8月18日
関さんの展示へ。「最近の範囲」か、とおもってカメラロールを見返しながら帰る。ほっこり。6月あたりの写真を見ると、最近かと思ってたら案外前だなというのと、案外前かと思ったら割と最近だなっていうのとが入れ替わったりしている。メモリー的/目盛的(ダジャレだが、ピンとくる)に整理しようとすると6月はあんまし最近じゃないかとまとめてしまいそうになるけど、そういうふうにはしない方がいいかな。4月くらいまでを最近、ということもできるし。3年ぶりに会う知り合いには2021年くらいのことも環境として話したりすることもある。本当にここ最近については、買ってからまだ使ってない物の写真とか、7月に初めて今も継続していることとかは最近のうちに入るか。やめそうにないことは、未来であっても最近という言葉に圧縮して話すことができる。面白い。
それでも最近どうかねと聞かれて今の話をすることはあまりない。少し広い時間のことを話す。それと日記書いてるからこそ、「最近の出来事」をひとに話す時は(日記に書いたことを話してる)(これは日記に書かずにひとに口頭で話すこと)という意識が、出来事が私を通過して言葉に変わる過程に差される。(私が、とも、文が、でも、出来事が、でもなく、主語が私であるままそうでもないような感じで複数になる感覚がある。中動態ってことなのかな、なんかすぐそう既存のってか他の人が見つけた概念に自分の感覚を置き換えてしまうのは、日記という場においては勿体無いという気持ちになる)
日記をもうこうして3年くらい書いていると文書く私の方が全体的に日記化していってるところもある。日々を過ごしながら(これは日記に書こう)と思うことはたくさんある。でも大体覚えてられない。どうでもいいわけじゃないのに忘れちゃう。いろんなこと。作品について、ひととの間にある大事なことも。全部忘れてしまう。でも完全に忘れてるわけではない。それで思い出す。時間をとって書くことは私には結構大事だ。自分に話し直す時間?。出来事に埋もれていく感性を言葉で掘って出してやる。私を毎日の中から出してやる。私が日記化するというのはそういうことでもあるか(書きすぎることで怒りや悲しさが加速することもあり、そういう時は大変。そもそもそうなりたくはないから、人との間にある事は頑張って向き合う、宿題にしないで。ひととの間にあるものは私の中にあるのではなくそのひととの間にあるのだと、忘れないで、うーちゃん)。「私は脳ではない」は読みかけてどこに置いたか。
ひらめきは突如現れて、それで夢のようにサーっと消えてしまう。記憶とは違う、でも近い脳の部分をすこしこすって。わたしはその現れをいつも待っている。去ってしまわないために捕まえられるとき、捕まえる。アイデアは動くもので動物。「思い出せないならそんなに大事なことではない」なんて慰めみたいなのは私にとっては全然ちがう。私には、覚えておくことと思いつくことは関係しているなと関さんの展示のライブイベントを見ながらなぜかおもった(のを今こうして書きながら思い出すことができてよかった)。ライブでは、「最近の写真」がVJされながら「最近のフィールドレコーディング」がミックスされて演奏された。
昨日のオンゴーイングの子ども造形教室で、子どもが大きい画用紙に少し緊張しながら「これ本番?」とたずねてきて、小山君が「全部本番だし、全部練習だよ〜」と返し、出津さんと私は「紙はでかいのも小さいのもいっぱいありま〜す」と続けた。子どもたちはその返しには納得していた(あーよかった)。
日記を公開するのは、公開しておいてアレだけど人に向けてやってんじゃない。全部本番だし全部練習みたいな感じかなぁ(だから公開してるのかもな)。毎日のこと。結構難しいよ、日記を公開しながら真剣に書くというのは。わっしはいつか日記に自分で書いたことを崖登りする。
深夜に日高屋をカフェみたいに使って、からだ健やか茶だけ頼んでそれを飲みながら書いて、それからジムへ行く。