好意

「うらさんのことだいすきです」と年下の女の子がさらりといってきた。これが喜びなのかと、ことばを身体で感じる。ああ嬉しい。嬉しいと伝えるには嬉しいと発音するしかないのだろうか。言葉は遅い。

さらりとした「好き」という言葉の響きは興味深い。
「好き」ということばには、自分から発する鋭さや重さのある、伝えるための「好き」と、暑いとか眠いとかみたいなのと同じような「好き」があって、わたしが使う「好き」は大抵の場合後者だ。人に対して使う「好き」ということばに悩みや欲求の混じったような情熱がそう乗らず、黄色とか入江とかが「好き」なのとおんなじ「好き」の発音をしている。昔からそうで、それでも昔はちょっとそれらしく「好き…」とか言っていたけれど、最近は発音と意味に詰まって、丘の上で両手を広げて一緒にぽけーっとしたいですね、とか言っている。喋ったり触ったりしないでいいという気持ちを込めて言うのだ。これが好意でなくて、なんであるか。しかしなぜか「好き」ということばにはその気持ちを込められないのだ。二文字では短すぎるのだろうか。「好き」ということばの持つ質量がうまくつかめない。

年下の女の子の使った「好き」は、黄色や入江に使う「好き」と同じであった。恋愛感情のない「好き」ということばは、なんて気持ちいいんだろう。