2024/03/05

感覚がひらけたような不思議な感じ。そして少しだけ寝る。陽の光の差し込んだ明るさを感じて起きる。眠りが浅いためにここのところ記憶が夜から引き続いて始まる。よって日記も夜から始まる。

何かを深く愛するということ。資本主義経済は人がなにか特定のものに過大な愛を注ぐことを禁じ、次から次へ異なるものへ興味が移るように設計される。立ち止まり、考え、こだわりを持つこと。愛することそれ自体の反資本主義性(生活がクレカに支配されていようとも)。ただ資本主義をボイコットするとかではなくもうひとつ軸を作る。ふたつの軸からなる楕円のような世界。

美学校の講座「アートに何ができるのか」に参加したことをきっかけに、資本主義経済と贈与についてをキーにして、いろいろ勉強する一年間を過ごしている。もう3月になってしまった。はやい。

「色んな(社会的な)問題」に次から次へ関心を持つことを強制させていくことは(ツイッターは社会的イシューを消費対象物化した。ゆるせん)本当に重要な問題を見えなくさせる何か陰謀のようなものを感じる。愛を注ぐこと。私はよいマルチタスクをしたい。序列なく。たくさんの問題は、私の元でマッシュアップされる。それぞれは個別でありながら、同じ世界にあって、それでその世界を存在させる理由として、私の感性へかえる。聞いてもよくわからないような大きな音。聞くということの態度を変えていくこと。

なくなってはいけないものをそのまま作品にする。
あるいは覚えておく。わたしができる、世界への贈与だ。贈与のことを学んで本当によかった。
天皇のいない日本は、どのような国だろうか(ほんと早くなくなれ)とかみたいな問いを(まあそういう社会的な問題に根差したものでなくてもいいのだけど)世界の中に立てる。これも贈与。世界がベースになる。好きでやってるっていうか、そうでないと生きていけないっていうか。そういう人がいるということを記録し証明するもの(絵の内容の「クオリティ」みたいなのは問われない)。そういうもの全てをアートとよぶ。としてみる。

白川さんが美学校の授業にゲストで来てくれていろいろ聞くなかで、作品を何個も作るということはそのたびに世界を作り直すことだとはっきりと言っていて、まじで尊敬した。たとえば何度も同じ名前の展覧会を続けることは、その度に世界を作り直すことだ。それは過去の否定ということではなく。異なる世界が見えるようにひらいてやるということだ、というと普通のことのようだけれど。

「わたしは参加型のパフォーマンスや、ワークショップのような作品を作るのですが、そのような場に参加する人たちは、なんで参加するのだろうと考えています。白川さんと荒谷さんはなんでだとと思いますか。」と質問した。すると、関係の場をつくる=参加を成立因子とする→贈与が可能な空間を開く。みたいに言われた。なるほど。まあ普通のことかも?でもそうだな。他の人が言葉にすると納得感がある。だれかと何かするという欲望は、贈与が可能な空間を開くということだ。ここで語る贈与は自分の言葉として使いこなせるレベルにある気がする。でも、参加者に自分を含む私にはもう少し違う部分もある気もするなあ。
作品にするということは、参加の中でやりとりされる了解のまとまりが、何か新しい言語となって、(ローカルな)(一時的な)(しかし鑑賞のモードによって永続的なものとなる)違う世界をつくる。これはそのまま転移と贈与の話につながるのだろうか。大事そう。バミっとく。

やらないといけないことをずっと後回しにして好き放題考え事してる。楽しい。私が楽しいということも、間接的には社会に対する贈与であるな(唯我独尊すぎてワロタ)。