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灰をつまむ指

こぼした煙草の灰をつまむ指の所作は、頭が指令を出し身体を動かす。 「やさしくつままないとつまめない」 感情とは別の回路でやさしく接することを義務化させられた感じだった。 これをたとえば映像作品でみたら、死や葬式を連想させるものになるだろうか。灰をつまむ指の所作とその頭の指令だって、煙草の灰だから機械的だったけれど、家族の骨灰なら違うかもしれない。 しかし末端のやさしい所作は同じだ。 ふだんからやっていることなのだと思う。それがモラルというものなのかもしれないし。やさしくしたい人にもそうでないような人にも、同じような顔をして話しているのだとしたら、なんだか恐ろしいようにも滑稽なようにも思える。それでも、その'そうでないひと'にあの繊細な手付きで接するのならば、そうした末端のやさしい所作は悪い事のようには思えない。 熱いやかんに触れて引っ込めた手に、遅れて熱さを知覚するのと同じように、末端が先で思考が後から追いつくこともある。 火傷を負い、どうしたのと聞かれるとこのヤケドはね、なんてひとに話したりするところも似ている。きつく握ったりしなくてよかったと思うのだ。浅ければすぐ治るところやかゆかったりして気になるところも似ている。深手を負うと死に至ることもあるのかもしれない。 カッとなって灰皿をぶん投げることも時にはしてみようかと考えてみるけれど、そんなことは考えてからやるようなことではない。 灰の指ざわりは、つめたくてやわらかかった。私の骨灰も同じ指ざわりだろうか。