2023/07/13



久しぶりに夢小説を書いて投稿した。他の人が書いたのを読むのも久しぶり。恋じゃない夢小説を次は書きたい。キャラの独り言みたいなもの、日記のような…水星の魔女のエランの独白小説が書けたらめちゃくちゃ萌えるだろうな。遊びでも仕事でも制作でも文を書きまくってる。

ドラマ。カメラ。台詞。台詞ってなんなんだろうな。話を進めるためには文全体の人称を固定する必要がある。台詞以外は一人称のカメラで時間と空間を移動させる。それが物語を運んでいく動力になる。映画とか、漫画とか絵がついているものはその分、カメラの人称がフリーになる。漫画からメディアミックスされたものは、ナレーター役がするナレーションとか、カメラがフォーカスしたキャラの心情とか。

夢小説の多くは説明描写はそこそこに、台詞のかけ合いで描かれる。確かにそうすることでカメラの人称が限りなくフリーになる。夢小説は名前を自分に入れ替えたりする。〈わたし〉の位置を乗り換えられるものとして、それでいて身勝手に作られる。めちゃ重要なアイデア。

美学校の仕事でそれぞれの授業の内容を知りたくてきいた、ある授業についての私のメモ:現代美術に寄せない。とにかく作ってみることで何かを理解、確かめる。悩み、関心を深掘りして形を与える。個人的な問題。「身近なところの建築」(自分の体のサイズを基準にした住宅。生活の中から使用者自身に響く、「身近な」形と作用を見出す。)

身近なというときのカメラの振り回しは、インカメなのか、外カメなのか、監視カメラ的なものなのか。先日のRAUで参加メンバーの方(名前忘れてしまった)は三脚を立てずに一眼レフを胸に構えてしゃがんでじっとしているスタイルで撮影していた。監視カメラではなく。なぜか透明なカメラみたいな感じだった。身体とカメラ、どこへ。高嶋さんと中川さんの映像作品も思い出すところ。

三宅さんは登場人物たちの温かな視線と同じように主人公を撮ることができたらというようなことを言っていた。

カメラ、事の次第(という訳し方天才)についてまわる人称の問題をわたしはどうにもせずにこれまでやってきて、パフォーマンスだって、なんで自分でやるんですかとか言われてもそんなこと知らんと正直思う。金沢の個展でやったことは、夢小説的なことだったのかもしれない。制作主体をフリーにする。

夢小説のほとんどは絵のない漫画みたいな感じで、台詞の応酬で大部分が構成されたものが多い気がした。論文のような文はそもそも「私」というのをほとんど書かないし、詩は抽出した結果、人称を超えてその文に制作されている心の動きがそのまま読み手のものになるような。心のありどころかオープンになっているというか。あなたの心、わたしの心、とならずに。それから、文字が文字にとどまっている。できごと的な時間のうねりに乗って行かないで、文字とイメージがその間にある説明描写をスキップ、いや、というよりも一瞬にしてワープする。磁石みたいに吸い付く?ワープ先の座標を決めるのが、後天的心?みたいな、、

夢小説で詩を書くのは最も遠いのかもしれない。作用が方法になっているから。自分がやっていることをどう理解したらいいのだろう。眼差すことのできる何かが欲しい。