2022/07/10

選挙。住民票を移してないので選挙のたびに毎回帰省する。同じ県内にそのままある(渋谷へ行くより近い)。家族と政治の話をする、言葉の選び方がわかってきた。政治の話をするのに自分のイデオロギー全開にしなくても、政治家ができてることできてないことの意見交換をすればよかったのだ。どちらにつくとかそういう話でなく…なんでこれまでそのアイデアがなかったのか。第五の物心がついた気がする。女性の候補者が増えて、普通に選んたのが両方とも女性になった。お母さんに女性が増えてなんか不思議な感じがするし嬉しい、という言い方で、つまりフェミニズムの視点をイデオロギーは隠して素直に話したら、本当にそうだねと言ってくれて、伝え方じゃんって思った。弟には身近に起こった嫌なことを話して、そういうことが起こっている現場に遭遇したらやっちゃってるなと思ってほしい、と言ったりした。親しくて、前提が食い違う相手と、その親しさや相手に頼りながら話すやり方を開発したい。それがわたしに必要なアクティビズムなのかも。

BlanClassへ。眞島さんの「踊ります」をカメラの外で踊りながら応援、鑑賞。一票を一分にして踊る。踊ってくれるというのがわかりやすいと思って他の人に伝えるときにそう言ったり書いたりしてしまうけど、「踊ってくれる」ってなんか違う。「踊らせる」もなんか違う。「踊らせさすことができる」?投票の権利って、そもそも元々選挙制度があり、その制度に則って国民の代表になりたい人に投票をすることになっていて、それに迫られて、投票したり棄権したりして、代表になりたい人が当選したりする(投票率が0%だったらどうなるんだろう)。「投票しさせられる」?この国に暮らすのをそもそも積極的に選んでいるわけでもなく。でもここに住んで、投票の権利があって、無い人もすぐ近くにいて。参加型社会。むしろエンゲージド・ソーシャル?人混みをつくるのも巻き込まれるのもどちらもこの私…

 -作品成立条件を引き受けた(engaged)参加者は、自分の立場=投票”権利”の土台がある

-参加者の生と権利である「一票」を、参加者自身から引き裂かないまま、「踊らせさす」ことで一人の身体に集約する。

-そのとき「一票」は、〈個人の生と権利〉/〈集約先としての眞島さんの超個人的な踊る身体〉との両方に、党派的なイデオロギーを超越し(あるいは、保留してという方がいいかもしれない・・・)結ばれて、分有状態に置かれることになる。

-投票というのが、何をする目的なのかをよく考えることになる。眞島さんの「踊ります」に〈参加させられさす〉ことは、あらかじめ敷かれたこの選挙制度というものの構造を見つめる物差しを持つことでもある。。


言語の取り回しが難しくて書けないがとりあえずメモ・・・この国で参加型のアートをやるということを、だれか一緒に考えて言語化を手伝ってほしい。。