2021/09/09

 年商をプロフィールに書く系のひとたちがしきりに「コーチング」とか言ってるらしいというのを見た。対馬で自分の大学での仕事についてteachingでなくcoachingのほうがちかいかもとダジャレのつもりで言っていたので語句の一致に鳥肌が立つ。おもえばたしかに、自分のやっていることを「意識高い系」と揶揄することもできるかもしれない。なんかそういうやっかみはありうる。でもいいのだ。わたしは親ではないし。子でもないし。家族的役割の薄い人間。地元とか田舎とか、べつに田舎ではなかったけど、あの鬱屈としたところで、自分の考えとかやってみたいこととかをやるというのはすごく難しいことだったな。できるだけ何もやらない。枠の中で一番になろうってかんじで、そんな環境にいたから「意識高い系」とかみたいなルサンチマンと共鳴して自分もその呪いの中にいるままになっちゃうのかもしれない。そういうのから転生したい。これからもなにか告知をするたび、このドロっとした後ろめたさみたいなものがずっとくっついてくるのだろうか。もしかして何もやってないのに何かしたふうなことを言ってるのではないかとずっと不安だ。