2022/02/15



 昨日は「死の予感」にて案山子の試作。あるものの寄せ集め。

配置する侘び寂びは気恥ずかしい。感覚に沿って物を組み合わせたり並べたりする(しかも美術で学んだお手前の出現を拒否しながら!)。剥き出しすぎる。初めからそこにあったものが美しく見えた瞬間に立ち合わせるみたいな在り方を取れたらいいのにな。それとも、さっき世界が明るくなったみたいな。。それはまあ、ただの理想だけども。

頭か顔をつけたほうがいい気がする。なにかしら、そう見える形で、、もっと試しまくりたい。

怖さのなかのグラデーションの話もした。きっかけは起きていない危険の予感でパニックになったことだが、この取り組みはそうでなくてもいいかも。そこから転がしてゆく(何を頼りにするのか?)「不気味」のエレガントさ、「怖い」の切なさ。怖いというピークは持続しないで通過する。だから切ない。不気味さは生理的感覚。鳥目線で案山子を見るとどうか?ずっと立ってる。案山子を作るときの子どもを可愛がることに近い楽しさ。なのに、出来たらすぐに哀愁漂うお爺さんみたい(なんとなくお婆さんではない)。