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メモ抜粋3

全てを忘れようとすると全てを思い出す、この脳みそが憎い。 「忘れなさい」といわれた途端に記憶されてしまう。脳みそを持て余しているように思う。 チンパンジーは「今ここ」の記憶力の面においては人間などよりはるかに優れているという。しかし例えば、四肢をもいだとしても、杞憂することはない。明日のことなど考えないのだ。それが動物である。 千角形が隣の部屋にあると想像することができるが、千角形(千一角形とは異なる)を想像することはできない。 存在の確実さ不確かさ、言葉の強さ脆弱さ ただそれだけではないが、しかし考え出せばそこには沈黙あるいは混沌がある 表裏一体とはよく言ったものだ。 捨てなさい 想像しなさい いわれてからすることの、難しさよ 気づいたときにはもうすでに息をしていたのだ。考え事をしていたのだ。 思い出すことを思い出す。すべては入れ子式になっている?

メモ抜粋2

「ここから先は無菌室です。何も持ち込まないでください。武蔵野美術大学とは関係のない空間です。卒業制作展とも関係ありません。小平市にも所属していません。」 (自分も含めた)みんなが、等しく同じ経験をするのは不可能だろうか。 生まれた瞬間から違う人生を歩いている。しかしその人生たちを一瞬だけ束ねることはできないだろうか。不可能である。しかし、不可能という点では同じだ。 あの時、わたしはボールペンで紙に絵を描いていた。わたしはペンを縦横無尽に走らせることができたが、360°にしかいけないこともまた事実であった。ボールペンを手放してみた。絵を描くことはできなくなったが、360°とインクから解放されてなんでもできた。恐ろしく、自由であった。 大海原にひとり取り残される想像を、よくする。それは、ものすごく怖い。周りに何もなく、空と海がつながって見える。夜はただ黒いだけになる。目をつぶっても、つぶらなくても、同じ闇の中だ。しかし頭の中ではきっといろんなことを考える。家族や恋人や友人のこと、それも含め社会とつながっていること・・・。それに、明日のこと生きるためのことご飯のことなども考えざるを得ないだろう。そこは、何次元だろうか。見えないものを見るときそこはどこなのだろう。(わたしの走馬灯に登場する全員を別々の大海原に連れて行くことはできるだろうか。)

卒業制作展のためのメモ抜粋

「禅」 禅、全 目の裏側に宇宙を見る。精神を清める、雑然としている世界を遮断する。 遮断の先にあるのはなにか。広大な暗闇か?無とはなんだろう?無を感じることはできるのか?無を見るとき「あ、無だ!」となるだろうか?その瞬間、無でない何か(つまり全てのこと)が現れる。ここが例えば表だとして、全てのことを裏返してみる。 「集中」 集中する、とはそのことに視線の全てを注いでいるということで大方間違ってはいないだろう。 「目の見えない人のための美術」 彼の世界を見ることは可能だろうか。 「耳の聞こえない人のための美術」 彼の世界を見ることは可能だろうか。

手紙1(ある手紙に寄せて)

お元気ですか。こんな場所にですが、いい機会なのでてがみを書きます。 ここ2年くらい、毎日の過ごし方が少し良くなるといいなという具合で 美術の作品を作っています。今の生活のほとんどがそれです。 応援してくれたら嬉しいです。 あなたと離ればなれになってどのくらいでしょうか。わたしはいつからだったか、 不安になると必ずといっていいほどいつもあなたのことを考えます。宗教信者が 神様にそうするようにして、考えます。そしてそうするとなぜかうまくいくような 気がします。だからこんなヘボなわたしが健やかにやれているのは あなたのおかげだと心から思います。いつもありがとう。 肩車されてみた水色と赤の大きなものが動いていた祭りの風景、 錆びた非常用の螺旋階段、丸い模様のついた急な坂道、みどり色の蛍光灯が光る 病院の売店、細くて暗い急な木の階段、 オレンジ色で柔らかくて少しベトベトした食堂の床、銀色のナフキントレー、 子供用のイスと絵本が置いてある青いカーテンの部屋であなたへの手紙を書いたときに 想像した長い階段に扉が付いている風景(その時に書いた手紙は絵ばかりでしたね)、 クッキーの空き瓶をポストにしたちいさな手紙だけは鳥に荒らされなかったねと褒められたこと。 ごく断片的にですが、いろんなことを思い出せて嬉しいです。長くなってしまうので、この辺でやめにします。またね。 彩佳より −−ある手紙に寄せて。

丸クラ遠足でみた展示の感想2つ

原美術館 「アートスコープ・旅の後もしくは痕」 ドイツと日本の交換滞在制作プログラムの成果発表。 リタ・ヘンゼンはとても素直な作家だと思った。身の回りでおこる些細なことに面白みを見出すような作品。たくさん並べてあったドローイングは 一緒に行った絵描きの何人かはありふれているとディスってたいたが、ドローイングとしてみるのではなくメモとして見るのだろうと思う。ドローイングとメモでは似ているようでかなり違う。絵描きは絵を絵としてみる傾向にあるのだろうか。。ネタバレになるけど、足元にこっそりと忍ばせた愉快な小作を見つけたときのにっこりしてしまう感じは、散歩の中に見つける面白いことのよい再現だった。作品としての強度は低いけれど妙に力の抜けた(日本人の若手の作家であれば原美でやるとなったらもっと意気込んでしまうだろうと思う)物の見え方をピースフルに変えるようないい作品群であった。彼女は日常の中に隙間を見つけている。その隙間とは、すなわち彼女にとっての芸術体験であり、素晴らしい絵画や彫刻作品がひっそりと転がっているのであろう。その伝え方が上手い。同じような体験を私自身よくするし、作品でそれを伝えるのに苦戦していたところだったのですごく勉強になった反面これよりいい作品を作らなければならないとおしりぺんぺんされた気がした。 今村さんは繊細な記憶をゆっくり呼び起こされるような作品だった。ロマンチックすぎてちょっとだけ恥ずかしい気持ちにもなった。たまに部屋でひとり電気もつけずに黄昏れて酔いしれたいような時ってあるでしょう。そんなのを、思わずやりそうになった。あの日は恐ろしいほど空いていたからよかったけれど。危なかった。。 --------------------------------------- 野村和弘 「笑う祭壇」/gallery21yo-j ボタンを投げて小さな土台に乗せる。お祭りのゲームにあるような単純な遊び。体感型のインスタレーションで、床にはそれまでのチャレンジャーの苦戦が無数に散らばっていた。ボタンは素材も形も大きさもてんでバラバラなので何度やったってなかなかコツがつかめない。その作品の前では誰もが平等な気がした。以前やった相撲の作品を思い出した。初めまして同士の戦いはなぜかにっこりしてしまうし土俵の中ではだれもが平等(実際の相撲には八百長

忽滑谷昭太郎個展@新宿眼科画廊

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4ヶ月ほど時間があいてしまったが、新宿眼科画廊での忽滑谷昭太郎個展について。作者は30代のHipHop好きの男性であるが、その本人に反してなんだか古い印象のある絵である。黒人文化に憧れ、彼らに親近感が湧くと語る。煌めく白人社会から隅に追いやられるがそこでこそ成り立った音楽がイカしてるという。それを聞いてから絵を見ると、グラフィティのようなタッチも見えてくる。人前に出すべきでないような作品未満と彼自身は呼ぶ作品が飾られた部屋があった。なぜ未満を飾るのかと聞くと忽滑谷さんは「可能性」という言葉を使って話してくれた。自分が判断しきれないもの、自分が切り捨てた物を誰かが拾うかもしれない、ということであった。美術史の大きな流れの上には乗らずとも絵を描いていた人々はたくさんいるだろう。彼自身もいまその一人である。そもそも"美術史"とは、何であるか。歴史は現在から観た、過去である。60年代は反芸術運動で70年代はもの派で..などとくくってしまうのは簡単であるが、それは私たちの身に覚えのある、歴史だろうか?日本には文化的空白がある。奥行きの無い芸術経験のなかで唐突に"前衛"と言って西洋に負けじと美術に対しての表現をやっていた彼らは、あまりに稚拙だったように思う。前衛の、"前"たるものを持ち合わせていないのだから。絵画や彫刻へ対してのアプローチではなく、絵画や彫刻に並ぶ表現の一つとして、あのような表現活動に至ったのだ。経済やテクノロジーは急激に進歩しても、文化はそうはいかない。過去に忘れ物でもしてきたかのようにさえ思える。絵画は刻々と変化し続ける現代について行くには、あまりに時間のかかるメディアである。絵画を描くことは、そのまま過去の忘れ物を探しているように思える。絵画とはなにかという西洋美術史で言い尽くされたこととは別次元で、日本においての絵画の在りかを模索しているのだ。(オペラシティにて行われていた忽滑谷さんと同世代の画家を集めた「絵画の在りか」展についてはまた後日書く。)

ラテンアメリカ、MOTアニュアル感想

驚くべきリアル展とMOTアニュアル2014 ラテンアメリカの強い政治性を直接的な手法で提示している、濃ゆい展覧会でした。中でも クリスティーナ・ルカス「君も歩ける」( 映像作品)は、かつて女性が愛玩動物のような扱われ方をしていたが、女性や男性が今犬たちがよちよち歩くのを笑って可愛いと扱うのは女性は今や昔の男性も同然なのでは、というような説明がついていた。映像の冒頭に女の人の語りが入り、その後に犬の歩くシーンが続くのだが、ハッピーでおちゃらけながらも不穏であり、とってもとっても勉強になった。「リマ現代美術館」という架空の美術館を提示した作品もよかった。ミュージアムショップで扱っているものもリアルでしかもおしゃれで欲しくなった...南米の政治に対して明るくない私でも十分に伝わり楽しめて素晴らしい作品郡だと思った。見応えがすごい。というか、こちらが読み取ろうと深く思考を巡らせることなく作品を見せてくるテクニックの高さに驚いた。勉強になる... 対してMOTアニュアルはすごくドメスティックで詩的な作品が多かった。福田尚代さんはコンセプトとしてではなく文章を扱う、すごくすごく女性的で、手元指先で作業しているのが想像できる、静かで素敵な作品を作る方だなと思った。小さなそれらの作品は心の琴線にそっと触れてくるような作品で、海で貝殻や小石やガラスのかけらを集めて歩くのに似ている。自分の中の大切なことそっと手の中に集めるような...MOTアニュアルの副題は「フラグメント」で、これからつながって行くであろう表現世界のその末端やそれこそ"かけら"的な物を集めている展示だった。ゆったりとした空気が流れていて作品も精度・純度の高いものが多かったが、しかしラテンの熱い展示の隣ではおとなしく物足りなさを感じた。 福田さんは今ミュゼでグループ展「秘密の泉」をやっているので観に行きたい。8/11迄 http://www.yamasa.com/musee/exhibitions/20130518-0811/

不安は突然やってくる

不安は突然やってくる。 知らない誰かがつかまった、つり革がイヤだ。並んで座るこの人たちがイヤだ。例えば、電車にこうやって乗っているうちに、お父さんやお母さんは悲しんでいないだろうか。幸せだろうか。不安は突然やってくる。 いつだって、目の前にはいない人のことおもっている。手も足も投げ出して、自由に飛んで行けるのはその人たちのおかげである。 時間と身体はここにちゃんとあるだろうか… 不安な時には床を確かめるようにして歩く。今夜安心して眠るために。

かせんてん

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そういえば、5/7-5/10で学校の展示室でグループ展をやりました。 はこちゃんとよもにゃんといデザイン畑のキュートな二人とやりました。 展示名は「課セン展」で日常の寄り道をテーマに作品を出しました。 はこちゃんの枕と、よもにゃんのpfのジェットコースタースツールが好きでした。 しかし、展示空間の作り方が下手でせっかくの作品が見づらく微妙な展示になってしまったね。展示しながらよく見える工夫をもっとするべきでした。反省.... デートスポットは去年の習作のリバイバルでした。「デートスポット」という言葉とコンセプトだけあって、あとはなんにもないまま当日を迎えてしまって展示室をいじくりながらできた即物です。じぶんでもまだちゃんと完結できていないのでもう少し時間をかけて、あと場所を変えて、やっていきたいな〜。その場で自分の行為によって場が変わって行くのがすごく快感だと気づけてよかった。 ねこのシールは好評でしたが、猫の死だけに話がとどまってしまって悔しい。 もうすこしリアルを感じられるような作品になってゆくとよい。 作品がすっとぼけすぎて真意が見えないというのが自分の今後の課題です。

ホームレス

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路上に放置してたら、ホームレスみたいな感じだったり、なんだこれ?ってなったり、みちゃいけないけど見ちゃうみたいなものだったりそういう風に見えるのに、美術館に入ったりして美術作品!!!!ってなった瞬間その危うさみたいなのが消えてしまう気がしてる。初号機ちゃんが捨てられたのもきっとそういうのが関連していると思う。捨てられたのは、ショックだったけど同時に嬉しくもあった。 スゲー作品だ!!って風には、どうしたって見えないけど、それでもライトアップされたりしたら自分で発光してる(見た目的にも性質的にも)のに、それが見えなくなりそうで…とかね。路上に放置くらいがいいよねって思う。どうやったら、やって行けるだろう。
そのばでまにあわせながらつくる

自己紹介、コミュニケーションについて、メモ

美術がコミュニケーションツールなんていうやつは云々という話をこないだ松井君はしていたけど、わたしは人と話すのも好きだし新しい出会いも大好きだけどそれでも作品が一番他人と繋がれると思っている。 作品があれば自分が強くなれるし、何を話したらいいかわかるし、ちゃんと自己紹介できる。 名前生年月日所属やなんやってそんなこというの野暮だ。コミュニケーションが何をさすのか、って話でしょうと思う。ただ話すだけでいいならこんなことしないって本当に思う。美術は趣味にはならない。なぜか湧き出てなぜかやってる。そういう、核心みたいなものを交換するのがコミュニケーションじゃないのかなあ。。

中村一美展

まんなからへんのオレンジと深緑の有機的な大きいペインティングが忘れられない。春風に足をとられて腰を押されて、歩くような感じがした。柔らかい布で被われた、風や空間が視覚化したのがちょうどあんな感じたった。そんな風に、気持ちのいいペインティングを丁寧に丹精込めてやっている彼の気持ちに想いを馳せずにはいられない。純粋なペインティングはロマンチックだ。 絵画の古さ、画風とか素材 古いとか新しいとか そんなことは論じたって仕方ない。 絵画はなんのためにあるのって思った。

不安定なことのメモ

静かでぬるくて お腹が冷える むかしのこと  双子、寝間着にマスクの女の子 寒いところから来てまた帰ってく  また来るんだって へんなの。

空デの

make up(空デ太田ゼミ1) 設営がすごく綺麗です。 光も設置も丁寧で驚いた。さすが〜 写真は合成に頼ってるものが多く、せっかくものを作れるのに合成するんじゃ勿体無いと思った。 ヘッドドレスは写真からの再現性が低くもっと見せ方を工夫した方がいいと思った。 何様だよという感じですが、もっといけるんじゃないかって思ったので次に期待。 のんさんといいのさんのがよかった。 ふたりとも写真がうまい。構図が抜群にいい。 紅、坐、というタイトルもかっこいい。 メイクも綺麗で実際に見たいと思った。 ふうー

鏡、夢みたいなこと

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写真や窓なんかに、沢山映り込んでるのすごくすき DM用にはこちゃんの持ってきた写真もそうだし、前にしもみーが描いていた夢の世界みたいなの 写真は、ツイッターより転載。@からあげ

宮沢賢治「注文の多い料理店(序)」

わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。 またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。 わたくしは、そういうきれいなたべものやきものをすきです。 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。 ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。 ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。 ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。 けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。
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Bガールも電車に乗る つり革につかまる   そんな簡単なことすら、想像できなかった      落ち込むのはまだ早い   サングラスかけて、鼻にピアスをして、 つり革につかまる彼女  きっとあるはず なにかが起きる 期待しよう 充実した彼を想う
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楽しいこともいっぱいあったけど、 おかしいと思うことの方が多かったってほんとそうだ。  わたし他人に何を求めているんだろう。
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最近眠りが浅い割に寝坊する 寝坊はいつもだけど…  この手の持ち主は疲れているように見えたしうんざりしているようにもみえた わたしもそう見えただろうか?緑色の照明なんてなかったはずだけど写真には不安と期待のグリーンの明かりに照らされた力ない親指が写ってる。 深読みする必要はないのだろうけど、わたしはどうしたって考える。絵画に触れたあとならば尚更。泣き目の真似をした化粧が目にしみて、間もなく本当の涙をこぼす
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ひかりのなかで目を細める。 見えるもの、見たいもの  と 見えないもの、見たくないもの えらぶこころの在り処 わたしのからだの在り処 痛んだ葡萄を選んで捨てるようなこと ことばの、見たいところだけ  ほんとうのことば、そのなかみ  そこだけを、どうにか探さなくっちゃ やることはたくさんある! これで年を越せる よかった
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MOTコレクション展がすっごく良かった! 冨井大裕さんとお話ししたいな。高柳恵里さんの雑巾のシリーズも良かった。簡単に捨てられてしまうようなものを選ぶのは大切なことだと感じた。生活に寄り添うようなものを。誰にでも起こりうること。単純に面白い。見る世界が変わるような。ああそうかこんな面白い街だったのか。家だったのか。身の回りが愛しく思える、気づかなかった輝きを共有する。そんな幸せの広がる作品はすてきだ。 ドイツの作家の遊撃のダンス?は私から見たら消防車でつがいの鳥の求愛のダンスを思い浮かべるのはわかるけれどやっぱし消防車だから、あんな風にテキストに説明されたってなんだかなあという感じ。うさぎスマッシュ展キュレーターの美術に親しんで欲しいという気持ちがこもりすぎて、お節介な印象がした。テキストが邪魔すぎる。うさ耳付けて見て回る光景はハッピーな感じがしてよい。