2021/8/20_twitterより(集まるとか集めるとか)

 2021/8/20にツイートした、荒木夏実さんが執筆した記事についての意見をここにまとめておく。誤字脱字等について修正した部分もあるし、所々大幅な加筆をしています。元ツイートのスレッドはこちら

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 荒木夏実さんの記事読んだ。荒木さんが指摘していた、天皇制を掲げた男性ばかりのグループ展に紅一点的に配置した在日アイデンティティをもつ女性という構成は、椹木さんのジェンダーへの関心の無さなんかではなくむしろ計算し尽くされた(かなり嫌な感じの)キュレーションなのでは。と思った。

 (2021年2月号の美術手帖の特集にあった当該展覧会の参加作家座談会の記事では、ほかの登壇者と比べ李晶玉さんばかりが(自身の危険を伴いながら)フェアでない役割を担わされているように私には思えた。ほかの人が経歴を背負ってきていることに対して、わたしには李さんが「多様性枠」的なものをひとりで担わされているように思えて仕方なかった。アイデンティティばかりが目立つ構成になるのは、もちろん本人ではなく、構成する側の配慮の問題だ)

 「集まると目立つ」とか、コレクティブを紹介する展覧会に女性が取り上げられないことを指摘するなかで、「グループとして活動する女性は少ない」と書くということに対して、キュレーターのリサーチが明らかに足りていないことに由来する問題を、アーティストになすりつけている?!と思った。選ぶ選ばれる的な権力構造の強化ばかりがキュレーターの仕事でないにしても、 それでもキュレーターが選ぶ側をやるという役割を担っているのならば、アーティストが作品を作るように、美術史家が過去の時代を研究するように、キュレーターは同時代における人事的リサーチをまじめにやるべきなんじゃないのかとつくづく思う。ていうか、美術とかムーブメントとかにたいして、キュレーターとははたしてそんな外野的な立場なんだろうか。(違うよね?!)
 女性は集まっているし、リーダーシップを取ることや集まることと女性は親和性無くない。集まることにジェンダーは関係ない(全く関係ない)。女性たちの集まりについては2021年美術手帖8月号の内海さんの論考を読むとよくわかると思う。それぞれの活動をひとつひとつみれば「グループとして活動する女性は少ない」ということにはならないはずだ。わたしたちは集まっているから。

 荒木さんのテクストの全てを否定するわけではない。荒木さんが批判した「ホモソーシャルな平成美術および平成美術展」というのには概ね同意するけれど、ホモソを批判しながら椹木さんが「選ばなかった」女性たちを指して、いないとか、少ないとか、向いていないとか書き下したり、集まることやリーダーシップに対してジェンダーが関係あるような考えを私は批判する。集まりが起こりづらい、ピックアップされづらいという状況があると思うのならば、それがどうしてなのかを書くべきで、そうではないからあのような文章になったのだろうと考える。女性アーティストをもっと知りたいという欲求のもとに私たちはfemale artists meetingを始めた。そこには平成のホモソーシャル的な男性たちの集まりのあり方への批評的な立場がある。書き方が難しいけれど、男性を含めて、集まることに対して当人たちのジェンダーを指摘するのはおかしい。それぞれの居心地の良いコミュニティがある(そうではない場合もたくさんあり、どう別のレイヤーを設け違う世界にするかということがfemale artists meetingの取り組みの中心にある)。
 集まることにではなくて、集めることを行う時に、ジェンダーギャップが発生しているんだよと大きめの声で言いたい。予算配分の中で、女性にどれだけお金が渡っているかみるとよくわかるなといつも思う。
とにかくもやもやする。モヤモヤするっていうかすごく嫌。

補足:李晶玉の作品を前にすると、政治的立場やアイデンティティを引きずらないで作品を見ることの不可能性がありありとするなといつも感じる。作品によって私の生が引き出され向き合うことになる。これは「突然、目の前がひらけて」にも共通する。のっぴきならない、ここにある/これからもある/みんなが持っている生というものをいかに見つめるか。当然、作品は作者のアイデンティティや時代性を含蓄する(キャリアは全く関係ない)。