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2024/05/10

日記のタイトルの日付を入れる時、「きょう」と打って予測変換に出る今日の日付を選ぶ。年始に引いた「凶」のおみくじには、待ち人来ず、と書かれていた。待ち人って何なのだろう。自分のことだったらどうしよう。自分がどこかへ行ってしまって、待っているのに現れないというのを日記で少し感じる。日記の本のタイトルも決まらない。 黒いワンピースの上に、誕生日に買ったピンクのシャツを羽織って出かけた。広くて明るいところで立っていると、連れ合いが待ち合わせに現れた。 マティス展。絵の具で塗った紙を切っていたんだ。知らなかった。色紙を切ってるんだとばかり思っていた。みながら、これまでに書いた日記を切って作品を作ることを想像した。絵の具が文になる。古筆切にも関心がある。どうやって日記を扱っていこうか、やめようか、と、最近ずっと考えていた。 ケーキ屋へ入りココナッツのフレーバーティーとチェリーのチーズスフレを頼んだが、ケーキがデカすぎて三口分ほど残した。連れ合いは苦労して完食した。ケーキを残すのは初めてかも。贅沢な。 シアスターゲイツもみた。入り口の文によって眼のムードがしっかりゲイツに同調したようで、その文のあとすぐ最初のとこにあった木喰上人仏は、ブラック仏彫刻に見えた。掛け軸に詩(いや、なんだっけ、和歌かも)が、細い筆でするするクルクルとなんとも気持ちのいい運びの字で(読めないけど、)書いて/描いてある作品。でかい壺に日付と場所が書かれている作品。そういうアーカイブと関係する作品のコレクションが続く。ああ日記。手書きか。掛け軸。壺。ああ。都市と人種と時代の膨大なアーカイブ。ああ日記。私は自分のことばかり書いて、それでいいのだろうか。もっとなにか、自分のことを書くにしたって、こんなしみったれて拗ねたようなもんじゃなくて……。 膨大な蔵書のライブラリー空間にはファイルの本もあった。ノート状のを見つけては開いて手書きのものを渇望し探したが、そういうのはなかった。印刷された本。ファイルされた資料。手書きの本。雑誌。参考になる。レセプションでDJもあったのだろうな。いいなあ。展覧会的な催しとプロジェクトは合わない。アーカイブにする以外に方法はないし、美術館に来るだけの人はなんか知りたいだけで実際に何かしたいから来ているんじゃない。美術館が現場である必要はない。整えてシェア☆て感じだ。あいトリの時の常滑

2024/05/09

少し前、来客が私の本棚からスッと取って読み始めた本を見た時、「その本を取るなんて、さすがだよ(CV種崎敦美)」と内心思い、その迷いなき選びようにうっとりしたものであったが、自分の本棚には大体面白い本のみが収蔵されているに違いなく、どの本を取ったとしてもうっとりしていたであろうよ。 テレビにはあまり出ない芸人がやってるYouTubeチャンネルで優しくされるの気まずい、やめろ!と言ってるのをみて、うわー、となるほどねーのデュアルな思いが立つ。コミュニケーションの雑さ厳しさズレをボケに変換したいコミュニケーションね。ツッコまれる空間を作ることがそのひとの周りにあるものなのだ。傾きを作り、複数人の中で中心になる話術。職人。芸人ってそういうことをしてるんだね。ふーん。 関係ないけど、4月にやった展覧会のアーティストトークで、展示室で作品見ながら笑っていいのかという話題の中で、笑うとそれまでの継続が途切れるし身体が震えると感性が変質するって言った。

2024/05/07

「現代アートの勝手口」の搬出して、BUGのスピルオーバー展のオープニングに行った。低気圧と人疲れであたまいたい。明日は多分疲れてだめだ。みんなおしゃれしてていい感じだったな。体育みたいな格好で行ってしまったことが悔やまれる。 昨日の住友さんについてのツイートを見たよと、パーティーで宮崎さんが話しかけてくれた。展覧会の建て付けはアラーそういうことねー、恐ろしいよねー、ということでしたけど、作品はめちゃ良かったよって言ってもらった。2時間弱の尺ないとうらさんの身体が街に対して変わっていく様が見えるようにならないですよね、やーほんとまじ良かったす!と言ってくれてめっちゃほんとうに宮崎さんまじでありがとう。すごい大事な作品をすごいちゃんとみてもらって本当に嬉しい、何よりも嬉しい。至高の気分。 BUGの展覧会は、物と音と光で空間を拡張することが示されてた。明日は良いスピーカーを繋げてシンセで遊ぼうと思った。 長谷川白紙がアー写更新。顔出しすることについて嫌悪と恐怖があること、この写真は安心する状況で成立したものであること、そしてこれまでどっかで写真を撮っていたとしても気にしないで、写真撮られることを嫌悪してると言ったのはこれが初めてのことだからと長めの文を投稿していた。今からはこのことを知っておいてほしいということでもあるのだろう。開示してこなかった肝要なことを、こういうふうに話すことができるんだ、とおもった。手紙のような宣言文だった。

2024/05/06

父方は7人だか8人だか9人だかの多兄弟で、父は双子の末っ子である。祖母の身体を想像する。父の生家は火事で焼けてしまい、祖母はその火事とは別の時に死んで久しい。母方の曾祖母も同じく多産家族の母親であり、7人産んでいる。末っ子が七郎という名なので明快である。曾祖母、彼女は98歳で20年前に死んだ。この2人の女だけでおよそ15人もの子を産んでる記録があることがなんだか恐ろしい。その孫、ひ孫として私が生きてるのだと思うと途方もない気分になる。 == 何にもならなさすぎる時間を過ごし、失敗とかもしよう。失敗できる関係も場所もそう多くはないし、信用して甘えていこう。大体うまくいかないのは、スケジュールのプレッシャーだし。とりあえずなんかして、あきて、やってみたけど何にもならないかー、別のことしよーでも今日は寝よーとかっていうのが、ちゃんと過ごすということだ。それをなんかもうちょい取り回しのきく言葉に置き直して、展覧会のタイトルをつけたい。 日記がよくないんじゃないかというの、最近2人から言われた。そうなのかもしれない。書くことでちっさい穴をほじくり回して穴を広げてるんじゃないかというのと、フィードバックが強すぎてその中で完結するので作品にならないという2つの言い方によって。ぐうの音も出ない。 言葉が言葉をつれてくる何か書く魔力みたいなものに取り憑かれてしまって、言葉が私を作り替えている(漢字は、替えて変えて、どっちだ。まあどちらでも構わない。convertの感じ。差し込んで別のものが出てくる。私が文自体になっていく。日記はそういうものか。怖いな)。日記を毒牙で刺し殺す、ハリーポッターの個人的な名シーン。 ああソンタグと友達になりたかった。ソンタグと恋バナしたいわ。いや、しているか、すでに。

2024/05/04

家族に会いになぜか埼玉の辺鄙なところへ行く。小川町というところだ。こないだ都営線の小川町駅を調べてたら小山君がぽつりと埼玉の同じ名前の駅のことを言っていたが、まさかこんなすぐにその駅の名前をナビタイムで調べることになるとは。行きの電車で植本さんと滝口さんの往復書簡を納めた「さびしさについて」を読む。だれかと手紙のやり取りがしたくなる。植本さんが中3の時に受験について考えていたことと、その子どもが中3になり受験のことで悩んで色々決めようとしていることなどが少し書かれているところを読んで、「わたしは何か分岐に立ちどちらかを選んだりあまりしてこなかったな。諦めたり、なにかものすごい挫折をしてそこから立ち直ったりをしないできたな。」と、ひとの話を読んで、自分のことを思い返した。 正直なところ、家族に会うのにわざわざ遠くへ行ってそこで家族のもろもろをするのって変だとおもう。だから苦手だった。昔大学生のころにも、うねとそういう話をしたことがあった。 これまで仲良くなった友達の何人かは、親のことを下の名前で呼んでいた。そういうのがあるんだ、と小学生のころ転校してきたナナの家に遊びに行った時おもった。そういえば中学のころ帰宅した時に、私がナナの母氏から借りた「ホットロード」を誰かが(たぶん母だ)読んだ形跡があったのを、そういうのいいねーとおもったっけ。ものすごくちっちゃな記憶の類だ。「崖の上のポニョ」をみた時に映画の中の親子関係が名前呼びだったので、ナナんちのやつじゃん、と思ったこともあった。うねんちもそうで、そのときにはポニョんちのやつ、とおもった。わたしは高校生以降父母のことをなんて呼んだらいいかわからなくなってしまって、なるべく呼ばないで済む文法を採用しつつ呼ばざるを得ない時にはトチャン(父ちゃん)、ママ、と短く、口をほとんど開けずに言うようにしており、いまだにそうだ。恥ずかしいのだ。なんとなく妹と父、弟と母がわりと仲良く、わたしはなんかちょっと浮いてるっていうか。いまいちずっとうまくやれないままでいる。 家族のLINEグループへ、なんか「向かってます!」というのをスタンプで送ろうとして、何なら変じゃないかな?と少し悩み、忍たまを父は知らないかもしれないのでドラえもんを送る、ということを繰り返しているけれど、忍たまのことを教えてあげたっていいよなあと思ったりしたんだよね、とい

2024/05/03

なんか「あだ名で呼んでもいい?」とか「そろそろ敬語やめていい?」とか「一緒にzineつくらん?」とか。そういう感じになること多いな、人と。友だちってこと? 2年ほどかけて界隈?の若年化をすすめていきたいかもしれない、活性すれば仕事は増える…そのインフラ仕事なら頑張れるかも。つうかアーティストとしての仕事の横でやりたかったのはそのような仕事なんだった。学びに行かなければ。。 昨日した展示設営の手伝いの仕方について、ちゃんと失敗できる余地を残しながら、しかし初めての展示がうまくできたその嬉しさだけで作って発表するのを続けていくかもしれないというようなことを思うとどう手を貸したものか悩ましくおもった。 なんかもっと全体的に引いた目線で見て生きたい。。。。水槽の大きさの分だけでかくなる魚みたいに自分のこと感じる時があるけど、そんなこと思う程度には一生懸命やっちゃってる。素直すぎる。そんな全部必死になってやらなくていいんだよ、うーちゃん。

2024/04/30

文が長すぎてすごいパニック状態だだもれだよなという話をした。放っておけばいい事実に近いことの確認へとかなり確実な足取りでひたすすんでいて本当に大変そうだという。嵐のような心の動きを全部キャッチしようと頑張ってる。自分に興味ありすぎだろ!擦り切れるように悩んだら物心もあらたについた。自分のユニークネスが見えた。 BOATが前に、この作品はいいけどうらぽくない、良いけど誰でもできる、考え込んでイメージが変化するのが挟まってないよ。というような感じのことをアイス屋さんの作品に対して、作った瞬間いってくれた。それをようやく挟み込む季節到来したかもしれんな。具に言葉にしていこう。 平易な言い方で伝わることを第一に言葉選んで話したら、めっちゃ気が楽で中学生に戻ったみたいだった。こんなふうに自分の気持ちを話せるんだーと思って驚いた。言葉のプロダクトな側面。気楽さ。 「地元の友達」のストーリーズに子ども連れで知ってる人たちが次々登場する。てかそのジモ同士が結婚して子どもまでいるようで、みんなで厄落とし行ったみたいなことが書かれていた。同じクラスの女全員が厄年だ。なんだかおかしいな。やっほーわたしはエンジェルブルーの靴下履いてポケモンやってるよー。