2023/11/01



 千代田線を使うようになって、行動範囲を広げやすくなった。今日は午後から東京駅に行った。丸の内は街の隅々まで資本の目が行き届いている。私はナイロンのパーカーを着てリュックを背負い歩いている。カバンの中にはウルトラライトダウンが丸めて入れてある。観光客みたいだな、と窓ガラスに映った自分を見て思う。

シェア、贈与、などについてもっと考えておく必要がある。準備の時間切れも近い。

覚書 a.良い方法はきっと自分の中にあるのではなく、たとえば空間とものの配置の方にある。何年も使うのでなく、今使って次の時にはリメイク、アレンジ、カスタマイズすることが前提となる仮置きの配置は、次の機会の時に動かしやすいように置いておくことがその設計における唯一の指針のようなもので、あとはどんな形であれ構わない。

覚書 b.シェアとはたとえば受け取る側でアレンジを加えて使うことが前提になるものである(だからめんどくさい)。工夫が加わるので、だから減らない。増えて、また戻す。受け取るだけじゃなくて戻すという動作が重要だと直感している。問題は何を戻すかなのだが…。

覚書 c.シェアとはたとえば、プレゼントすることとは異なる。シェアはされるたびちょっとずつ内容を増やしながら増えたところが盛り上がったりして、有機的に動き続ける。だからあげてしまうプレゼントや交換のようなピストン運動とは動き方が異なる(のではないか)。「プレゼント」とはどういうことか………


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齋藤君と待ち合わせて、エルメート・パスコアール・グループのライブを観る。豪華に演出された場所に、チケットを持って入ってもなんだか身の丈に合わないという感じがしたが、始まってしまえばわたしではない。齋藤君は体が痛いようだったがそれも演奏の間消えたようだった。座って前を向いて何かを見ている間は体が消える。

エルメート・パスコアールたち。めちゃすごくてすごくてすごいすごい。なんでまとまりが感じられるのか本当に不明だ。みんなめちゃくちゃやってるように思え、きっと本当にめちゃくちゃやっているのだとおもう。アレンジ、カスタマイズ、DIYのようなことを演奏の端々に仕込んでいるという意味で。それから、人の分まで引き受けてめちゃくちゃやるというのもあるかもしれない。あるいは穴だらけに演奏すると、そこに誰かがなんかのリズムを放り込む。その連打の並走が、たまに盛り上がりの波とか、合言葉的なフレーズ(音階がふらふら、あるいはばっちりと集まる溜まり場)が機能することでユニゾンしたりして構成を感じさせてくれる(受動態で書くことが大事な気がする)。それでわたしは、そこで、ウワー!と思いつつ、一息つくことができる。

電車の中でカバンを開けると、お土産にもらった黒豆茶の香りがした。

「想像できますか、犬や猫と一切関わりのない生活」と聞かれた。おもしろい。