2023/09/06

展示見てないのに展示のこと批判することについてのメモ(それと鑑賞ー者について)


まず前提として作品制作や発表は市民活動。そこに、美術という学問や美術館という制度が接続する。制度ありきの活動ではない。順番が逆。美術という制度の中でステータスアップするゲーム=アートではない。


展覧会=いくつかの作品を並べている空間、ではない。無鑑賞者空間は通常の意味で展覧会とは呼び難い。開催する場所があり、日時があり、それを広報し、そこにひとが出入りする環境を設えることが、作品を並べるよりも先立って展覧会を作る。日時と場所とタイトルと出展作家という情報は展覧会を下支えする。下支えの情報を得た上で、鑑賞における美学的な判断はその下支えを回避するか?しない。


展覧会自体、鑑賞者を必要とするパフォーマティブなもの。鑑賞者を募らない内向きなものを、広報するなんていうのは共存しえない。

広報の結果、会場にひとが出入りする。作品を作り展示している者、そのギャラリーを運営する者、友人たち、迷い込んだ者、生徒たち、観にきたキュレーターやアーティストたち、コレクターたち、家族たち、アーツカウンシル東京たち、アートウォッチャーたち(他にも書けていない立場の人がいるな)。ドアから出入りし、それぞれがそれぞれの生活と知を引きずって入ってくる。それをいくらか解消したりしなかったりして出てゆく。そういう各固有の眼が作品を見る。それは鑑賞のベースにある。ギャラリーの中であれ外であれ、関係なく抱えている各固有の考えごとがある。そしてそれは鑑賞者の内で作品とくっついて内的に表現される。それが鑑賞(それを言語化して再表象したものが感想)。

展覧会をみる=フィジカルに訪れて作品を見ることだけでない。作品は作品。広報で受け取った情報、下支えとなる構造。そういうものも合わさって展覧会はできている。構造的な問題に言及することは、構造を見ているからいえることだ。アーキテクチャーは展覧会のうち。構造と構成。