投稿

9月, 2021の投稿を表示しています

2021/09/15

  オンラインで挨拶する。「くだけた雰囲気で」といわれると真っ先に誰よりもくだけた態度を取ろうとしてしまう。ラボや勉強会でいろんなハードルを下げるための手段として技術化してる節すらある「くだけたプレイ」を、もちろん良かれと思ってやっているつもりなのだが、なんとなくやりすぎてしまったかもしれないなと思って思い出すのも恥ずかしい。ああ恥ずかしい。つがちと夜までやってる唯一のカフェで打ち合わせをしたが、あのカフェほんと許せないくらい全てが不味いし有線の J-POP が最悪。眠れなくなったし吐き気もした。悪夢のようなカフェ。ラーメンも売ってる。

2021/09/14

 木工作業をたくさんやった。図って図面を書いて製材。あとは組むだけ。ラボの空間は大小いろんな家具作りをするポテンシャルに満ちていてアイデアだけはたくさん出るが、身体を動かし作る作業はいつだって一苦労だ。広いので一つ作っても仕方ないことも多いので、作業効率のことも考えないといけない。でっかい倉庫を山川陸さんがジャイアントファニチャーと(2021/8/2あたりに)呼び指していた(そういう言葉があるのか!)。巨大な空間とその中に建てられた家具。ラボで働いているうちに、巨大な家具を作るぞ。

2021/09/13

 風呂が嫌いなわけじゃなく、寝る準備が面倒なのだ。眠い時に眠るのを我慢して身支度を整えるこの時間の間、私は私のこの所在がうっとおしい。寝る準備が面倒すぎて寝ないで過ごす夜を持っている人がどれだけいるのか知らないが、同志よ、私は持っている。眠いのに寝る準備をしたくなくて、ずっと不機嫌なまま起きて、気がおさまるのをじっと座りながら待って、ようやく落ち着いたら顔を洗って目を覚ましてできればシャワーを浴びて眠る。眠る準備が嫌なのではなくて、気がおさまらないということなのかもしれない。風呂嫌いでもなく、寝る準備が嫌なのでもなく、やりたいことに身を燃やされている状態に陥る夜を私は過ごしていたのかもしれない。なるほど。

2021/09/12

2021/09/12 熱に浮かされながらアメリカンホラーストーリーを一気見。こんなに熱と隣に置くのに悪い影響ばかりあるような映像作品もなかなかないのではないか。考え事はできないし横になっていたいので、ドラマでも流し見して過ごしたかったのに、なぜかずっと見てしまった。セクシーな幽霊とかが出てくる。全然怖くないし細かなギャグを入れてくるので――しょっぱい料理みたいに――もうちょっともうちょっとをしてるうちに時間が過ぎていった。欲望がないのに刺激によってそう錯覚させられて、決定が延長していく、サブスク型の、欲望に似た何か怠惰なものに支配されているみたいなこのあり方。 夜には熱がおさまった。よかった。デトックスみたいな感じでいつも健康なよりもたまに熱を出すくらいがちょうどいいんじゃないかと思う。もうアメリカンホラーストーリーは見なくていいや。

2021/09/11

  熱がでた。ワクチンの副反応。 十君の3歳(早!)誕生日会だったのだがスキップして、バースデーソングのビデオを送ることにした。 birthday strings として ギターとウクレレと歌で 登場。十回連続で再生して喜んでくれたらしい。十くん大好き。お誕生日おめでとう・・! 熱でドタキャン。でも熱じゃなくたってドタキャンしてもいい。ただ気が乗らなくてやめるということと、色々考えた結果やめるというのと、その思考過程の工数の差でどちらがより真剣な決定かというのは考えようがない。嫌いだから行かないというわけでもないし。自分の時間を使い方を自分で決めるというだけのこと。気が乗らないというのだって真剣に取り扱われていいはずなのに、なぜかそうではない感じがする。 高校生のころ部活へ行かずに帰る幽霊部員活動をやっていた時期があって(今思えば行きたくないなら部活をやめたらよかったんだと思うが)、その部員であるヤモリが気乗りしないのは体調不良と同義だから休むことに罪悪感を持つ必要ないのだと小田急線でレクチャーしてくれた。予定には従わないといけないとか行くと言って行かないのは嘘をついたことになるとか思うほうだったけどかなり学び、素直に行動するようになった。ついでに素直という言葉にも抑圧を感じていたがその解釈も改めるようになった。そういえば、子どもの頃ピアノ教室で習ったブルグミュラーの「素直な心」という曲の指導で素直さについてピアノの先生から言及があって、そこが何かを疑ったり考え込んだりするのが始まったような気がする。弾くにあたって、わたしは解釈を入れたい方だったから素直ってなんだろと色々思案した。何を考えたかは忘れてしまった。たしか正月のあたりのことで、そうそう、習字の書初めでも「素直な心」と書いた。好きな四字熟語と言われて、文章じゃんとだれかに突っ込まれて、いや曲名だよと言う。「な」は有りか無しかと議論になったが、いいでしょうということになった。

2021/09/10

イメージ
  コロナのワクチンを打った。手が重いとか筋肉痛のような痛みとかっていう例えにピンとこない。「ジワー」というとき、濡らした紙にインクを落としたジワーとした滲みのことを思い浮かべる。インクのイメージと現在この身体に起きているジワーとの差異を確かめる作業はレンダリングと呼び出したくなる。この腕の痛みは「ジワー」ていう感じだな、と思った。 病院に行く前に100均に寄ったらハロウィンの飾りが売っていてなんかやけに怖いマスクが売っててなんかおかしかったから写真を撮った。 しかしなんか日記に飽きてきた。書きたくないわけじゃなく、書けないってことでもない(まあ常にネタ切れではあるが)んだけど、なんかマンネリだろうか。楽しさが。寝不足のせいだろうか。また毎晩書いてはアップロードするやりかたに戻そうか。あと四日ほどの負債を返したら (日付にできごとを文章にしてお返しするって変だな)。

2021/09/09

  年商をプロフィールに書く系のひとたちがしきりに「コーチング」とか言ってるらしいというのを見た。対馬で自分の大学での仕事について teaching でなく coaching のほうがちかいかもとダジャレのつもりで言っていたので語句の一致に鳥肌が立つ。おもえばたしかに、自分のやっていることを「意識高い系」と揶揄することもできるかもしれない。なんかそういうやっかみはありうる。でもいいのだ。わたしは親ではないし。子でもないし。家族的役割の薄い人間。地元とか田舎とか、べつに田舎ではなかったけど、あの鬱屈としたところで、自分の考えとかやってみたいこととかをやるというのはすごく難しいことだったな。できるだけ何もやらない。枠の中で一番になろうってかんじで、そんな環境にいたから「意識高い系」とかみたいなルサンチマンと共鳴して自分もその呪いの中にいるままになっちゃうのかもしれない。そういうのから転生したい。これからもなにか告知をするたび、このドロっとした後ろめたさみたいなものがずっとくっついてくるのだろうか。もしかして何もやってないのに何かしたふうなことを言ってるのではないかとずっと不安だ。

2021/09/08

イメージ
  RAU にひさしぶりに合流できた。知らない間に議論の雰囲気がかわって、自分たちで話して考える感じになってた。ユニさんとたくさん話せた。話してみたかったので嬉しい。全然 わからないままいろいろと、ほとんど口から出まかせなんじゃないかということを言ってしまった。報告などの時に、あまり覚えてないとか、慌てていたので他の人お願いしますとか、周りの人は議論のまとめ報告をする人の指名をし合っていて、え、議論てそういうもんなのか!と思った。今まで参加したことのある議論は、なんなら喧嘩みたいなやつかもしくはかなりゆったりしたやつで、いずれも明確ではないぽんやりした言語と意見とを交わす場だった。それが悪いわけでは全くない。アイデアを持ち寄って、アウトプットを目指す作業。RAUではそういう感じで議論は進まないので違うトレーニングみたい。とにかく違う感じ。長い時間かけて、考えを場所ごと動かしていく(歯列矯正みたいに)。 -- twitterからメモ転載:私はどこにいるか→→→足を運んで撮影した映像に撮影者の身体がはりついている 土地に身体が張り付いてる さらに→めり込んで/一緒に動く、引きずる!←これやってみようと思う、試 今日のRAUいいエクササイズだった。Twitterで見た亀も手引きに(画像)

2021/09/07

初めて会う人が入れ替わり立ち替わりラボに打ち合わせに来る日だった。配信の練習をしたから、オンライン開催簡単にできますよと少し話を盛ってみる。簡単にできるならあれもこれもとアイデアが出てきて、散漫にうーんなるほど、とタコ足配線を処理するみたいに要らないところを外す(組み合わせればいいってもんでもない)。大学の広報のお手伝いみたいな業務はできるだけやりたくない。事務方の人は事務職で生計を立てているわりに裏方業を舐めすぎだ。プロがいる仕事はプロに任せたらええやんか(しかもピースやんか)。卒業生の始めた映像制作会社とかあるだろうしそこと業務提携して仕事回してあげればいいのに。 マイカさんの粘土の作品を見せてもらった。展示をしてみて、写真を撮って、zineを作りたいという相談をしている(お楽しみに・・)。他の人の作品を見るとやってみたいことが浮かんでくる。そういう時は出来るだけ流さず誰かに話してみる。とにかくいろんな人に思いついたことを話しておいて、それでいいじゃんやろうよ!という協力者が現れたやつから取り掛かる。大体そんな感じで自分の仕事作ってる感じがする。ぽろっと思いつきを話されても冗談だと思わないで間に受けてアイデアをのっとり合うくらいに引き合ったままやりたい。そういう人とでないと何もできない。このやり方で高めていくのはなかなか難しい。何度か空中分解しているし。人と仕事するやり方がだんだんわかってきたから、今度のいくつかはうまくいくといい。

2021/09/06

イメージ
お下がりセンターの酒井さんが古民具の搬入に来た。今日は佐塚さんと一緒だったからなのかわりと普通にゆったりとしたような雰囲気がしているように感じた。皇族のことを話すような言い方になってしまう。酒井さんは雅だ、という形容詞の似合うひとだ。靴を履いてるところを見たことがなくいつも便所サンダルだけれど。 搬入された品の中にノートがあった。農家の人が昭和初期に書いた手記だった。気味が悪く怖いので触らないようにしていたけど綱川さんがこれもらったほうがいいですよと教えてくれたので手に取ってみて、ノートをめくったら急にカバーから本文部分が落っこちてもうだめだ呪われた終わったと心の中の小学四年生と大学一年生が言うのを感じた(わたしが思ったわけではなく)。種まきのチェック表とか、と筆記体が練習されていたりとか、日誌とか、あらゆることがひとつのノートに書いてある。勝手に読んでいいのか?とおもいつつ複写を載せる。

2021/09/05

  浅田さんと打ち合わせ。 子供の頃にトイレに貼っていた世界地図と国旗のポスターのことを話す。他にも色々と(備忘録:動画の目=手の動きを粘土でトレース a.k.a 犬古粘土)話したけれどまずは地図。チリは長い。 15cm くらい。 … 長くない!手で届かないくらいには長いという縮尺と身体の大きさのギャップ。「チリは手のひらの端から端で届かない程度に大きく」、「日本は親指に収まるほどに小さい」。「私の額はロシアが覆えるくらいに広い」。世界地図を(あの平べったく処理したメルカトルだかなんだかの図法による)自分の体と照らし合わせて大きさを把握する日々。そして歩く。私が思う「それぞれの頭のおかしさ」を浅田さんは執着とか切実さと呼んでいて、ああそうやって言うと上品だなとか思った。例えば絵を描く人がもうなんでそんなことをよりにもよって絵で?というようなことをそれでも絵でやるということ。なんでよりにもよって、というところの説明をウダウダとする前に絵を描くことや、なんでよりにもよってこんな日記なんて書いてというようなことを、聞きたい人もいるだろうし話せなくもないけど話さなくたっていいし話せなかったとしてもどっちでもいいんじゃないかなとか、なんでそんな妙なところに住んでとか、なんでそんな変なことに首を突っ込んでとか、聞きたい人もいるかもしれないし話せなくもないけど話さなくてもいいし話せなかったとしてもどっちでもいいなと、最近は思う。企画書を書いて、説明したりピックアップされたり、グローバルなアーツなアクティビティに全てが結びつくような表現が善いとかされているふうに見えるけどその傾向と対策みたいなキャラ付けを背負って立つような「わたしらしさ」の強さを表明しなくたって、その求められる価値観の上で表現を行わなくたっていいのに、なぜだかみんなアクセスのいいインフォメーションばかりに気を取られる(それが必要な時もある)のはとても貧しいことなんじゃないのかと思うし、能書きと裏書きに全部あるみたいなものや、そして既存の美意識に基づいた見た目の美しさへの疑いがある。まあとにかくへんな活動がしたいものだな。

2021/09/04

  歯医者へ行った。ついに! 治療が怖くて怖くて仕方なく、レントゲンを撮影しに部屋を移動して自力で席へ戻るときに別の部屋へ迷い込む。いくつかのことを並行して(痛いとか怖いとかそれらを緩和するために指の付け根をつねったりとか歩いたり座ったり記憶したり思い出したり)行うとき、差し迫るタスクのスタッキングをなぜか知らぬ間にトランプを切るように差し替えて順番がわからなくなった状態にありながら遂行しようとしてカードをこぼしてしまうみたいに崩壊する感じがする。歯医者にウラさん、と呼び戻されて、立ち戻って、席に座り、自動で寝っ転がらされ口を開け、痛みに備えて指をつねって現在に相対することができる。怖さを受容するだけの体だった。

2021/09/03

  夏休みの飛び地。「ボイス + パレルモ」展(口ではボイパと呼んでいた)を見に行った。のっけから口悪い感じになるけど埼玉近美の薄汚れた設えがボイスにぴったりだと思った。ショーケースの展示台を回り込めるでもなく壁に近づけ狭く狭くといった感じにちょっと見たことない並べ方をしていた。学芸員がどういう意図でそうしたのかはわからないけど、配置からは単調な展示室に有り物の中で差をつけようとしているような感じがして、いやそんなことあるか?とも思ってを反芻するような行き来があり、その読み取れなさはチャレンジングと言ってもいいんじゃないかと思ったが、やっぱしよくわからない。「パフォーマンスをやったことあるひとはわかるであろう恥ずかしさ」と小山さんが言っていたボイスのパフォーマンスの記録映像は、《ものの一つ一つになにかをめっちゃ代弁させようとして真剣な顔でうやうやしくものを扱いしゃがんだりする所作も硬く意味深な感じでやる》というタイトルにしてもいいような(よくないやろ)、あの初めてパフォーマンスやるとき/ものに込める意味ばかりばっちり考えてきてパフォーマンスの内容を全然決めてこなかったとき/顔芸で場を持たせようとするパフォーマンスの特有のあの感じ、がして、もうとにかく恥ずかしくなってしまって、これが共感性羞恥か!。パフォーマンスを何度かやったことがあるひと(見たことがあるだけだとわからないんじゃないか)(演劇やダンスのひとにも多分わからないんじゃないか)と「あれ恥ずかしいよねー!」ということを話すだけのイマジナリーな飲み会の 5 分間が立ち上がる。そういうやりとりを全然していないなあ。

2021/09/02

  雨 バスの運転手が肩を上げ下げしながら運転をしている。森美術館のワークショップのことでミーティングをしたり、告知作業をしたりして、すごく久しぶりに Facebook を開いた。 70 くらい「いいね」がついて、最近はたまに投稿をするだけで全然見なくなってしまった Facebook に少なくとも 70 人の知人が絶えず出入りしていることに驚いた。 70 という数字は多いいんだか少ないんだかわからないけれど。というか Facebook における「いいね」ってなんなんだろう。相槌? たとえば instagram はビジネスと友好の2チャンネルだとして、Twitterは備忘録とシェアの含蓄(ささやかな加勢)だとして、Facebookはなんだかそれらよりは個人的でミニマムな社交に基づいたものに思える。SNSの勉強をして、オリジナルSNSを作るという講座をしてみたいかも。

2021/09/01

  歯磨きに慣れない。子供の頃から毎日口の中をブラシで自分で擦っているのに、なんでこんなに口の中のことを知らないのか。歯医者のほうが知っている部分がある。歯医者の言葉を頼り口の中のできごとを把握する。痛さから何が起きているかを感じとる(何かやばいことが起きている)。電車の中で何が起きているかを周りの反応から想像するのと同じようなものだ。自分がこんなにずっと付き合ってきたこの身体のことを知らなさすぎる。「自分の口」というのも違うような気すらする。治療中の歯の詰め物が取れたりすこし欠けたり、抜歯した部分の傷が塞がりつつあって痒かったりして、もしかしたら字義通りに「毎日違う」身体に付き合っているんじゃないか。早く歯医者に行きたい。 生理も来た。「来る」という言い方が共通認識としてあるこの現象。婦人科の問診では「生理がある」と書かれるけれど、会話や口語においては大体「生理が来る」とか「生理になった」とか言う。「(わたしが)生理になった」「(わたしのところへ)生理が来た」これらの生理と一人称の呼び付け方から、この現象の他者具合を生理のない人はなにか想像することができるかもしれない。生理が来て、生理になる。私でない身体を定期的に引き受けている。