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5月, 2023の投稿を表示しています

2023/05/29

また武蔵美へ。今日は百瀬さんのゼミにゲストとして参加した。特講のゼミといえば、中崎ゼミに入っていた。10年前だ!まさか自分が特講のゲストとして武蔵美にいるとはね。。2013年公開の映画を調べると、レミゼラブル、風立ちぬ、オブリビオン・・。私の方は当時付き合ってた人に振られ、ずっと昔に好きだった人とデートし、まさかの人から告白され、全く別の人と付き合い、と急に恋バナを挟み込みつつ、それらと並行して現代美術をちゃんと勉強し始めた年だ。暗黒舞踏のWSに通ったりとか。確かにかなり前だ! かなり前とはいえ、この10年で、自分は何も成してはいない・・。今回のように、授業のゲスト講師としてよんでもらえることがたまにあるけど、なんかもっとちゃんとした研究者とか呼ばなくて大丈夫なのかな?1万円とかもらえるから嬉しくてホイホイできることはやります〜とかなり積極的に引き受けてしまうが(その度頑張ってはいるつもりだが)、よくよく考えてみると、どんぐりの背比べ的にちょっっとだけ目立っている卒業生をよんだりして、大学ってそんな感じでいいんだろうか?たとえば、スザンヌ・レイシーやウェンデリン・ファン・オルデンボルフと比べて、うらあやかを呼ぶのがいい!って思ってもらえてるならいいんだけど。おこがましいのだろうか、こういう承認欲求は。私は私で面白いところもあるだろうけども、サクッと声をかけてもらう機会が多いことで、むしろいいところがちゃんと評価されていないような気がして、声かけやすいだけというか、便利な人みたいな感じで思われている気がするというか、暇だと思われるんじゃないかとか、実際暇だからそれは構わないんだけど、とにかく勝手になんだか自分のことがすごく情けなくなってしまう。でもそれぞれの授業とかひとつひとつは楽しいのだ。それは本当にありがたいことだ。 私だってもっと頑張りたい。妙なタイミングで中途半端に、身内から評価がつく。そういうタイプのアーティストになってしまってるふうに、自分が感じている部分もあり、見えているかもしれなく、実際になりつつある(ちょっと脱線するけど、トークショー登壇経験値が同年代の他のアーティストと比べて段違いで多い気がする)。活動する場所を大きく変える必要があるかなあ。どうしたら。 学生の頃の私は、当時30代半ばの中崎さんのあの謎のゼミでめちゃ大きな学びを得て、制作をずっと続

2023/05/28

 喋りすぎてて喉が痛い。飲み物を飲むタイミングをしばらく逃した時があり、その時が喉が荒れ始めた境界だと、確信している。ポストに3つの薄い小包が入っていて、中身は本、本、SIMカード。

2023/05/27

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ホワイトボードにレクチャーしながら描くドローイングが面白いということがわかった!お気に入りのホワイトボードを作ってみてもいいかもしれない。ホワイトボードと油絵は描いたら消したりができるのでなんか似ている。田中が展示に来てくれて、「ホワイトボード使ってるとうらだなーって感じ!」と言っていた。たしかに、ホワイトボードが作品に何度も何度も登場している。展示を作る時に、自分で持ち込むまでもなくホワイトボードがある場所でやることが多いということは、つまり、ミーティングとか講義とかが日常的に起こっている場所での発表が多いということだね。これまでの自分の傾向を振り返った事がないのでやってみたい事リストに書き加えよう。 森美術館でミヤギさんの沖縄の作品を久しぶりにみた。みながらなんか眠たくなって、瞼と目と脳が美しくまどろむ。たくさんの時間と出来事を受容した土地が、誰もいない静かな風景として、語りと共に豊かに現れている。歴史という言葉はそぐわない感じもする。(「この世界の片隅で」ってほんとすごいタイトルだな…)誰かいても誰もいなくても。。。なぜだかわからないけど隣に立ってる知らないひとが優しそうだって思った。この作品見る人はみんな優しいんじゃないか。そう思えるような美しさ。見る人がみんなとっくりと眠眠し可愛くなってしまう。不思議な作品だ…… まきさんの新しいエスキースが絵と一緒に展示されていたのもよかった。昔、lucky happy studioでエスキースをみたときにこれからも絵を続けられる仕方を見つけたんだなあいいなあと思ったことがある。袴田さんが学校で30歳までに何かしら自分のスタイルみたいなのを見つけられたらやりやすくなると思うよって言ってて、なんかそれをずっと覚えているんだけど、エスキースをスタジオで見せてもらった時にもそのスタイルみたいなのをみんなが持っていることがありありとわかってなんとなくこういうことかーと思った。 やっぱ、また自分の話だけど、ホワイトボードはかなりありだな。(ほか、メモ:水平器の泡。アクリルに泡が閉じ込められている。ホワイトボード。裏取りする散歩。) 梅津さんの焼き物の作品見れて嬉しい。めちゃ最高。釉薬が重なって澱んだようになってるのを見て、油絵の具が混ざってどんどん色が濁って破滅へ向かう過程が夢のようだと感じていたことが懐かしくなる。あんなに豊かな

2023/05/26

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 武蔵美。学内を陸さんに案内する。学内の建物のパーツのスケールが、目の中でペラペラになったりでっかくなったりしている。上から見たり、回り込んだり、悪口みたいなのを言って刻んだりしているようにみえたが、これは全て口から出る言葉の上で行われていて、なんなのだこれは、と思った。素材や矩形の連続、高さ低さ、急に目に飛び込むでっかさ、とかにおおーとか言っているのを横で聞いているのが楽しい。目の前にあるものに反応するということ、その喜び。飛び跳ねるよう。というか、見事に全部の建物の形が違うことをなぜか普通に思っていたけど、あんま普通のことではないな。 形に喜ぶスイッチが入ると、机の上にものがいっぱいある状況とかものの形が入ってきすぎて目が回る。箱とかもなぜか逆にめちゃ無理。箱の中になんか入ってるのかと思うと情報が複雑化する。ものが隣り合ったり、重なっていたりしているのがもう、アアー!!という感じ。ものの前にものがある。目の前にレイヤーがめちゃある。この机、いつの間にそうなっていたんだろう?今見えてるもの全部に形があり、手触りがあり、見えているだけなのにそれがどんなも触り心地なのか触らなくてもわかる。ものの情報量が多すぎてなんかわかってしまう。そのことにとても焦る。もはや怖い。うっかりするとどんどん怖い方へ進んでいって、たとえば、この世界にある全部のものの重さの合計のことを考えたり。怖すぎる!質量保存の法則で、人間が生まれてもビルが建っても地球の重さは変化しないらしい。ある炭素がある炭素に機能を変えて地球の中をリサイクルして過ごしている。前世があるとするならば、どちらにしても炭素だったのだろう。

2023/05/25

ベランダ側からゆっくりとまっすぐにリビングを通り抜けてキッチンの方へ向かって、割と大きな黒い虫が飛んでいく。わたしもタバコを吸おうと思ってキッチンの方へ歩いていたので、その虫と少しの間、およそ2歩、並走することになったようだった。もっと前に気づいていればキッチンへは行かなかったが、移動し終えてドアを閉める寸前に、後ろをついてくるその虫に気づいたので、風をなるべく起こさないように、スッと引き戸をゆっくりと閉めた。締め出す(あるいは、自分自身をキッチンに閉じ込める)ことに成功したかどうかわからない。入ってきたような気もするし、リビングのところにいるかもしれない。結果が不思議に不明瞭で、手応えがない。そもそもなんの虫だったかわからない。私のパーマに絡まってるかもしれないし、急にブーンと飛び出してきたらと思うとドキドキして、とにかく心の準備が必要だ。虫を部屋から出したい時には、電気を消して窓を開けておくと外の光に惹かれて出ていってくれると聞いたことがある。うちの電球はキッチン以外はLEDなので、虫にとっては真っ暗なのかもしれないねと小山君が言う。キッチンの方が光っているから、虫は近いたんだろう。虫、どこだ…。と、探す。耳を立てて、音を聞こうとする。どっかに挟まってるかもしれない。虫は大体、急に姿が見えないときには、そういうことになっているものだ。死骸を踏んじゃったら嫌だし、寝る前に布団の中から出てきたり、タオルの間からいつか発掘されるのも嫌だ。空気清浄機の排出口に落っこちてないか、小山君が確認している。いないようだった(ホッ)。ふとキッチンに置いてる小さな椅子のクッションにでっかい埃がついてるのを見つけ、あまりに大きいのでよくよくみると、細い蛾であった。私が探していた虫は小さめのカナブンだったのだけど、実際にはこんなにおとなしい虫だったのかと安心して、「い、いた……!」とカーテンを開いておいて、小山くんがそっとティッシュで捕まえておとなしい埃のような虫をふわりと静かに外へ逃した。

2023/05/24

すごい久しぶりになっちゃった、日記(ちいかわ構文)。 ここのところ寒かったり暑かったりしてすごく疲弊した。植物だったら枯れてると思う。 ストイックな人間にはなれない(ストイックさを求められるたび、白目剥いて倒れ相手をビビらせたくなる)と、日々自分の怠惰さを受け止めている。 〆切に追われてアドレナリン出ている人と仕事の話をして、私も〜〜とみんなの同業感に甘えていたが、多分本来は違うと思う。うっすら気づいてはいたけど、みんなはまともに〆切中毒なだけで、私のはただの怠惰だと思う。自分が少し得意に感じている中途半端にしかできない仕事をやればやる分だけ、自分のユニークさと他人のまともさとの間に横たわる不思議な澱みに気づいてしまって、面白い部分の鮮度が下がる感じがする。この自分の時は、あの自分を眠らせておいている。その不可視の温存に甘えて、いつかこの得意技が消えてしまってもその特技があるかのように啖呵切る嘘つきみたいな感じになってしまわないだろうか、このまま行ったら、私が変わってしまったら。それに、少しでも変わることが、老いが、すごく怖くなってしまわないだろうか。それでいつしか、既得権益で生き延びる、権威主義者になってしまわないだろうか。鮮度がなくなって、それを余裕で受け入れるのとか、嫌な諦め方にならないといいけど。やだなあ。 (駄作を作る勇気を持ちたい!見せない作品こそもっと作りたい。作る前から承認された制作なんて寂しい。それがプロフェッションというものなのだとしても)Bメロ ゲーム始めたことで、溶かす時間が増えて、心が楽だけど、どうしても溶かした時間に起きえたことをBUT,BUT,BUTで言い訳して埋めようとしてしまう。やってないことというのはやってないことなんだと、諦めることができるようになりたい。取り返しがつかないからって、取り返そうとしなくていい。書いてない日の日記は書いてなくていいし。結局今月ジム行けてないし。

2023/05/21

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パラダイスにもオンゴーイングにも行って楽しかったし疲れた。すごいいろんな国の人がいるのに全く英語が話せなく。ノリしかない。疲れでノリもよくないし。英語は昔よりも喋れなくなってるような気がする。 井出さんに英語でパフォーマンスつくったらって言われた。翻訳じゃなくて英語オリジナルの作品。英語じゃない言語も。ずっと英訳とか二次的な言語として考えてた気がする。恋とか作品とか、一次的な言語として。

2023/05/19

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 作品のタイトルにスタイルがあるし他にあまりない感じ、でも何がなんなんだろうとこないだ言われたのを思い出した。確かに名詞、動詞、形容詞、が性質を入れ換えながら進む感じもするような。それでも破綻してない(だめなときもある)バランスがあったり。わなんかどきどきしてきた。タイトルつけ方 「固定した言葉が定義ごとまた震えてる」、なんか人称が不明な感じでもあり。タイトル一覧みてみたい。 なんか急にバスケしたい。 川崎市の市役所 美術館みたい

2023/05/18

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やっぱ展示が多すぎる。わたしもそれのうちのひとつ。美学校 届いたチラシの山の中に、山海塾からのものがあって、夏にやる公演のフライヤーとB0のポスターが入っていた。なんか不思議なセノグラフィーがだけが大きく写されたすっからかんでラグジュアリーな写真が使われていた。山海塾がB0のポスター作るなら人がぎっちりバキの画面構成みたいに停止してる写真とかが送られてきたらそれが貼りたいのにと思ったけど、それは私がやろう。こうだったらいいのにと他人とのギャップからキャッチして自分から出たアイデアはちゃんとキャッチしておくべきだ。やりましょう。人がぎっちりしてるなんかのビジュアル。 Dがわたしの過去作の海に講義してる作品いいよねって言ってくれたがそんな作品作ったことなくて、聞いてみると「海のバカヤロー」と言ってる大学生の頃の作品のことだったんだ。なんで知ってるんだろすごいありがたい。有り難いことだ。そんなことあるんや。私の勘違いだったけど。海に講義してる作品面白そう。海に山のことを教える方の山海塾。 クラウディアデルリオさんが作品いいねって言ってくれて心臓飛び出るかとおもった。気落ちしてたけど持ち直した。うれしい。。めっちゃ嬉しい。 光もめちゃ依存的なメディア

2023/05/17

  打ち合わせでもトークショーでもパフォーマンスでもディスカッションでも授業でもない喋りが必要だな。 トイザらス行ってプラスチックのプレイハウス見に行きたい。やるべきことばかりをしているからこそ、それが全然できてないなという不安がいっぱい。 cookieの設定がおかしくなって写真が貼れないや

2023/05/16

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思粘菌と呼ばれる粘菌は考えて動く。30センチくらいで3Dプリンターのサポート材みたいでマゼンタの色をしている。陸さんがそれを集める仕事をしている。粘土質の 泥の産地である川が、ベトナムから引っ越してきたひとたちの暮らす相模原のとある地区にある。その川へ行って河原に沢山の壺とか手とかをつくる。その様子を記録して作品にする。という夢を見た。起きた時口開いてたし目が乾きすぎて開けられなかった。 今日は午後からPARADISE AIR、夜に美学校、となかなか忙しい日だった。何ができるか、というか期待されているのか、と思うと、なんとなくずっとそこにいてみて観察したり外部的な目が有効なうちに意見を出したりすることな気がする。やっぱもう少し東側に引っ越した方が楽しいような気がする。アトリエを松戸とかに借りて2拠点。まあアリ。   会計ソフトfreeのメルマガが、「蒼井つばめ」というなんらかの嗜好が注がれたキャラからのお便りのようになっている。青い髪外ハネボブの紺色のスーツを着た小柄な女の子(名前から想像して生成)。 (システム、インフラ、顔のない制作されたもの そういう下支えがアプデされる 集団、人称、0人称ってなんだ? すり抜けて対象とならない ルールとは関係を持たない これなーんだ?)

2023/05/15

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 またも武蔵美へ。気に入ってる薄い黄緑色のジャケットを着ていったらメロンパンみたいって言われた。ほかのひとよりもちいかわに詳しいかもしれない。葵さんもよく知ってるなって思った。ちいかわは、文具やおやつ、女児化する欲望と組み合わさって、懐かしくもない懐かしさを与えてくれる。CCさくらのガチャガチャとは違うのに同じような質の弱粘着の執着を呼んでくる。また食玩を買ってしまった。 レクチャーといってほとんどひとりごとのパフォーマンスを2回やった。こんな弱火でも表現も言っていいんだ…とか、ないのにあるね、とか、詐欺ぽい(とは誰も言っていないが)、みたいなことをいろんな言い方でいろんな人が言ってくれた。なんか、あんまうまく行ってないな。と思った。作品、作者の在不在の話をどうしてもしてしまうけど、ミスリードっていうか。なんか掛け違ってるんだよなあ。 いろいろ気にかけているところが全く観測不可能だもんな、むしろ不可能にしていってる感すらあって、なんでそんなことするのか自分でもよくわからない。友達を増やすということや、子育て、アルバイト、弱い立場の男たち、未来のなさ、資本主義の末端で抵抗していること。この作品全体を支えてるカッサカサの感性がそこへ接続してるだなんて思えないだろうけど、どうにかしてお伝えしたいな。。そのためのマルチタスクだったはず。。作品にしないとギャラリーの中には持ち込めないんだということがよくよくわかった。知ってたことだけど、本当の意味で理解した。。アートと生がすごく遠く感じる。ひとりひとりが身体ごとギャラリーに持ち込んでくる複雑さにライト当てられてない感じがする。私立の美大でそんなことしてどうなるんだ?それがしたかったはず。だけれど…と、日記を書いてるうちに掛け違いが整理された。

2023/05/14

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  ファッションの専攻の、眉毛がない黒づくめor白づくめの上の学年の人たちが集まって焼きうどんとかたこ焼きとか食べてて、食べてる姿ってなんて情けないんだろうと学生の頃思ったことを思い出した。情けないという切り口ひとつで、なんども嫌な思いを乗り越えている。枯草とか、砂利とか、砂とか、果てとか、抑揚のなさとか、そういうもののセクシーな側面に近い。 週に3回も武蔵美に行ってて、さすがにやり過ぎている気がする。最初の週で、すでに息絶えそう。 ローズマリーの乾燥したのを買って、肉にまぶして焼いたらすごく美味しかった。5月の雨の日に食べるのが似合う。

2023/05/13

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  武蔵美でなんかやる日だったので武蔵美へ。雨が降っててしんどい。大学について体調の話をする。その間のことはまた今度…わたしは何をやってるんだろう。なんか、「コンディション」。。それぞれ違うひとが集まってることを扱うにあたって、入り口の設定によっていろいろ取りこぼすことを、なんとか……みたいな。。まあなんとか終えて、とにかく頭が痛すぎて、家に帰ってくるのも大変だった。大学からタクシーに乗って2万くらい払いうるしんどさだった。というか病院行けばよかった。症状がある時自力で病院に行ってもすぐに見てもらえるのかな。市販薬を飲んじゃうほうがいいような。どちらも思いつかず家に帰ってご飯食べたらちょっと落ち着いた。 ドラマやアニメを垂れ流しにして聴きながら、カラフルビーズセットを色別に仕分けしている。何もしていないということに最も近い。160円くらい払えば完璧に仕分けられたビーズもすぐに買えるんだけど。前はビーズ作ってたけど、今は仕分けにハマってる。本当に無駄な処理。欲望の熱が分散されてなんかの職人のような気分になれていい。それに、このケースをひっくり返したらどうなるかと思ってドキドキする。ひっくり返したらやばいよ、いかんいかん、と自分を律する言い表し難い気持ちよさ。。 どっどっどっどっ

2023/05/12

 武蔵美の小林耕平ゼミの飲み会に混ぜてもらった。すっごいみんな仲良いし真面目だし、理想的なゼミの姿だとおもった。学生が「この飲み会は恋バナ禁止だから!」って言っていたのがとてもよかった。油絵の具は死んだ素材かどうかと議論してて、その議論入口がおかしいのではと思った。悪いようだけど、議論が口論になっちゃった感じの言い合いが起きている空間が結構好きだなと思った。

2023/05/11

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 大豆田とわ子と三人の元夫、見終わった…小さなできごとの連続。ドラマは会話によって展開がされて行くのね。ひとがああいうふうに会話するところをずっと見ていたから、自分の与太話までもきらめく。「昨日ね、おばあちゃんちいって、お土産もらったの。おまんじゅう。食べてね、たくさんあるから。」とか言ってそれが相手に聞こえていること。ドラマの中の展開を連れてくる言葉のように、引っ掛かりを持ちやすい言い方をしてみたりする。「わかったー。」といって、二個持っていったのを見て、よしよし、と思う。そこまで4カット。という意識。 今したいことは、何かを見て何かその場で考えてなんか言うとか、なんか聞かれて言い訳をするかとか、嘘をついたりしたい。言葉が言葉を呼んでくるその場をじっくり見たい。かつ、見られながらやりたい。 犬の首輪がレインボーに光っている。眩しくないのかな?

2023/05/10

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5/10って、なんかあった気がするんだよな。思い出せないけど。5月10日。すごい仲良かった人の誕生日かもしれない。それとも仲良くはない人の誕生日だったか。なんかの締切だったか。 戸籍謄本をとりに、4歳まで住んでいた湘南台へ行った。住んでいたのは4歳までだけど、車で20分くらいで来れるのとばあちゃんが住んでいるからミニバスを始める11歳くらいまではほとんど週一で来ていた。 引越し物件を調べている時に見る築年数が、 建物自体の経験値みたいに思える。 建物がずっとそこにあることや、誰かが移動の目印にされたことによる経験値。誰かが帰ったり、目にしたことのこびりつきの蓄積。わたしの思い出に30年くらい張り付き続けている。思い出の景色、住所、思い出のない景色。 文化センターという当時大規模な建築のコンペがあったらしいわりと有名な施設があり、夏休みだか祝日だかには、子どもたちは無料でプラネタリウムに入れる。毎年一回、夏の夜空の同じ上映を観た。360°周囲に湘南台の街が現れて、目の前に「東」という字が浮かび上がる。日が昇り、夕焼け空になり、陽が背中の方へ落ちていき、月が昇って夜になる。そこから星座の話が始まる。図書館の書庫整理で「宇宙と星物語」といういろんな国の夜空についての物語が書かれた子供向けの短編集をもらって、プラネタリウムで見た「こと座」とか「こぐま座」とかに奥行きを足していた。 近くまできたしばあちゃんちへ行った。ばあちゃんが仕事を辞めたこと、目の手術をすること、旅行はよく行くこと、髪の毛を自分で染めようとしていること、山本さん、アッコさんという友達がいること、とかを話した。働くことで人との関わりを持って楽しくやってる人だから、手術が済んだら(目の手術は10分で終わるらしい)毎日2時間くらいだけまた働くんだそうだ。いつも、正月とかに会うと特に何も話さず親戚の赤ちゃんの話かご飯の話かしかしないので、いろいろ話すことができて嬉しかった。結婚しないで生きていく人も多いから、法律もこれからそういうふうになって行くと思うよって言っていた。ばあちゃんは絵を描くのがうまい。何かをまた始めたいみたいだった。すごくいいと思った。 そうそう、忘れないように書いておきたい。昨日、Sのとこに赤ちゃんが産まれた。本当におめでとう…産んだひとの気持ちは想像もつかないけど、そのパートナーの気持ちも想像

2023/05/09

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全部の展示の搬入出が終わった。みなさんありがとう。お疲れ様です。売れたりしてほしい。 いろんな展示を作ったな。短期間に。ほんと頑張った。とことん厚意にあずかった。  BankARTは考えたいことを途中でも見せることをした。共有可能なレベルの言い換えを経由した言葉を境にあちらで作用する。それをこちらで想像する。一緒にいること、信用できる人を増やす。答えがないことを人とする。 武蔵美はこれまでやってきたことをいろいろと「タスク」のうちにいれて、試して、どの辺が美術表現として鑑賞されるにあたって有効なのか調べるつもり。 新美術館は全体的に、新たに編集をして、展示空間にアドレスを持ち使えるようにするためにアイデアを整えた。切っても伝わればいいとか。作品が洗練?されてきたような。時間がかかるね。4年かかりましたね。 人目に触れる機会は多ければ多いほどいいな。同じ作品を何度も見せることは大事にしたい。新作を作るのは勝手にできるけど。展示は鑑賞することが前提になった約束をたくさんすることだから。自分の理解も深まるし過去作を大事に。何度も何度も見せること。といいつつ今月は新作をめちゃ作ってる。作るのは勝手。出来上がりの形は不明だけど。。とにかくすごく乾く心地。焦るのとは違う。

2023/05/08

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 長谷川白紙のライブを観た!思った以上にライブ感あって楽しかった。カラオケ的なものでなく。キーボードで弾いてる指がどの音に対応してるのかはやはりよくわからなかったけども。やばいなーとか言ってたりするのがいい感じのMCだった。また観に行きたい。eye(変換がめんどくさいので割愛)のDJセットは弾かれるような。刺激がすごいあった。観ていたくはなく、目が疲れるから。聴いて楽しく。踊るという感じではない中であれ、長谷川白紙のパフォーマンスに向けてコンディション整えるために少し踊ってみたり。長谷川白紙フォロワーとしての観客席にいる人みんながTwitterをやっているのだろうなと思うと、なんだか感慨深い。InstagramよりもTwitterの方がコミットしたさがあるなと思って、少し戻ってみようかと思う。ほぼ廃墟だとしても、動向を見届けたいと思えるメディアだ、Twitterは。使い方をセーブしたら落ち込みすぎずに付き合えるかも。だから今日から少し戻ってもいいかと、長谷川白紙を観たフィードバックとして思った。Twitterにはもう戻らんと思っていたが。またしばらく付き合ってみることにする。すぐやめるかもわからないけど。 背が高い人が私の顔の写真を撫でる

2023/05/07

  マザリング/ケアフッド展を観に、水戸芸術館へ行った。何かが違えばわたしは結婚していただろうし、子どももいたかも。これからそうなるかもしれないし、そんなことは一生ないかもしれない。わたしは何か選べるんだろうか。選ばれたからそこで頑張るということをしてきたけれど。唯一のことを選んだことは一度もない。いくつか候補があって、その中から一つ選んで、だめだったら別の道があった。別の道がないということはそれをするか、しないか、どちらかしかない。産むというのは、産んだか、産んでないか、どちらかしかない。ちょっとだけ産むとかはない(ユニちゃんの詩に、生きているということについてそんなふうに書いてあった)。産みたかったとか産まれなかったとかはある。どう考えていいのか。なんて言えばいいのか。何も言えなくなってしまう。その産むという可能性や領域についてわたしは真面目に考えるのをしないでいる。心底つらい。展覧会は素晴らしいものだった。産むかどうかについてあと10年くらいは悩むのだが、10年後にはどちらにせよもう悩まなくていいのだ。

2023/05/06

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 最近むしろ完徹できる。 コンクリーションボディがもぞもぞする3Dアニメーションは可愛いけど意味わからなさすぎるからボツ。川で定点観測した10分待つ作品もみていることに気付かないままなんとなく豊かな気持ちになってしまうのでボツ。砂と枯れ草に埋まって寝てるコラージュ作品もクオリティが低すぎて情けない方の笑いが出てくるのでボツ。タコの壁画もでっかくしたから何なんだという気になるのでボツに。想いも、参照する元も乏しい展覧会ができた。0地点。展示期間中に内側から満たすことができたら。側だけはできた。内容はこれから。公開制作や工事中的やり方とは違うんだという立場を明らかにしなくては。途中じゃない。事実という言葉を急に思いついた。砂と枯れ草になんとなく憧れている。 菖蒲湯を入れた。裸になって草と一緒に風呂に入るなんてイカしてる。かっこよすぎる…。かすかないい匂い。 みんなが同じものを見にいく同一性への歩み。流行り物のレビューは、アーカイブではなく広告かなあ。広報されている漫画のレビューはぜったいに儲かると思う。企業が広告して、それを読む人がいて、そのあと感想をシェアしたい他の人の感想も聞きたいというような気持ちのやり場を作るのは絶対に儲かる。需要あるから…。そういうのが流行ったら楽しいかもしれない。誰かがした広報に乗っかる。 インスタは楽しく広報するインフラ。インスタストーリーズに載せることで消費することの連続が足跡になり、それが広報になる。 広報。情報の移動。無料の広報にはならないで鑑賞のアーカイブをする。   外道街の鷹

2023/05/05

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  「仕事おわ」に憧れて、近くで働く齋藤君を誘って職場のあたりで酒を飲んでいた時、年長の方にやりたいことはなんだ、目標はあるのか、目的はあるのか、と絡まれて、んーないっすね、と齋藤君が言ってたところに「あるやん、壮大なやつが・・・」と茶々を入れたら、「ああ、世界平和ね、あったわ」とすぐにわかってくれたことがあったのを急に思い出した。しみじみいい瞬間だった。齋藤君に幸あれ。そういうふと思い出すようないいことが起きる毎日を過ごすのが目下の望みである。 今日のいいことはなんだろう。いいこと、というか、変なことはあった。河川敷の階段のところに、なんか起きないかなと思って一人で座っていたら、雀が二羽、階段をこちらへ向かってちょびちょび一段ずつ登ってきたのだ。え、なんで、なんで、え、本当になんで???と言っていると、二段下のところで横の階段じゃない坂道の方へ外れて、またちょびちょび登っていったが、登り切るとチュンッと鳴いて方向転換し急に遠くへ飛んで行った。 その後今度は鳩が二羽、階段をこちらへ向かって一段ずつ登ってきて、本当になんで、この道何、怖い、なんで、怖い、と言っていたら、鳩たちは登り切る前に私のすぐ目の前で立ち止まり、パタタタと大きな羽音を立てて別の方へ飛んで行った。風の強い夕方だった。薄着で出たので寒かった。月がきれいだと思っていたら、速いチャリに乗った男の人たちが今日は月がきれいな日だったねーと月を見ながら言っていて、過去形?と思った。ピンク色の大きな月だった。陽が落ちたので河川敷を歩いて帰っていると、8つの光が近づいてきて、子供達がチャリで横を抜けていった。私のこのなんか起きないかなと観に行くようなパッシブな性質を、あまり他人は知らないだろう。 スーパーにはこどもの日で祝日っぽい食べ物ばかり売っていた。ちらし寿司とか。二つ入りの柏餅を買って、一個小山君にあげたらちょっと喜んでいた。 柏餅の葉っぱに手羽元の食べ終わった骨を乗せたら儀式っぽかったので見せたら怖いよって言ってた。wow,wow,wow,peace-peace..

《アンアトラクティブ・ダイアリー/ワンデーコンタクト》手順の覚書、サマリーのようなもの

《アンアトラクティブ・ダイアリー/ワンデーコンタクト》 2023/05/03 13:00-/19:00- BankART KAIKOでの展覧会〈 Platform || Pause - rest+restore 休日のプラットフォーム「休養と回復」〉展出展作品として発表 「魅力がない」ということについて、考えて新しく発見するためのワークショップを行いました。 元々は魅力のない日記の制作を目標としてアンアトラクティブな1日をデザインするつもりでいましたが、「魅力がない」ということが何を指すのか、世界のどこにも共通認識がないのでそれを制作するワークショップに切り替えることにしました。 ※展覧会終了後、このワークショップの作品タイトルは変更になると思います。 ※「ワンデーコンタクト」は、一日間だけよく見えるようになる使い捨てのコンタクトレンズのように、一時的に何かがよく見えるようになりそうなワークショップにつけるシリーズタイトルです。 ※どんな風景だったかはInstagramの投稿を参考にしてください。 ワークショップ覚書 1)「魅力がない」ということに視点を向けることについての簡単な導入を行う  魅力とは、他者の目が意識された換金価値観における「良さ」の基準を今回は指します。例えば「いいね」をあつめることができそうな価値観は、今回は避けるべき対象として設定します。  非積極的な考え方を、非という言葉を使わずに説明できるようになりたいと考えているここ最近です。というのは、大学で働いている時に学生から相談された、ネガティブやパッシブな感性にただただ励ましたり受け止めることしかできず、これはこちらの知識がないからだなと思ったことがありました。他者が持ち込むよくわからないことを、私の方でも無視せず考えてみたいと思ったのは、この一見ネガティブでナイーヴな感性は、裏拍的でラディカルな心の働きである気がして、問いの根源になると思ったからです。 2)なんらかの方法で個人が考える時間を取る 13:00回 個人で展示室をうろうろする、寝っ転がる、座ることをしながら「魅力のなさ」を考える 19:00回 展示室の外に出て「魅力のない」風景を撮影しに散歩しに行く。 大富豪の「6」のような存在の風景。 3)個人の考えを場に出す 13:00回考えたことを話す 19:00回 スマートフォンを並べて写真

2023/05/04

美学校にて受講生が美術について熱く語っているのをラジオのように聞きつつ仕事。美学校のようなオルタナティブな教育の場でも、美大でも、同じ美術史が参照されて教育が行われているのは不思議だと思った。異なる軸を見出すために(これは美学校は問題にしていないことかもしれないのだけれど)、異なるアーカイブを参照しないといけないんじゃないか。資本主義が作りあげてきた美術史ではなく。美学校は特別な、戦後美術の生きた化石的なオルタナティブなのだから、たとえば後ろ向きな態度としてでなくそのアーカイブを参照項として開いてみてもいいのではないかと思ったんだけど、それは研究者がやることか。BankARTに行ったり晴夫さんと喋ったりするとBゼミのこともよく耳にする。この1ヶ月1960年代から2020年代までの60年間のパフォーマンス実践の私の中での情報強化が断片的に起きている。 前に水田さんに展示構成の相談した時、すっきり見やすくまとめる方法もあるけど、街のように雑多にしたって展示は大丈夫だって言っててオーーーとおもったことがあった。脇道があったりして、そっちに行きたくなったりする。バラけていても成り立っている。いろいろなことがあって、そのおかげでいろいろなことが起きる。なんでもするときに、豊かさのイメージがつきやすくなる。バラけていても大丈夫なのだ。 そういえば昨日、晴夫さんがオルタナティブは歴史主義に対抗しないと、アーカイブが大事なんだと言っていて、「勝手に」パイセンすぎると思った。あのサイト、すごいもんな…とりあえず自分の全作品アーカイブは個展期間中やることリストに追加。日記、アーカイブ、脇道で起きること。一つ指針として。

2023/05/03

 BankARTでワークショップ。それから美学校のレビューを書ききった。宿題全部終わってよかった。あとは6日の搬入、8日からの展、9日の搬入…… 魅力のない日記というのを考えてみようというつもりだったけど、「魅力がない」ということの輪郭を共有するのが先だと言うことに気づけてよかった。ワークショップは、自分が知りたい最先端の概念を他者の知恵を借りて輪郭を出す作業。すぐに魅力に転じてしまう。きょうの19:30くらいにした議論は、かなり集団的に考えることがうまくいったんじゃないか。ああでもないこうでもない、誰も正しい意見を持っているわけではない。我ながら、アンアトラクティブはかなりいいアイデアだったと思う。

2023/05/02

大学四年生の時の時間割が出てきた。貼らないけど。午前授業うけて、午後アトリエ行って、夕方まではほとんど誰も来ないから仕事にあぶれた先生たちの溜まり場になり、卒制じゃない作品をつくって、発表したりし、そこから卒制をやり、夜サイゼでご飯食べながらテスト勉強とかレポートとかしてた。4年の時は奨学金借りてバイトしていなかったからできたことだ。卒制の搬入は毎日のままにしたので全く困らず終わり、他の人の卒制を手伝ったりして気を紛らわし、手伝ったお礼のお菓子がわんさか集まってきて自分の展示室はほぼ休憩所と化して日々パーティーしてた。 今日は一日中画面を見ていた。小さな私の窓。奥行きがない。スケジュール、立てるのだけはできるけど、実際にそれをやり通すのができるかどうかは別の話だ。ツルツルの玉がついた白い指輪はどこへ行ってしまったんだろう。おもちゃのウクレレ、カリンバ、爪弾けば確かに響くので、なんでもなくても豊かだと思える。手のひらの皺を眺める。 情緒の揺れを感じる。思うに、元気を出す前、一度イライラする癖があるのだと思う。昨日の日記はちょっと八つ当たりがすぎるような。今日は迷子になってしまったので、全部ストップして、宿題を今日全部終わらせるつもりで少し無理をしてずっと制作以外の仕事している。とはいえ、宿題は終わらない。非常にまずい。私のせいで経営が傾いたらどうしよう。って本気で思っているわけではないけど、少しは思っている。やらないといけないことの合間に日記を書いている。1日はまだ終わっていない。漫画家が仕事の息抜きに絵を描いているのをすごいなと思っていたけど同じようなもんじゃないか。 後回しの癖は昔からだった。そのくせ息抜きにタスクを増やすからおかしい。休養と回復。明日はワークショップだ。何か別のことをすることが私の癒しになっている。余裕を持ってやるっていう選択肢だってあるはずなのに。どうしてこんなに詰め込んでいるんだろう。時間の輪郭を掴もうとしている、とかいうと適当言い過ぎか。

2023/05/01

  武蔵美へ最後の会場下見に。武蔵美方面を目指し立川から出発する午後4時発若葉台団地行きバスでは、相変わらず老人たちが席を譲り合い健脚順位の微細な判断の応酬が行われている。斜陽差すこのバスに乗っていると、このまま全員で砂になるんじゃないかと思う。外は一面カラカラの畑で、その脇に置かれパンクしたスポーツカーは土埃で白茶け果てている。 下見のあと、展示の調子はどうですかと聞かれ、まだ6割ですと答えると、なにも心配してない、うらさんは手ぶらできても大丈夫なひとだと言われた。身に覚えはあるが、私の方は毎回大丈夫じゃなくて、まじでずっと悪夢見てる。とはいえ、大丈夫じゃなさの証明は悪夢しかない。作品作るたび今度こそ誰も彼もから嫌われるって思ってる。それが面白いっておもうのは、小林さんが狂人(すみません)なだけだとおもうけど、空気の入ったサクッとかるい鼓舞にとても救われる。心がすっきりする。狂人たちとヒリヒリした遊びができたらいい。自分がやらないことを極端にやってるひとはたしかに面白く思えるかもしれない。だからいいと思えることが多くないとも言える。面白かった人も、あまり面白くなくなってきてたり。結構普通だなー、普通なことは悪いことではないけど…とか、そういう感じになる。あまり興味が持てないとかなんとか、まあわたしだって身勝手に、ひとのことはなんとでも言えるのだ。どこまでやったら作品見た全員から完全に愛想尽かされるだろう。振り切っていこう…。下見したら安心して、その分だけで進捗が7割になった。嫌われる感じでokだ。

2023/04/30

週末に搬入なのに、展示の構成をまだ悩んでいる。6割くらいわかってきたけど、できるのかな?よくわからない。展示になるまで、作品らしき物は家の中でレシートや服や愛と同じように意味を保たないで生活に接続したまま雑然としている。小山君が言っていてなるほどと思った視点が取り出されて、目の前の景色に張り付いている。わたし自身も作品らと同じように雑然とした状態にある。急に愛と言ってみるけど少しも考えちゃいない。絶対に絶対にスタジオを借りよう。もう、ほんとうに、すぐに借りよう。