 出かける途中の駅で、見知らぬ焦ったおばさんが「アリマチって駅この電車でいいんですか!?」と聞いてきた。アリマチではなく有松だったので電車と一緒にそれも教えてあげた。こちとら他所者ゆえにiPhoneで調べてそれを伝えただけなのでただスピーカーのように手触りのな

mementos

〈サブリミナル効果: 意識と潜在意識の境界領域より下に刺激を与えることで表れるとされている効果のこと。 サブリミナルとは「潜在意識の」という意味の言葉である。 … 〉 あーメントスじゃなくてジュースを買うんだった! またやってしまった! 薄紫色の碁石のようなキャンディ。 喫茶店に行く途中というのもあって 飲み物を選ばなかった が、 それにしたってメントスなんか買う必要はなかった。 しかし、メントスを買うに至った経緯については、思い当たることがある。 小学生の頃、(まちがいなく「ヒカルの碁」の影響から、)囲碁クラブに入っていた。 しかし囲碁よりもキャラクターが好きだったので、今思えばイラスト部に入るべきであった。 五目並べすら碌にできない部員だったわたしは、隅の方で座って、スカートの脚の間のたわんだところへ じゃらじゃらと碁石を出してもてあそび、指のあいだに石が滑るのを楽しんだ。 そしてひそかに、碁石を口に入れたいと思っていた。 碁石はいつも静かにひんやりして、すべすべとした指触りだった。 小瓶入りの糖衣で包まれた錠剤の味が好きだった。 固く、冷たく、マットでなめらかな碁石を口の中で歯に当てながら転がしたかった。 〈memento(名詞): 音節me・men・to発音記号məméntoʊ変化複~s, ~es  思い出になるもの,記念品,形見〉 わたしは現在花屋で働いており、そこの店長と 店長:arrangementのmentってなんだろう 私:mを抜いてentかもしれないですね、recaldentとかありますし 店長:メントスもあるね、じゃあ甘いとかそういうことかな 私:でもarrangementから離れますね 店長:じゃあ、粒とか? 私:集合みたいな意味ですかね?ムーブメントとか …と、だらだらと会話したときがあった。夏は花が持たないので花屋は暇なのだ。 〈ment: 動詞に付けて「結果」「動作」「手段」「状態」などを表す名詞を作る。 -development(進展)-movement(運動)〉 言葉の成立は不安定だ。ある語を説明するためにあれこれ言葉を足してゆくのは、 継接ぎだらけの家のように思える。この直前の〈思える〉にしても気にな

風鈴の涼しみ

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風鈴の音が、BGMでなく効果音として機能した時(つまり音に感覚をフォーカスしたとき)暑さを取りこぼす。 そういう意識が働くとき、内部観測を自然にしている。 ものごとを自分を中心にして(これを恥ずかしがらずにごく当たり前に行うこと)見つめ、鳥の視点で〈自分が~している〉と瞬時に言葉に置き換えフィードバック、つまり内部から観測しているのだ。

嫌悪しない顔

女子高生は茶色のローファーで銀杏の実を踏みつけたのだろう。微かにかおる。彼女の通学路の景色が。堂々とカレーパンにかぶりつき、巻き髪と胸元につけた揚げカスを、つまみ足元へ捨てる指の反復運動、連なる端指のピンキーリング。俯向く青年は小さな野菜ジュース飲み干すと、パックを潰し緑のしぶきを知らない女のハンドバッグにかけた。嫌悪した女の顔は醜いが正しい気がした。 世界の端っこのような景色を、横浜線の緑色のシートに座って見ていた。 ー2015年11月某日

灰をつまむ指

こぼした煙草の灰をつまむ指の所作は、頭が指令を出し身体を動かす。 「やさしくつままないとつまめない」 感情とは別の回路でやさしく接することを義務化させられた感じだった。 これをたとえば映像作品でみたら、死や葬式を連想させるものになるだろうか。灰をつまむ指の所作とその頭の指令だって、煙草の灰だから機械的だったけれど、家族の骨灰なら違うかもしれない。 しかし末端のやさしい所作は同じだ。 ふだんからやっていることなのだと思う。それがモラルというものなのかもしれないし。やさしくしたい人にもそうでないような人にも、同じような顔をして話しているのだとしたら、なんだか恐ろしいようにも滑稽なようにも思える。それでも、その'そうでないひと'にあの繊細な手付きで接するのならば、そうした末端のやさしい所作は悪い事のようには思えない。 熱いやかんに触れて引っ込めた手に、遅れて熱さを知覚するのと同じように、末端が先で思考が後から追いつくこともある。 火傷を負い、どうしたのと聞かれるとこのヤケドはね、なんてひとに話したりするところも似ている。きつく握ったりしなくてよかったと思うのだ。浅ければすぐ治るところやかゆかったりして気になるところも似ている。深手を負うと死に至ることもあるのかもしれない。 カッとなって灰皿をぶん投げることも時にはしてみようかと考えてみるけれど、そんなことは考えてからやるようなことではない。 灰の指ざわりは、つめたくてやわらかかった。私の骨灰も同じ指ざわりだろうか。

展示のタイトルに関して

PARTYという響きの軽さが嬉しい。いくつか意味があることばに化けて、その意味との距離が少し離れるのが心地よかった。 手の届く範囲よりも外側になにかを求めている。会話に詰まり、ドトールの喫煙席をぐるり見渡すと窓の向こうに地上30メートルで孤高に光るボーリングのピンが見えた。よく見ればニ本だったのだが、どちらもまあ変わらないことなのかもしれない。建物の上で目下の人々には見えずに、どこか遠くの何かに向けてここにボーリングあり、とサインを送る。わたしはそのサインのやり取りの外にいるように感じたが、そこにボーリングあり、とたしかにわたしも認識していた。

好意

「うらさんのことだいすきです」と年下の女の子がさらりといってきた。これが喜びなのかと、ことばを身体で感じる。ああ嬉しい。嬉しいと伝えるには嬉しいと発音するしかないのだろうか。言葉は遅い。 さらりとした「好き」という言葉の響きは興味深い。 「好き」ということばには、 自分から発する鋭さや重さのある、伝えるための「好き」と、暑いとか眠いとかみたいなのと同じような「好き」があって、わたしが使う「好き」は大抵の場合後者だ。 人に対して使う「 好き」ということばに悩みや欲求の混じったような情熱がそう乗らず、黄色とか入江とかが「好き」なのとおんなじ「好き」の発音をしている。昔からそうで、それでも昔はちょっとそれらしく「好き…」とか言っていたけれど、最近は発音と意味に詰まって、丘の上で両手を広げて一緒にぽけーっとしたい ですね 、とか言っている。 喋ったり触ったりしないでいいという気持ちを込めて言うのだ。これが好意でなくて、なんであるか。しかしなぜか「好き」ということばにはその気持ちを込められないのだ。二文字では短すぎるのだろうか。「好き」ということばの持つ質量がうまくつかめない。 年下の女の子の使った「好き」は、黄色や入江に使う「好き」と同じであった。恋愛感情のない「好き」ということばは、なんて気持ちいいんだろう。

両手放しのチャリで飛んだ日

このブログのタイトル「両手放しのチャリで飛ぶ」とは高校生のころに両手放しをしたがための自転車事故で吹っ飛んだときにみた鮮明なスローモーションの景色と言語体験から持ってきている。そのとき私はそれ以前のことと、それ以降のこと、つまり"今"の外のことを考えていた。 舌の奥で音にならずに消えることばがある。あれは夜に見る夢に似ている。思い出そうとすると感情や記憶が混線して曖昧に滲み、時として突然、普段の考え事とは別の回路で、思考はボーッとして止まっているのにそれがさらさらとことばになって口からこぼれてくるのだ。 咽頭に溜まって腐った言葉と、往来へばら撒くまんなかをずらすための言葉の、両方が交わる「形式的なフィクション」へ逃げ込む。閉じた別々の個体をつなぐカテーテルだ。 一緒に寝てもおなじ夢を見ることはできない。

お父さんが白内障になったときに、どう見えるのか聴いたことがある。白っぽい薄い柔らかいガラスか何かが眼の中にあるみたいだと言っていた。白内障の手術をした父の眼の中には、人工水晶体という薄いガラスみたいなものが入っている。 友人Mとは中学からの仲である。十余年付き合いのある彼の視力は0.06くらいだという。わたしは眼だけはやたらと良くて視力が2.0近くある。理科の授業で使うような小さな30倍のルーペを持っていて、ときどき葉っぱや埃を眺めて遊んでいるのだが、これをみるには、彼はもう一枚ガラスのレンズを挟まなければならないのだ。 眼が悪くなったら、輪郭がぼけていて色や光や影の滲んだ世界が見えるとわたしは期待している。Mや父はそれを見たのだろうか。 わたしは分厚い磨りガラスを愛している。磨りガラスを挟むことで彼の眼を手に入れるのだ。コントロールできないものに憧れているのだと思う。眼鏡を外すのは不安だとMは言った。

2016.4.28

酒をしこたま飲んだ夜、寝っ転がって響く心臓の音を聴くのが好きだ。頭に血が上ってこめかみの辺りがドッドッと脈打ち、ボーっと集中すると心臓の音がすごく大きく聴こえるのだ。あの轟音が自分にしか聞こえないのが不思議である。息を止めてみると、あれ程ではないがいまも少し聴こえる。 ばーちゃんの耳は、大きな低い声で話してやらないと奥まで音が届かない鈍い穴だ。静かなのだろうとおもってなんとなく羨ましいような気がしていたけれど、もしかしてあの轟音がよく聞こえるかもしれないとおもうと、わたしはもう自分の耳が暗い穴になるのが待ち遠しいようにさえ思ってしまう。 ばーちゃんに静かなの?と大きな声でたずねると、え?と言われた。ばーちゃんはすこし困ったように笑っていて、わたしは大丈夫だよとゆっくり大きな声で言った。

ディズニーランドで生まれ育ち、しにたかった。

心やからだや財産を、困っている誰かのためにはほんの少ししか使わないで 本を買ったりお酒を飲んだり恋をしたり、楽しく生活する わたしは少しせいじと似ている。 嫌いとおもうものにじぶんと重なる部分を見いだすことがなんだか多い。 じぶんの人間性に、肯定や否定の判断を保留にして、じぶんのためにびじゅつをやっている。もしかして、自尊心を保つためにやるのだろうか?びじゅつやオリンピックは。 あーほんといやだなあ。オリンピックなんかやらなきゃいいのに、と思いながらびじゅつをやるのはまったく変だ。おんなじじゃないか。 せいじと無関係になりたい。ディズニーランドで生まれ育ち、しにたかった。 せいじって誰だよと彼氏に言われるかも。せいじはわたしだよ。 鏡に向かってファイティングポーズをとる。滑稽だ。

なんとなく吐きたいとおもって、トイレを抱え見つめた水面は間違いなく泉だった。 吐かないで代わりにというかそれもまあなんとなくだけど、トイレの掃除をしたらすっきりした。 唾液とティッシュが満たされた水と吸い込まれていって、新しい水になった。

土鳩

すずめに餌やりしにくるジジイがいる。 餌やりジジイと土鳩から認知されてるのか、ジジイが公園に来ると土鳩がぶわーっと飛んでくる。ジジイは新聞紙や足を鳴らして土鳩を散らしてすずめにパンくずを投げるのだが、あのすずめが土鳩に追いまわされいじめられていたのは、たぶん餌やりジジイのせいだ。 駅前の花壇をつつく土鳩を見てから、土鳩がきらいだ。しかも土鳩はアパートのベランダに巣を作るそうだ。しね、と思うけど、そんな土鳩にわたしは似ている。