2021/09/05

 浅田さんと打ち合わせ。

子供の頃にトイレに貼っていた世界地図と国旗のポスターのことを話す。他にも色々と(備忘録:動画の目=手の動きを粘土でトレースa.k.a犬古粘土)話したけれどまずは地図。チリは長い。15cmくらい。長くない!手で届かないくらいには長いという縮尺と身体の大きさのギャップ。「チリは手のひらの端から端で届かない程度に大きく」、「日本は親指に収まるほどに小さい」。「私の額はロシアが覆えるくらいに広い」。世界地図を(あの平べったく処理したメルカトルだかなんだかの図法による)自分の体と照らし合わせて大きさを把握する日々。そして歩く。私が思う「それぞれの頭のおかしさ」を浅田さんは執着とか切実さと呼んでいて、ああそうやって言うと上品だなとか思った。例えば絵を描く人がもうなんでそんなことをよりにもよって絵で?というようなことをそれでも絵でやるということ。なんでよりにもよって、というところの説明をウダウダとする前に絵を描くことや、なんでよりにもよってこんな日記なんて書いてというようなことを、聞きたい人もいるだろうし話せなくもないけど話さなくたっていいし話せなかったとしてもどっちでもいいんじゃないかなとか、なんでそんな妙なところに住んでとか、なんでそんな変なことに首を突っ込んでとか、聞きたい人もいるかもしれないし話せなくもないけど話さなくてもいいし話せなかったとしてもどっちでもいいなと、最近は思う。企画書を書いて、説明したりピックアップされたり、グローバルなアーツなアクティビティに全てが結びつくような表現が善いとかされているふうに見えるけどその傾向と対策みたいなキャラ付けを背負って立つような「わたしらしさ」の強さを表明しなくたって、その求められる価値観の上で表現を行わなくたっていいのに、なぜだかみんなアクセスのいいインフォメーションばかりに気を取られる(それが必要な時もある)のはとても貧しいことなんじゃないのかと思うし、能書きと裏書きに全部あるみたいなものや、そして既存の美意識に基づいた見た目の美しさへの疑いがある。まあとにかくへんな活動がしたいものだな。