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ウサギについてのシーケンス

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1: (映像、インスタレーション、絵画、テキストによる埼玉近代美術館での斎藤春佳さんの個展<飲めないジュースが現実ではないのだとしたら私たちはこの形でこの世界にいないだろう>に寄せて。) 秤のような装置にシーグラスなどの拾い物を乗せる。他人のエピソードを語る自身の声にリバーブをかける、また二重音声に加工する。そのエピソードを聞いたままではなく独自の詩的な翻訳を施す 。一貫してナイーブな語り口で、作家自身の執着に重力を与えた走馬灯のような映像作品である。しかし、拾い上げた他人のエピソードのひとつひとつに対する執着ではない。 絵画のなかに流れる時間について、モチーフを細かに描き留めスローモーションに再生しようとするのではなく、簡易に拡散するような手付きでとめどなく描くことで過去を過去として扱い、キャンバスの外の時間に追いつこうとしているように見える。過去が去ってしまえば、それらは"現実的にいえば"永久に現在へ追いつかないということを、超新星爆発の観測になぞらえ彼女は語った。例えば50年前の光を今観測したということは、光が知覚されるまでの50年間、その出来事はあり続けたということができるのではないかと。 友人や食器、植物などの日常の断片的な風景をモチーフにパステル調で描いた 牧歌的な作品だが、齋藤さんが見せているのは彼女の眼前に現れ消えていった美しくて愛おしい世界ではなくて、 むしろ拾わずに排除した"それ以外"なのかもしれない。彼女が描いているのは紛れもなく愛おしく眩しい世界なのだけれど、他者には知り得ないナラティブとのギャップから、観客へその影が投影されるのである。過ぎたことがらについて、愛おしいものもそれ以外も今は目の前になく、記憶は褪せてゆくに任せる一途である。齋藤さんが出来事に形を与えるその時に、光が当たり色彩が取り戻され、観客として見る私には光の当たらなかったものの影が投影される。他者が何かを 選び役割を与えたのを目撃するというのは、そういうことであると感じた。 クオリアの話をする時、比喩に比喩を重ねて言う以外の方法がない。 2: 周囲の全て網膜に映し続けるウサギの目のことを思いだす。ウサギの視野は360度だが視力は0.05程度で近眼である。またウサギが寂しいと死ぬと

速度のない鏡像(覚え書き)

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受動のモードが常で、できる限り全部見たい、という気持ちがある。わたしはいつも受け取るところから始める、というよりは始めたいと思っている、か。 行動(を選択すること)とは反動だと感じていて(能動がなんであるかはいまいち捉えられずにいて、今の所は放っておこうと思う。。)それは速度のない鏡像のようなイメージである。自分が若者代表みたいな勘違いを産んだりしているんじゃないかと自分を疑いまくるが、しかし若者が私ではないけれど私は若者である。。。辞書を買おう、と電車の広告のフローを眺めてぼんやり思った。