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忽滑谷昭太郎個展@新宿眼科画廊

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4ヶ月ほど時間があいてしまったが、新宿眼科画廊での忽滑谷昭太郎個展について。作者は30代のHipHop好きの男性であるが、その本人に反してなんだか古い印象のある絵である。黒人文化に憧れ、彼らに親近感が湧くと語る。煌めく白人社会から隅に追いやられるがそこでこそ成り立った音楽がイカしてるという。それを聞いてから絵を見ると、グラフィティのようなタッチも見えてくる。人前に出すべきでないような作品未満と彼自身は呼ぶ作品が飾られた部屋があった。なぜ未満を飾るのかと聞くと忽滑谷さんは「可能性」という言葉を使って話してくれた。自分が判断しきれないもの、自分が切り捨てた物を誰かが拾うかもしれない、ということであった。美術史の大きな流れの上には乗らずとも絵を描いていた人々はたくさんいるだろう。彼自身もいまその一人である。そもそも"美術史"とは、何であるか。歴史は現在から観た、過去である。60年代は反芸術運動で70年代はもの派で..などとくくってしまうのは簡単であるが、それは私たちの身に覚えのある、歴史だろうか?日本には文化的空白がある。奥行きの無い芸術経験のなかで唐突に"前衛"と言って西洋に負けじと美術に対しての表現をやっていた彼らは、あまりに稚拙だったように思う。前衛の、"前"たるものを持ち合わせていないのだから。絵画や彫刻へ対してのアプローチではなく、絵画や彫刻に並ぶ表現の一つとして、あのような表現活動に至ったのだ。経済やテクノロジーは急激に進歩しても、文化はそうはいかない。過去に忘れ物でもしてきたかのようにさえ思える。絵画は刻々と変化し続ける現代について行くには、あまりに時間のかかるメディアである。絵画を描くことは、そのまま過去の忘れ物を探しているように思える。絵画とはなにかという西洋美術史で言い尽くされたこととは別次元で、日本においての絵画の在りかを模索しているのだ。(オペラシティにて行われていた忽滑谷さんと同世代の画家を集めた「絵画の在りか」展についてはまた後日書く。)