2021/07/08

 雨

雨に腕を濡らしながら帰ってきた。幸福。あの幸福さを文章の中につかまえておけたらいいのに。やわらかくて、腕を濡らすのがとても気持ちがいい雨だった。帽子をかぶっていたから頭が濡れなかったし、日除けのツバで顔も濡れない。頭と顔は違う。頭は四角いし顔は崖みたいに切り立っている。目と鼻先との正三角形になるくらいの位置にある部分で物を見ている(私自身は基本的にそのあたりにいるような気がする)。腕が濡れて気持ちがいいとは、草に水をあげたときと同じように外にあるような感じで、私がそれを見て共鳴しているというほうがあっている気がする。気持ちいいことは共有する必要が全く感じられない。痛覚を通したものではない気持ちよさ。しかし足元が濡れる心地悪さは私の範疇にあるように思える。理由のあることだからかもしれない。服が濡れるとか共感できるようなこと。身に起こる「非―快」の現れにあわせて私なるものが部分的に発生している。私なるものが介在しない時の方が生に没頭できているということなのだろうか。生は快も不快も指さない。私という存在に向かうことは、生という現象から離れていくことのように思う。aliveではない(生とは死を対置している言葉を意味していない)。いまのところはもう魂としか言えないかも。

 ファシリテーションのような複数人を扱うということは、水面に石を投げてどんな模様ができるかみたいな感じでありつつ模様を作るみたいなものであって、その石の投げ込みかたを試していくことがファシリテーションなんじゃないかと思う。集まりがどんなものかということは模様よりもむしろその石の投げ込み方に表れていて、ひとびとの集まりと模様の布置は石の投げ手によってではなくひとびとの集まりによって決まる(この石の投げ方を試すたびに私なるものが呼び出されているように思えて仕方ない)。私なるものの発生という点において、身に起きた非―快と結びつけるのならば、ファシリテーションはケアであり、何かの世話をするということで身体を拡張しているようでもある。わたしにとって他者を巻き込み参加させてまで自分だけでなく複数人で身体のことを考えて実験する参加型作品をつくるということはつまり、こういうことなのかもしれない。