2023/11/05

 危機のなかでは芸術どころではないというツイートを見かける。危機の想像もつかないからよくわからない。知ることはできても。危機の中でも詩がいくつも生まれてきたことを知っている。展示をしたり見にいくとかは無いだろうけども。

私なりに真摯に突き詰めているつもりだが、作品がうまくいかない。とにかくやってみるのが大事ではある。人のことをあまり手伝いすぎるのはよくないかも。学びはあるけど、人のことだと責任も持てないし、作品のもとで行われる自己開示の現場につきあうのは、当事者間で合意が取れていても目の当たりにするたびに戸惑う。共感は自家中毒を引き起こす。適性があっても、それがうまく機能していても、それがいいことなのかはいまいちよくわからない。作者も鑑賞者も喜んでいるならいいのか、、?

今日はデモに行かなかった。他の人がデモに行っているのを心の中だけで応援する。デモ。このささやかな支援を蔑ろにされたくない。(公立美術館のキュレーターや国公立大の教員は公務員扱いなのだろうか。公務員がデモに行けないのはおかしい)

デモがイケてて楽しいみたいな広報をみるとそんなデモがあるのか…?とおもうが、あるのかもしれない。私が知っているデモは、いろんな人が同じ意見ではないなかで、それぞれが切迫した部分のみを持ち寄って同じ場所に立っている。それが何千人もいる。行くだけで「バランス」とか無いなって思い知らされる。私の知っているデモはそういうものだ。だからこそ行くのだけども。で、今日は行けませんでした。デモって数の問題ではないし、数とかからだの不在に注目してなんか考えるのはいろいろと間違いが起こりやすい。生を数えないで…