月だ

以下は2015年に寄稿した、月に関するエッセイ?創作?なにこれ。。
とにかく、今日は満月だから。もう在庫ないらしいですこの本、100冊しか作ってないから。


☆☆☆

言葉製望遠鏡を覗く Vol.1「花は見るだけ 写真は撮るだけ」

「花は見るだけ、写真は撮るだけ」とは「言葉製望遠鏡」の今号における副題であり、ディレクターの小磯さんがとある公園から拝借したという謎の標語である。
ここにわたしが書くのは「言葉製望遠鏡」を覗き見つけた、遠くでちらちらしている点についての観測記である。

<花は見るだけ>
「花とるな」という薄い鉄板に赤く手書きされた看板を、田舎の私有地とも公有地ともつかない空き地で目にしたことがある。立て看板の奥を覗いてみると、草が青青と茂っているところへ申し訳程度に花が咲いているような草叢であった。わたしの来る以前は花畑だったのを花泥棒に引かれたのだろうか。「われが名は 花盗人と立てば立て ただ一枝は折りて帰らん」という短歌がある。こう熱っぽく言われてしまうと花泥棒が凛とした存在に思えて、彼を泥棒と責め立てる方が筋違いのような気さえしてしまう。しかし看板の製作者にいわせればそんなものは開き直りでありもしひとりでも許せばそれでは僕もやれわたしもと次々湧き出るのが花泥棒である。困り果てた持ち主が講じた策が「花とるな」の立て看板なのだ。手書きされ年季の入った「花とるな」からは、花泥棒に対する懇願とすらいえるような、純粋なる警告を感じる。
ところで「花とるな」という語は、音にすれば「ha-na-to-lu-na」である。さらに半ば強引に文字に起こすと「花とルナ」が現れる。ルナとはスペイン語やイタリア語で月の意だ。lunaがやや青白く欠けた細身の月を思わせるのは気のせいか。洋物の月は欠けていて顔が付いているのが相場で、そこへ腰掛ける男女が付いてくることも多々有る。「花とルナ」が少々不自然な印象を我々に持たせるのは、そういうちょっとこそばゆい輸入ものの空気をまとっているからかもしれない。ちょっとは耳慣れた「moon」ですらないことが、拍車をかけるのだろう。
海水が月の引力によって周期的に満ちたり引いたりすることを「潮(ちょう)」というらしい。満潮だねといわれれば「ああ満潮か」と納得するが、月の引力で海水が満ちているね、だとキザなやつだなと思ってしまう。正しく科学的であるはずなのに感傷的なポエムのような気がするのは遠回しに言うせいだろうか。また「lunatic」とは英語で「狂人」を意味するが、「月がひとを狂わせる」のは大昔から有る俗説である。しかし人工知能が人類を脅かす日もそう遠くはないような科学の発展の目覚しい現代ですら「それは俗説にすぎない」と断言できないのは、予言やまじないの類と、引力や、物事が連鎖することとの差異を明確に言葉にできないせいだろう。我々の体の中にある水を引力が波立たせるのだろうか。「わたしは海」とは幻想的なポエムの書き出しばかりでないかもしれない。それすらも定かではないのだが。
「花とるな」から見える花と月というロマンティックな組み合わせの細部をよくよく見れば、その月には狂った男女が腰かけていた。そこはちゃぷちゃぷと小波の立つ、湿った砂浜で、ほのかに明るく風のある夜の海辺だったのだ。花はやはり申し訳程度である。
そして看板の純粋な警告は「撮るな」でなく「取るな」であると確信しながら写真を撮ると青々と茂る草叢ばかりが写った


<写真は撮るだけ>
写真を「撮るだけ」にとどめるなど無理なことである。フィルムであれば現像しなければならないし、他にも人に見せたり、飾ったり、また失くしてしまったりと、もう本当にいろいろなんでも成ってしまう。もちろんそれは写真に限ったことではなくなにかが起これば物事は必ず連鎖するもので、例えば風にのった花粉にわたしがくしゃみすれば部屋の空気が振動しそのはずみで風呂の桶が落ちて壊れると、翌日わたしがまんまと桶屋へ買い物に行くことになる。思い返せばすべてつながっているような気がして予言のような何かとんでもないものに触れてしまったと、あたまが一瞬ボ~ンと鳴るが、しかし実に当たり前のことのようにも思える。私たちの世界には、そういうだんだんとよくわからなくなってしまうような仕組みがあるのだ。連鎖の仕組みはしりとりみたいにどこまでも続く。「ん」を避けながら、しかし有象無象の事物がどこかにあるひとつの点のような「ん」へ向かって続いている気もする。そこは風の吹かない場所だろうか。しりとりのあとでなにを喋ればいいのか、すこしだけ沈黙した。

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なんどもすみません。よろしくです🌞
うら