2021/08/24

  対馬に初めてきてから5年が経った。5年も経つと、最初の年に会った時小学生だった子が高校生になっていたりする。集落の外へ出る欲望と機会とに折り合いがつかないとか、なんかとにかく辛そうという噂が聞こえてくる。久しぶりに会うのでどう話し始めたらいいかなと伺っている感じがして、大人になったんだなと思ったとNさんが言っていた。よそからひとが来て、映画とか音楽とか普通の絵画展みたいなものとかを選択して受け取ってゆく文化機会をすっ飛ばして現代美術(的なもの)に触れるってどんな感じなんだろうか。夏になると家の隣に美術家という人たちがやってくるのだ。うーん奇妙。
 私の経験をもとにするならば、現代美術は意識してから触れることになるような、「知らないと見れないもの」として位置付けられる。もちろん知らないうちに受け取っている可能性もあるけれど、ばらばらのことがたくさん起きるような人生において発生した感性をすべて現代美術や作品の成果に結びつけるというのはおかしい(だから、目[mé]のするような表現や主張は私にとって到底受け入れられるものでは無い)。パッケージングの範囲を見誤り、成果として手の及ぶ範囲を超えて責任の持てない「あるかもしれない(無いこともありうる)」に言及するのは、「無いことも含めて観察せよ」というときの「あるのに見えない自身のバイアスを取り払うためのイントロダクション」とは異なる。「あるかもね、でも無いかもね、あったらいいね(あったらいいね、にディレクションが切られていることが問題だ)、素敵だね、素敵な出来事はこの作品のおかげで起きたのよ」というようなことは、なんかすごい仕掛けのある作品というわけでもなく、範疇をただ単に見誤っているとしか思えない。
 わたしの現代美術の原初体験は予備校に置いてあったシンディ・シャーマンの作品集であった。ふざけたひとだなあと思った。シンディ・シャーマンの作品を知れたことから私の人生はかなり変化してきたように思うけれど、素朴さや無知とアートの重なり合いが鍵となって人生の水路が開くような体験は、作品がきっかけになったとしても作品とわたしとの間に起きた私の変化であって、シンディ・シャーマンの作品の中に含まれているわけでは無い。私の人生をシンディの作品に明け渡す気は一ミリもない。私の人生におけるある部分を明け渡すということと、例えば作品を所有するということとは全く違うことだ(目[mé]が何をどうしてそんな新興宗教的説得の仕方を試みたのかさっぱりわからない)。認知の歪みみたいなものを肯定し、「あの人は私だ」とか「これは私に対してまさに語りかけている」という受け取る側の解釈のあり方を個人的なものではなく公然のこととしてしまう立ち回りや、特定の人や出来事を指して「誰か」とか「何か」とか呼んでしまうことは、飛躍するようだけれど、京アニの事件のようなことの肯定にもつながってしまうんじゃないかとか思う。消費性、鑑賞性、生産性、制作性、創作性を均一にならしたり(それも別にいいことではない)、越境させるように見せかけて、本来なら消費者のやり方でクリエイティブに振る舞えるはずの消費の在り方を、当たり前に発生する「違うやり方」を搾取して狭義の消費に収めてしまう。ただただ、そういう鑑賞者を管理したい的なことなんじゃないかな〜やだな〜と思った。

菅原伸也さんによる「目[mé]」の2つの展示についてのレビューと、2021/8/23にtwitterにて行われた田中功起さんと南川賢二さんのやりとりを見て思ったこと。。
途中から全然日記じゃないね。