2024/03/27

 仕事して部屋の掃除して洗濯して変な時間に(16:00)風呂に入った。借りた服を畳む手が優しい。

ずっと、生きている間ずっと、日記を書き続けてみたいと思ったのは、「パレスチナのクィアたち」の日本語訳のnoteを読んだからだ。https://note.com/bashir/n/naf300476df75


「ほんのちょっとしたなんてことのないやりとりの中で、私たちは意味深な視線を交わした。でもそれで、自分達が本当は何者なのか、私達は気付いた。たとえ数秒だったとしても、真の姿を見てもらえて、解放された気分だった。」ナーブルス(「パレスチナのクィアたち:Queering Map パレスチナ/イスラエル 抄訳」より)


すごいよね。。解放という言葉の手触り。ありありとした感じ。


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齋藤君に日記本のタイトルを相談した。好きなところ、覚えてるところの中から2023/08/02と2023/11/09と2023/06/11を取り出してくれた(多分)。ふーん。。気づくと「堂々巡りな暴虐さに支配された音楽祭」に参加する話になる。ステージというものの性質が「堂々巡り」という言葉に集約されてる気がした。


日記は巡らず絶え間なく(もしくは絶え絶えに)増える。或る時に止まる。そしてたまに思い出される。私がいつ死ぬのかはわからないけれど、そのなるべく直前まで日記を書いていられたらどんなふうだろう。それを読みたい(けれど死んでしまう)。墓は巨大な日記帳に。私の生はそのまま文に形を変えて生き続ける。質が量になり、それでまた質として再現される。なんてね。

人間は死ぬ、私は死なない。君も死なない。いつか私たちは人間じゃなくて、名前や文や作品や踊りや現象に存在を変えて、いつまでも生きてゆく。去った者の痕跡としてではない。私は墓ではない。霊でもない。

人間は死ぬ、僕は死なない。君も死なない。いつか僕たちは人間じゃなくて、名前や文や作品や踊りや現象に存在を変えて、いつまでも生きてゆく。去った者の痕跡としてではない。僕は墓ではない。霊でもない。


僕という人称は、ごく個人からの訴えかけるような感じがする。他でもないこの僕。なぜだろう。

僕、と自分のことを呼びたい時がある。

私という人称は、一般的な私性に及んで、この私個人をはみ出した範囲を指し示すような気がする。私という主語は異なる私へと移っていく。私。

その私が、「死なない」ということ。