投稿

7月, 2022の投稿を表示しています

2022/07/21

イメージ
作品なのかよくわからない中途半端な領域を作る中に、ラボや金沢や愛知のプロジェクトで周りの人が教えてくれた(教えようとして教えるんじゃなくて、雑談の中で言っていたりする)ことを作品の中に取り込んでいく。わざわざそれを取り込むために、それまでと異なるディテールを差し込む用のスペースを作って。変調のリズムを叩いて既存の流れに間を割る。少しずつ反映させる。自分の考えに絡まってきたたくさんの要素。異種と絡まることで考えがどう変わるか?(あるいは変わらないのか?) アートや展覧会っていうのが、予算の取り合いでしかないみたいに感じる。そうじゃないのはわかるけど、でももうほとんどそうなんじゃないの。公の金が入っている。それを何万とかいって、予算費目がどうとかいくら使えるとかそういう話じゃあないんだよ。税金とか学費とかから割り当てられている「予算」を、数字だけで扱い出したらもう終わりだ!予算って言葉大嫌い。でも使わざるをえない言葉だ。展覧会が終われば大量のゴミが出て、保存や恒常的にパブリックなアーカイブとする分の準備はなく。終わり終わり!芸術祭は民族資料館みたいなところにアーカイブできるような尺度で考えたい。教科書とか。市民の営み。 高度に政治的な表現ばかりを見てみたい。そういうキュレーションの中で、自分の作品が眼差しを向けられたい。小さなクラスや、集まりを作品やプロジェクトごとに組んでやっていることは、本当は高度に政治的態度で内容のはずなんだけどなかなかそうは見られない。わかりやすくプレゼンテーションをするってどうやってやるの。

2022/07/14

構って欲しそうな人に、どう接してあげたらいいのかよくわからない。執着されているというのではないけれど、なんか「ついて来てしまう」ので少しだけ困っている。ずっとではなくてたまになんだけど。だからそんなに大きな悩みではないけど、その他人との付き合い方って不健全なんじゃない?となんとなく心配になる。今のところ、何か自分から言ってくるまでは無視している。 「ついて来てしまう」じゃなくて、「一緒にいる」になりたいのだけど。私は面白いなって思ったり好きだな(恋愛関係って意味でなく)って思う人を見つけると、すぐ一緒に居たくなってしまうので、ついていくというしかたで来られるのはあまりよくわからない。相手のことを知りたいというのが私にとっての「一緒に居る」って感じ。ついて来てしまう人に感じるのは、自分のことを知ってほしいとかっていう感じ。でも背中を見て学んでいるのかもしれない。私があらゆる場面において何を言ってるのかを、傍で聞いていてくれているということなのかもしれない。それって楽しいのかな? 例えば、デートで服屋へ行って、バラバラにみていいのがあったら呼びに行くのは気楽で好きだ。あるいは一緒に見ながら、執拗にこれは?これは?これは?これは?これは?と無駄打ちしたり試着したりしてケラケラするのも好きだ。「一緒にいる」の感覚が合う人とでないと、私の方は他の人に対して一緒にいようと思って関わるのでしんどい。普通に話したい。その感覚をすり合わせるのはそんなに難しいことだとは思って来なかったけれど、最近友人たちと共に、その少し外側にいる人に対して悩んでいることは「一緒にいる」の感覚が合わないことが主な原因だと感じる。

2022/07/13

イメージ
 ジョナサンで夜ご飯を食べた。テーブルに土用の丑の日に合わせて鰻のボードが出ていて、そこに「ふっくらやわらかなジョナサンのうなぎをお持ち帰りいただけます」と書いてあった。動物の身体は食材になり、もうその動物自身のものではなくて店のものになり、持ち帰りまでできるってことになっている。 ストレンジャーシングス4を観ていて、囚われた人が檻の中から手首を出して休んでいるシーンがあった。その姿はなんとなく涼んでいる風に見える。水に手を浸して涼むと、浸されていない他の部分もなぜか涼み癒されるみたいな。。癒されるというイメージが部分的な体を駆け巡って一つの感覚に収まる。疲れが取れたとか。 意外と持っていなかった「ヒューマンボディショップ」を買った。

2022/07/12

 寺平さんの企画した、作品のプレゼンの練習をするイベントで自分の作品の話をした。ポートフォリオがちゃんと纏まりつつあって、使いやすい。載せていない作品も追加したい。制作年順に並べているわけではないけど、もう少し編集をして、左下あたりにパラパラ漫画みたいに共通したフォーマットでタグとかをつけてみようかな。googleのスライドは便利だけど、ページリンクとかできるのだろうか。できるようならカルヴィーノの小説のようにリニアに読んでもいいし行き来しても観れる仕掛けを入れたい。

2022/07/10

選挙。住民票を移してないので選挙のたびに毎回帰省する。同じ県内にそのままある(渋谷へ行くより近い)。家族と政治の話をする、言葉の選び方がわかってきた。政治の話をするのに自分のイデオロギー全開にしなくても、政治家ができてることできてないことの意見交換をすればよかったのだ。どちらにつくとかそういう話でなく…なんでこれまでそのアイデアがなかったのか。第五の物心がついた気がする。女性の候補者が増えて、普通に選んたのが両方とも女性になった。お母さんに女性が増えてなんか不思議な感じがするし嬉しい、という言い方で、つまりフェミニズムの視点をイデオロギーは隠して素直に話したら、本当にそうだねと言ってくれて、伝え方じゃんって思った。弟には身近に起こった嫌なことを話して、そういうことが起こっている現場に遭遇したらやっちゃってるなと思ってほしい、と言ったりした。親しくて、前提が食い違う相手と、その親しさや相手に頼りながら話すやり方を開発したい。それがわたしに必要なアクティビズムなのかも。 BlanClassへ。眞島さんの「踊ります」をカメラの外で踊りながら応援、鑑賞。一票を一分にして踊る。踊ってくれるというのがわかりやすいと思って他の人に伝えるときにそう言ったり書いたりしてしまうけど、「踊ってくれる」ってなんか違う。「踊らせる」もなんか違う。「踊らせさすことができる」?投票の権利って、そもそも元々選挙制度があり、その制度に則って国民の代表になりたい人に投票をすることになっていて、それに迫られて、投票したり棄権したりして、代表になりたい人が当選したりする(投票率が0%だったらどうなるんだろう)。「投票しさせられる」?この国に暮らすのをそもそも積極的に選んでいるわけでもなく。でもここに住んで、投票の権利があって、無い人もすぐ近くにいて。参加型社会。むしろエンゲージド・ソーシャル?人混みをつくるのも巻き込まれるのもどちらもこの私…  -作品成立条件を引き受けた(engaged)参加者は、自分の立場=投票”権利”の土台がある -参加者の生と権利である「一票」を、参加者自身から引き裂かないまま、「踊らせさす」ことで一人の身体に集約する。 -そのとき「一票」は、〈個人の生と権利〉/〈集約先としての眞島さんの超個人的な踊る身体〉との両方に、党派的なイデオロギーを超越し(あるいは、保留してという方がいい

2022/07/09

 何か嫌なことが多少あってもそれでやる気が全部無くなっちゃうことはなくて、いつも通りに戻ろうとするときはその嫌なことから抜け出す術を身につけている。 もうあんなやつ死んでしまえと何度も思ったしあんなことしてどうして暗殺されていないんだろうって思ってもいたから、安倍さんのことだけど、だからこそ死んで最悪な気持ちになる。嫌いなやつが死ぬことの悲しさったらない。 でも瞬間的な悲しさだったのかもしれない。もうすっかり元気になって、いつも通りに作品のこととかにシフトしている。晋三の銃殺があって、選挙のすぐあとに始まる「あいトリ」のことを学生とかと話す。 「勝手に測る挟まる抜け出す」のWSはついつい一個一個に時間かけすぎてしまうけどそんなに悪くない。過程は「そんなに悪くない」けど、結局評価がされるのは展示物でのアーカイブ技術だから、それがうまく行くかはわからない。自信がない。身につけたい。わたしははっきりいって、ビジュアルで見せるのが得意じゃない。写真撮るのも文章を書くのもそれなりに好きだけど得意だとは言えないと思う。絵もあまり上手くない。というかそう言う一個一個の技術の話じゃなく、この活動を残すっていうときにどういう術を取るのがいいのか知りたい。他のアーティストたちはうまくやってるとつい思ってしまうけど、それはわたしがまた想像して語ることが好きで得意だからそう思うだけで、別にうまく行ってないのかもしれない。どこで学べるんだろうか。

2022/07/08

テロがあって気が重い。喫煙所では知らない人にまでその話で話しかけられる。知らない人といっても学生だから、向こうはわたしのことを知ってるんだけど。 夕方、ラボにいる男の子たち(あえてそう言わせてもらおう)が芝生で即興演奏をして遊んでいた。学校の中央にある芝生は開けた遊び場で、こういうところがあればそれでいい。CSLABってやっぱり場所の名前じゃあない。あの丸い建物は単に9号館だ。ラボラトリー:研究所は、ひとや知の集合場所で、たとえば引っ越ししても研究はできる。いつかCSLABが引っ越すとして、なにを持っていくといいんだろう。機材、ソファ、企画書、アーカイブ。それくらいなのかもしれない。勝手にやろうとしている自分のCSLABでの任期終了展(卒制)では、「CSLABが引っ越すとき」に使えるチェックシート2022うらverみたいな展覧会にしようかなあ。

2022/07/07

駅で生花の先生みたいな人が、浴衣を着てお花をたくさん紙袋に入れて歩いていた。複雑なカーブがたくさんついた雲龍の枝とか、名前を忘れてしまったアフリカの巨大な花とかが覗いていた。花がエスカレーターで降っていく。花束みたいに雑貨化されていない状態の切花。生花はアートだから、雑貨ともいえないような、しかし言えるような。ディスプレイされるもの。

2022/07/06

イメージ
進めなくちゃいけない仕事が同時に積み重なりすぎてて全部自分のところで止まっちゃってて頭重たい。詰まっちゃって落ち込んでいたら、小山くんがメロンのショートケーキを買ってきてくれた。ローズマリーが丘の上で風に吹かれているみたいに飾られていた。口の中がフワッと涼しい。

2022/07/05

名古屋でやってるプロジェクトの参加メンバーに短歌をよむ人がいるのと、ラボでNさんの企画した短歌会が私の休日である月曜に行われたのが羨ましくて、ひっそり独習しようと思って2冊歌集を買った。山階基、雪舟えま。同僚Iさんも同じく雪舟えまの歌集を買ったらしい。 短歌を見ることは(読むというのはなんか違う感じがする)ひとのスナップ写真とか見る感じに似ている。群像劇の読後感だけがあるような。圧縮された文章の形式。音の中に言葉を選んで詰める引っ張り合い。たくさん書けばいいというものでもないのかもしれない。見るのも10個くらいで満足する。回転寿司は7皿も食べたらお腹いっぱいになる。それと同じような量に思える。読んでみたから明日テプラに印刷してラボのどこかにひっそりと貼り付けよう。 八時間歩く身体くたくた輪郭ってどんなものなの

2022/07/04

 社会正義や倫理、かつての失敗をどう反省するかの話の流れで、投票は個人的な意見を見つめ直す作業にもなると話せたのはよかった気がする。情報を得てリテラシーを構築する場がTwitterに集約されているこの状況(異常なことだ)で、個人はどう個人なのかを学ぶ必要がある。できればフィジカルに。政治を考えたり関わることが、分断された社会の中のどこに身を置くか的なポジションの話になるのは順序がおかしいと思う。政治参加って誰かを応援するとか、どっち派とか、そもそもそういう話じゃない。個人の考えとバラバラの実践が生活の中にあって、それがポリティクスであって、その中に選挙もあるというだけのことだ。投票では選ぶことをとおして自分の考えを誰かに寄り添わせることになる。そういうのが、ツイッターの機能の何かによって、考える方法が高度に政治的になっているということなのかもしれない。個人はどう個人なのか。

2022/07/03

ある作品を10年の節目で引き継ぎ二代目をやることになったかもしれない。とりあえずここにひっそりと記録しておく…(2022/07/02 名古屋ALAにて) ミロ展に行き、体の動きのバリエーションを得る。ミロの絵を引き受け解釈しながら密かに踊ることを鑑賞としてやる。高校生の頃にとても励まされていた「夜の中の女たち」が観れて嬉しい。自分の部屋の壁にポストカードを貼り付けていたけどどうして本物を見に行こうと思わなかったんだろう。軽井沢に行けばいつでも見れるとはおもいもよらなかったし、あのポストカードとの関係の仕方を今日まですっかり忘れていた。ポストカードの印象のせいなのか(いろんなところで見てきたはずなのに)、図像のアーティストなのかと思ったら、回顧展で見ると物質的な反応の方がむしろ際立つ。絵の中に重さや浮遊を作る図像的な操作だけでなくて、馴染ませるとかそういうのも試していることがわかった。ティッシュみたいな和紙に、書のように書いた連作があってそれは私の身体にかなり来る(平倉さんがいうところの身体に来る、とか、私の生に関係する作品みたいな言い回しが直に入ってきた)ものだった。ある作品を引き継ぐ話が身体に響きまくってて、その状態でいろんな作品を今日は見る。私の中に見方がもう一つ備わるのを感じた。。踊りのヒントをいたるところから得ようという気持ち。 コレクション展がとにかく良くて、 ライオネル・ファイニンガーの海の絵やマレーヴィチ(世界中の埼玉みたいなところでバラバラに集合しましょうというかんじ)もたのしかった。絵描きたち結構色々やってるのがわかる。現代の絵描きたちは大変だね。 ハンスアルプとかジムダインとかもみれて楽しかった。ファングッズ作りたい。ヴォルスのあのしょぼしょぼ全開でやる銅版画も大好き。木村定三コレクションの部屋があって小山くんいわく「ハイクラスなフライングタイガー」。タピエス。 自分の制作の合間に名作みたいなのを見れるのはいい影響を得られていいな。そういうふうに誰かの展示と関わっていこう。自分のために見る…!